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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十一章 言えるだろうか――見えないままのふたりの心
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第一百一十四話

---


石原は、自分がどうやって家まで帰ってきたのか分からなかった。


記憶は、切り刻まれたフィルムみたいにぶつぶつと途切れていた。

林のベンチ。膝の上の、置き去りにされたノート。

耳に残った、途切れた「ごめんなさい」。


それから、通り。信号。

自動ドアが開いたり閉じたりする、低い機械音。


気がつけば、もう家の玄関に立っていた。

手には、まだあのノートが握られていた。


リビングからテレビの音が聞こえてきた。


杏はソファにあぐらをかいて座り、半分に切ったスイカを抱えていた。

スプーンで果肉をすくっては、三日月みたいな形にえぐっている。


「おかえりー、お兄ちゃん」

顔も上げずに、語尾を長く引いて言った。


「今日、ずいぶん遅かったね。そんなに長いデートだったの?」


石原は「ん」とだけ返し、視線を落としたまま靴を脱いだ。

――さっきの返事の語尾が、まだわずかに震えていた。


杏の手が、ぴたりと止まった。


ゆっくり顔を上げ、兄の背中を見る。

何か言おうとして、口を開きかけた。


スプーンがスイカの上で止まり、ひとしずくの甘く冷たい果汁がローテーブルに落ちた。


「……お兄ちゃん」


石原は振り返った。

「どうした?」


その表情は、ひどく落ち着いていた。

落ち着きすぎていて、かえって何もなさすぎるくらいに。

杏は二秒ほど、じっと見つめた。


「……ううん、なんでもない」


スプーンをスイカに戻し、視線を落とした。


「晩ごはん、冷蔵庫に入れてあるから。

お腹すいてたら……やっぱり、私が温めるね」


「うん、ありがとう」


石原は自分の部屋に入り、ドアを閉めた。


杏はリビングに一人残る。

閉まったドアの音を、じっと聞いていた。


テレビではバラエティ番組が流れ続け、笑い声が、何度も何度も重なっていた。


杏は視線を落とした。


スプーンが刺さったままの、ぼこぼこにえぐられたスイカ。

柄がわずかに揺れていた。


それ以上、何も聞かなかった。


---


【十月一日・火曜日】


新学期最初の日。


石原はいつもより十五分早く起きた。


洗面台の前に長く立ち、冷たい水を何度も顔にかけた。

肌が引きつるほどの冷たさだ。


鏡の中の自分を見つめた。

もう目元に赤みはなく、何の痕跡も残っていないように見えた。


何度か表情を作ってみた。

――ただ、誰にも心配されないための表情を。


朝食は杏が作ってくれていた。


トーストはちょうどいい焼き加減で、端は少しだけこんがりと、中はまだやわらかかった。


杏はエプロン姿のまま、キッチンを忙しなく動き回っていた。

どこか、真面目な小さなスズメみたいだ。


「お兄ちゃん、ジャムいる?

