第八十九話
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石原は、すぐに父親へ連絡する気にはなれなかった。
机の前まで行って腰を下ろし、デスクライトをつける。
あたたかな黄色い灯りが部屋の隅の暗がりを押しのけ、胸の奥に垂れこめていた薄い曇りまで、ほんの少しだけ遠ざけてくれた。
少し、頭の中を整理したかった。
たぶん、会うことにはなる。
結果がどうであれ、杏にひとつの区切りをつけるためにも、自分の中で何かに決着をつけるためにも――
……いや、そこまで言えるのかは分からない。
それでも、少なくとも一度は向き合う必要がある。
問題は――
父親が、今どんなふうになっているのかだった。
記憶の中よりずっと老けているのか。
それとも、背負っていたものを下ろしたぶんだけ、少しは楽そうに見えるのか。
会ったら、何を言えばいい。
あのとき何も言わずにいなくなったことを問いただすのか。
それとも、大人みたいに冷静に話を聞いて、それからこれから先の距離を静かに決めるのか。
いくつもの問いが頭の中を回る。
けれど、そのどれにも、まだはっきりした答えはなかった。
石原はスマホを取り出し、さっき保存した、まだメモを付けていない番号を見つめた。
指先が画面の上で止まったまま、迷っていた。
(今、かけ直すか。……それとも、明日にするか)
結局、石原は小さく息を吐いて、画面を閉じた。
今日はもう、それで十分だった。
この突然の変化を受け止めるには、少し時間が必要だ。
たとえ一晩だけでも、頭を落ち着かせる時間が欲しかった。
石原は浅く息をついて、窓の外を見た。
そこでようやく、外がすっかり暗くなっていたことに気づく。
遠くの商店街ではネオンの看板がひとつ、またひとつと灯りはじめ、濃い藍色の夜をほのかに彩っていた。
そのとき、ポケットの中でスマホが不意に震える。
石原がすぐに取り出すと、画面には、「朋奈」の文字が表示されていた。
石原はほっと息をつき、それから少し間を置いて通話ボタンを押す。
「こんばんは、先輩! 今、忙しいですか?」
緒山の澄んだ声が耳に届いた。
向こうからは、水の流れる音と食器の触れ合う小さな音がかすかに聞こえてくる。どうやら家の台所にいるらしい。
「いや、別に」
「よかった! えっとですね――」
緒山は弾んだ声で続けた。
「今日、お母さんがどういうわけかメロンと桃をいっぱい買ってきちゃって、ぜんぜん食べきれそうにないんです。
それで『杏ちゃんがいたらよかったのにねえ。あの子、メロン大好きでしょう』って、さっきからずっと言ってて。なので――」
わざとらしく語尾を引っぱった。
その声には、笑いをこらえるような響きが混じっている。
「石原家の仲良し兄妹さん、今夜うちに来て“フルーツ危機”の解決を手伝ってくれませんか?
