第一百一十四話
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石原は、自分がどうやって家まで帰ってきたのか分からなかった。
記憶は、切り刻まれたフィルムみたいにぶつぶつと途切れていた。
林のベンチ。膝の上の、置き去りにされたノート。
耳に残った、途切れた「ごめんなさい」。
それから、通り。信号。
自動ドアが開いたり閉じたりする、低い機械音。
気がつけば、もう家の玄関に立っていた。
手には、まだあのノートが握られていた。
リビングからテレビの音が聞こえてきた。
杏はソファにあぐらをかいて座り、半分に切ったスイカを抱えていた。
スプーンで果肉をすくっては、三日月みたいな形にえぐっている。
「おかえりー、お兄ちゃん」
顔も上げずに、語尾を長く引いて言った。
「今日、ずいぶん遅かったね。そんなに長いデートだったの?」
石原は「ん」とだけ返し、視線を落としたまま靴を脱いだ。
――さっきの返事の語尾が、まだわずかに震えていた。
杏の手が、ぴたりと止まった。
ゆっくり顔を上げ、兄の背中を見る。
何か言おうとして、口を開きかけた。
スプーンがスイカの上で止まり、ひとしずくの甘く冷たい果汁がローテーブルに落ちた。
「……お兄ちゃん」
石原は振り返った。
「どうした?」
その表情は、ひどく落ち着いていた。
落ち着きすぎていて、かえって何もなさすぎるくらいに。
杏は二秒ほど、じっと見つめた。
「……ううん、なんでもない」
スプーンをスイカに戻し、視線を落とした。
「晩ごはん、冷蔵庫に入れてあるから。
お腹すいてたら……やっぱり、私が温めるね」
「うん、ありがとう」
石原は自分の部屋に入り、ドアを閉めた。
杏はリビングに一人残る。
閉まったドアの音を、じっと聞いていた。
テレビではバラエティ番組が流れ続け、笑い声が、何度も何度も重なっていた。
杏は視線を落とした。
スプーンが刺さったままの、ぼこぼこにえぐられたスイカ。
柄がわずかに揺れていた。
それ以上、何も聞かなかった。
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【十月一日・火曜日】
新学期最初の日。
石原はいつもより十五分早く起きた。
洗面台の前に長く立ち、冷たい水を何度も顔にかけた。
肌が引きつるほどの冷たさだ。
鏡の中の自分を見つめた。
もう目元に赤みはなく、何の痕跡も残っていないように見えた。
何度か表情を作ってみた。
――ただ、誰にも心配されないための表情を。
朝食は杏が作ってくれていた。
トーストはちょうどいい焼き加減で、端は少しだけこんがりと、中はまだやわらかかった。
杏はエプロン姿のまま、キッチンを忙しなく動き回っていた。
どこか、真面目な小さなスズメみたいだ。
「お兄ちゃん、ジャムいる?
あと牛乳、温めてあるよ」
「ありがとう、杏」
杏は牛乳の入ったコップを彼の手元に押しやった。
それから何でもない顔で席に戻り、トーストをかじる。
二人とも、何も言わなかった。
窓から差し込む朝の光が、テーブルの上にやわらかな金色を広げている。
昨日も、その前も、何度も繰り返してきたありふれた朝と、何ひとつ変わらないみたいだった。
石原は牛乳を飲み干し、立ち上がって鞄を手に取った。
「ごちそうさま」
「うんうん」
杏はそう返して、少しだけ間を置いた。
「気をつけてね」
その声は小さくて、何かをそっとしておきたいみたいだった。
石原は玄関で立ち止まり、振り返る。
杏はうつむいたまま食器を片づけていて、表情は見えなかった。
「……うん」
石原はそのまま外へ出ていった。
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マンションの下には、十月らしい、夏の終わりと秋のはじまりが混じったような涼しさが漂っていた。
エントランスの前に、一人の人影が立っている。
緒山の母親だった。
落ち着いた色合いのカーディガンを羽織り、小さな保温バッグを手に提げていた。
石原の姿を見て、少しだけ目を見開いた。
それからすぐに、申し訳なさそうに微笑んだ。
「おはよう、石原くん」
石原は足を止めた。
反射的にその背後へ目をやるが――誰もいない。
「おはようございます。緒山は……」
「朋奈、今日は少し具合が悪くて、お休みの連絡をしているの」
母親の声は、ひどく静かだった。
「待たなくていいって、あなたたちに伝えてほしいって言われていて」
そう言って、保温バッグを差し出した。
「それから、これも……朋奈に頼まれたお弁当。
この前、杏ちゃんからいただいたお土産のお返しだそうで。
本当はそんなことしなくていいのに、あの子、こういうところだけ妙にきっちりしていて」
石原はそれを受け取った。
布越しにも、まだわずかな温もりが残っていた。
「……緒山は、大丈夫なんですか?」
思わず口をついて出た。
自分でも驚くほど、思っていたよりずっと切迫した声音になる。
緒山の母親は、彼を見た。
その視線は穏やかだった。
ただ、目尻がわずかに下がっていて、息づかいまでひどく静かだ。
石原に向けられたその目の奥が、ほんの少しだけ暗くなった。
何かに、そっと押さえ込まれているみたいに。
「大丈夫よ。少し休めば、落ち着きますから」