あと牛乳、温めてあるよ」


「ありがとう、杏」


杏は牛乳の入ったコップを彼の手元に押しやった。


それから何でもない顔で席に戻り、トーストをかじる。


二人とも、何も言わなかった。


窓から差し込む朝の光が、テーブルの上にやわらかな金色を広げている。

昨日も、その前も、何度も繰り返してきたありふれた朝と、何ひとつ変わらないみたいだった。


石原は牛乳を飲み干し、立ち上がって鞄を手に取った。

「ごちそうさま」


「うんうん」

杏はそう返して、少しだけ間を置いた。


「気をつけてね」

その声は小さくて、何かをそっとしておきたいみたいだった。


石原は玄関で立ち止まり、振り返る。


杏はうつむいたまま食器を片づけていて、表情は見えなかった。


「……うん」


石原はそのまま外へ出ていった。


---


マンションの下には、十月らしい、夏の終わりと秋のはじまりが混じったような涼しさが漂っていた。


エントランスの前に、一人の人影が立っている。


緒山の母親だった。

落ち着いた色合いのカーディガンを羽織り、小さな保温バッグを手に提げていた。


石原の姿を見て、少しだけ目を見開いた。

それからすぐに、申し訳なさそうに微笑んだ。


「おはよう、石原くん」


石原は足を止めた。

反射的にその背後へ目をやるが――誰もいない。


「おはようございます。緒山は……」


「朋奈、今日は少し具合が悪くて、お休みの連絡をしているの」


母親の声は、ひどく静かだった。


「待たなくていいって、あなたたちに伝えてほしいって言われていて」


そう言って、保温バッグを差し出した。


「それから、これも……朋奈に頼まれたお弁当。

この前、杏ちゃんからいただいたお土産のお返しだそうで。

本当はそんなことしなくていいのに、あの子、こういうところだけ妙にきっちりしていて」


石原はそれを受け取った。

布越しにも、まだわずかな温もりが残っていた。


「……緒山は、大丈夫なんですか?」


思わず口をついて出た。

自分でも驚くほど、思っていたよりずっと切迫した声音になる。


緒山の母親は、彼を見た。


その視線は穏やかだった。

ただ、目尻がわずかに下がっていて、息づかいまでひどく静かだ。

石原に向けられたその目の奥が、ほんの少しだけ暗くなった。

何かに、そっと押さえ込まれているみたいに。


「大丈夫よ。少し休めば、落ち着きますから」


少しだけ間を置いた。


「石原くん……朋奈は、あまり自分の気持ちをうまく言葉にできない子なんです。

もし何か、あなたを困らせるようなことをしていたら……どうか、あの子を責めないでやって欲しいの……お願いします」


その声には切実な響きがあった


石原は首を横に振った。


「彼女は、俺に許してもらわなきゃいけないようなこと、何もしてないです」


視線を落とし、手にした保温バッグを見た。


「足りなかったのは……俺のほうです。ちゃんとできなかっただけです」


母親は、何も言わなかった。

しばらくして、そっと息を吐いた。


「それじゃあ、私はこれで。学校、気をつけて行ってきてね」


彼女は背を向けた。

その後ろ姿は、どこか頼りなく見えた。


数歩進んでから、足を止める。

振り返り、もう一度石原を見た。


石原には、その視線の意味が分からなかった。


---


新学期初日の学校は、いつもの朝と何も変わらなかった。


廊下では久しぶりの再会に声をかけ合い、教室では夏休みの話題でざわめいていた。


日焼けしたやつもいれば、髪型を変えたやつもいた。

旅行先の土産を配っているやつもいた。


チョークが黒板の上できしむ音を立て、担任の声は背景の雑音みたいに、ぼやけて遠かった。


石原は窓際の席に座り、黒板を見ていた。

だが、視線に焦点はなかった。


時間が、逆戻りしたような気がした。


まだ生徒会に入る前。

あの林で、泣いている少女と出会う前。


あの頃も、こうして座っていた。

人の中にいながら、何も聞こえないままだった。


――いや、違う。


あのときの世界は、ただ静かな灰色だった。

今は違う。

そこに色があったことを、もう知ってしまっている。


だからこそ、それが引いていくのが分かる。


潮が引くみたいに、静かに、足元から遠ざかっていくのが分かった。


「おい――石原」


肩を軽く叩かれた。


石原は我に返って顔を上げた。

前の席の小野が、椅子の背にもたれ込むようにして振り返り、じっとこちらを見ていた。


「どうしたんだよ。朝からずっと、魂抜けたみたいな顔してるぞ」


「……別に」


「嘘つけ」


小野は目を細めた。


「その顔、知ってるわ。

俺去年振られたとき、まさにそれだった。黒板に穴あくんじゃねえかってくらい見てたし」


石原は言葉に詰まった。


その反応を見て、小野の目がぱっと光る。

声を潜めて、ぐっと身を乗り出してきた。


「マジでなんかあったのか、書記様。

誰だよ。俺の知ってるやつ? まさか隣のクラスの――」


「違う」


石原はため息まじりに遮った。


「ほんとに何もない。ただの休みボケだ」


小野は数秒じっと見つめた。

やがて諦めたように体を戻した。


「はいはい、休みボケね」


肩をすくめた。

それから振り返る直前、ひと言だけ投げた。


「じゃあさっさと学校で甘酸っぱい恋愛でもしろよ。そういうのには、それがいちばん効くぞ」


石原は何も言わなかった。


小野の背中を見つめ、ほんのわずかに、口元を動かした。


その笑顔がどれほど無理をしているかは、自分だけが分かっていた。


---


昼休みまであと十分。

机の中で、スマホが小さく震えた。


石原はグループチャットを開いた。


グループチャットには、春野のメッセージが来ていた。

「昼、生徒会室に来て。ちょっとみんなに相談したいことがある」


「了解! 私と杏ちゃん、食堂でご飯買って持っていきますね」


「了解です。何の会議ですか?」


「うん、新学期の仕事の調整とか。

みんな揃ってから話すよ」


石原はしばらく画面を見つめたまま、スマホを机に伏せる。


そのまま、視線を落とした。


---


十二時十五分。


生徒会室のドアを開けると、中には一人しかいなかった。


春野は窓の外を見たまま、じっと何かを考え込んでいた。

ガラスに映る横顔は、いつもより静かに見えた。


ドアの音に気づいて、春野が振り向いた。

「来たか」


石原は部屋を見渡した。


立花の鞄は椅子の背に掛けられていて、杏のカップからはまだ湯気が立っていた。

花野のノートパソコンも机の上に置かれていた。


なのに、誰もいなかった。


「みんなは?」


「杏ちゃんと立花が、ご飯冷めちゃうから、買った後で外に食べに行ったって。お前には俺から言っとくようにってさ。」


春野は少し間を置いた。


「花野は午後に個別指導があるからな。昼は来られないらしい」


石原はうなずき、入口近くの席に腰を下ろした。


生徒会室は妙に静かだった。


窓の外の蝉の声は、真夏よりずっとまばらだ。

近くなったり遠くなったりしながら、どこか気の抜けたように響いていた。


斜めに差し込む陽射しが机を照らし、空気の中の埃をゆっくり浮かび上がらせていた。


しばらく、沈黙が続いた。


「春野。会議って言ってなかったか」


春野はすぐには答えなかった。


ただ、石原を見た。

その目は静かだった。

けれど、どこかいつもとは違う、言葉にしにくい重さを帯びていた。


「……石原」

春野の声は低かった。


「お前に話しておきたいことがある」


窓の外の蝉の声が、ふいに遠のいた気がした。

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