少しだけ間を置いた。
「石原くん……朋奈は、あまり自分の気持ちをうまく言葉にできない子なんです。
もし何か、あなたを困らせるようなことをしていたら……どうか、あの子を責めないでやって欲しいの……お願いします」
その声には切実な響きがあった
石原は首を横に振った。
「彼女は、俺に許してもらわなきゃいけないようなこと、何もしてないです」
視線を落とし、手にした保温バッグを見た。
「足りなかったのは……俺のほうです。ちゃんとできなかっただけです」
母親は、何も言わなかった。
しばらくして、そっと息を吐いた。
「それじゃあ、私はこれで。学校、気をつけて行ってきてね」
彼女は背を向けた。
その後ろ姿は、どこか頼りなく見えた。
数歩進んでから、足を止める。
振り返り、もう一度石原を見た。
石原には、その視線の意味が分からなかった。
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新学期初日の学校は、いつもの朝と何も変わらなかった。
廊下では久しぶりの再会に声をかけ合い、教室では夏休みの話題でざわめいていた。
日焼けしたやつもいれば、髪型を変えたやつもいた。
旅行先の土産を配っているやつもいた。
チョークが黒板の上できしむ音を立て、担任の声は背景の雑音みたいに、ぼやけて遠かった。
石原は窓際の席に座り、黒板を見ていた。
だが、視線に焦点はなかった。
時間が、逆戻りしたような気がした。
まだ生徒会に入る前。
あの林で、泣いている少女と出会う前。
あの頃も、こうして座っていた。
人の中にいながら、何も聞こえないままだった。
――いや、違う。
あのときの世界は、ただ静かな灰色だった。
今は違う。
そこに色があったことを、もう知ってしまっている。
だからこそ、それが引いていくのが分かる。
潮が引くみたいに、静かに、足元から遠ざかっていくのが分かった。
「おい――石原」
肩を軽く叩かれた。
石原は我に返って顔を上げた。
前の席の小野が、椅子の背にもたれ込むようにして振り返り、じっとこちらを見ていた。
「どうしたんだよ。朝からずっと、魂抜けたみたいな顔してるぞ」
「……別に」
「嘘つけ」
小野は目を細めた。
「その顔、知ってるわ。
俺去年振られたとき、まさにそれだった。黒板に穴あくんじゃねえかってくらい見てたし」
石原は言葉に詰まった。
その反応を見て、小野の目がぱっと光る。
声を潜めて、ぐっと身を乗り出してきた。
「マジでなんかあったのか、書記様。
誰だよ。俺の知ってるやつ? まさか隣のクラスの――」
「違う」
石原はため息まじりに遮った。
「ほんとに何もない。ただの休みボケだ」
小野は数秒じっと見つめた。
やがて諦めたように体を戻した。
「はいはい、休みボケね」
肩をすくめた。
それから振り返る直前、ひと言だけ投げた。
「じゃあさっさと学校で甘酸っぱい恋愛でもしろよ。そういうのには、それがいちばん効くぞ」
石原は何も言わなかった。
小野の背中を見つめ、ほんのわずかに、口元を動かした。
その笑顔がどれほど無理をしているかは、自分だけが分かっていた。
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昼休みまであと十分。
机の中で、スマホが小さく震えた。
石原はグループチャットを開いた。
グループチャットには、春野のメッセージが来ていた。
「昼、生徒会室に来て。ちょっとみんなに相談したいことがある」
「了解! 私と杏ちゃん、食堂でご飯買って持っていきますね」
「了解です。何の会議ですか?」
「うん、新学期の仕事の調整とか。
みんな揃ってから話すよ」
石原はしばらく画面を見つめたまま、スマホを机に伏せる。
そのまま、視線を落とした。
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十二時十五分。
生徒会室のドアを開けると、中には一人しかいなかった。
春野は窓の外を見たまま、じっと何かを考え込んでいた。
ガラスに映る横顔は、いつもより静かに見えた。
ドアの音に気づいて、春野が振り向いた。
「来たか」
石原は部屋を見渡した。
立花の鞄は椅子の背に掛けられていて、杏のカップからはまだ湯気が立っていた。
花野のノートパソコンも机の上に置かれていた。
なのに、誰もいなかった。
「みんなは?」
「杏ちゃんと立花が、ご飯冷めちゃうから、買った後で外に食べに行ったって。お前には俺から言っとくようにってさ。」
春野は少し間を置いた。
「花野は午後に個別指導があるからな。昼は来られないらしい」
石原はうなずき、入口近くの席に腰を下ろした。
生徒会室は妙に静かだった。
窓の外の蝉の声は、真夏よりずっとまばらだ。
近くなったり遠くなったりしながら、どこか気の抜けたように響いていた。
斜めに差し込む陽射しが机を照らし、空気の中の埃をゆっくり浮かび上がらせていた。
しばらく、沈黙が続いた。
「春野。会議って言ってなかったか」
春野はすぐには答えなかった。
ただ、石原を見た。
その目は静かだった。
けれど、どこかいつもとは違う、言葉にしにくい重さを帯びていた。
「……石原」
春野の声は低かった。
「お前に話しておきたいことがある」
窓の外の蝉の声が、ふいに遠のいた気がした。