ついでに……晩ごはんもどうですか? お母さん、二品くらいならすぐ足せるって言ってました!」
あまりにも自然で、あたたかい誘い。
緒山の家らしい、するりと懐に入り込んでくるような、断りにくい親しさがあった。
石原はスマホを持ったまま部屋を出る。
リビングでは杏がソファに丸まってタブレットを抱え、また何かを調べているようだ。
頭上の感情タグは、相変わらず【期待】が大半を占めていた。
その光景が、ほとんどそのまま目に浮かぶ。
緒山家の明るい灯り。
食卓に並ぶ料理と、きれいに切り分けられた果物。
緒山の両親のあたたかな笑顔。
向かいには、きっと事情を察しているのに、何も言わず、ただ気づかうような目でこちらを見ている緒山が座っている。
そこはきっと、少しのあいだだけでも気を緩めていられる場所だ。
――だからこそ。
「今日は……ちょっと都合が悪いんだ」
わざと平静を装った声だった。
石原は部屋に戻った。
「杏が……少し疲れてて、もう早めに休んだんだ。
俺も、まだ少しやることがある。
お母さんにも、ありがとうって伝えてくれ」
電話の向こうが、一瞬だけ静かになった。
かすかな呼吸音だけが残った。
「……そっか」
少しして、緒山の声がまた返ってくる。
明るさは、そのままだった。
「大丈夫です! じゃあメロンは、私たちで頑張って食べきりますね! 先輩も、あんまり遅くまで無理しないでくださいよ〜」
「……ああ」
「じゃあ、先輩も早めに休んでくださいね。おやすみなさい」
「おやすみ」
会話は、ここで終わるはずだった。
石原の指が、通話終了のボタンへ伸びた。
――なのに。
「……朋奈」
ほとんど口をついて、その名がこぼれていた。
「え? 先輩、何かありましたか?」
すぐに、少し不思議そうな緒山の声が返ってきた。
「……」
石原は唇をわずかに開いた。
何を言えばいい。
父親が突然連絡してきて、会うことになったこと。
何もかも、どこかおかしく感じてしまうこと。
杏はひどく期待しているのに、自分の中はまだぐちゃぐちゃのままだということ。
それとも――
もし家族が突然戻ってきて、自分にはうまく理解できないような謝罪を向けてきたら、お前ならどうするのか、と。
いくつもの言葉が喉までせり上がってきて、ぶつかって、絡まって、
けれど最後には、どれもそこから先へ出てこなかった。
これは、自分の家の話だ。
十何年も引きずってきた傷で、杏が壊さないように、そっと両手で抱えてきた希望でもある。
それを緒山の前に広げるということは、まだ自分でもうまく形にできていない、この泥のようなものの中へ、彼女を引っぱり込むことになる。
重さを分けることになる。
もしかしたら、その先まで――
迷惑はかけたくなかった。
それ以上に、自分でも説明できない何かが、怖かった。
「……いや。なんでもない」
自分の声だけが、やけに乾いて聞こえる。
さっきより、さらに低かった。
「ただ……急に、名前を呼びたくなっただけだ」
さすがに予想していなかったのだろう。
電話の向こうが、短く黙った。
それから緒山の声が返ってきた。
抑えようとしているのに、どうしてもにじんでしまうような、何かを察したみたいな笑いが混じっていた。
「えー?」
わざと語尾を長く伸ばした。
「先輩、もしかして――」
言い終わる前に、向こうから別の声が割り込んできた。
少し離れたところから聞こえる、やわらかくて、笑いを含んだ女性の声だった。
「朋奈、誰? 石原くん? 来てくれるの?」
緒山は慌ててマイクを手でふさいだらしい。
けれど、声はぼんやり聞こえてきた。
「ちょっ、お母さん、待って……! まだ話してるから……!」
それから、明らかに笑いをこらえた気配のまま、声がまた近づいてきた。
小さく、早口でささやく。
「やばいです、先輩! さっき……うっかりスピーカー押しちゃってて。
お母さん、たぶん聞こえてました!」
まるで悪びれていない。
むしろ、いたずらがうまくいったみたいな弾んだ声だった。
「……悪い」
石原は思わずそう口にした。
「お母さん、何も聞いてないですよ!」
緒山はすぐに言葉を返した。
笑い声が、弾むみたいにこぼれる。
「ちょっと笑っただけで、そのままメロン切りに行っちゃいました。
先輩って……ほんと、急にそういうこと言うんですね」
石原は小さく息をついたが、頬の熱はまだ引いていなかった。
「……悪かった」
電話の向こうが、ふっと静かになる。
笑いも、からかいも、もうなかった。
「謝らなくていいです」
緒山の声から、冗談っぽさがきれいに消えていた。
「先輩が私の名前を呼んでくれるなら……いつだって、私は嬉しいです」
少し間が空いた。
声が、さらにやわらぐ。
「だから、大丈夫ですよ。もし誰かの名前を呼びたくなるときがあったら……
今でも、今じゃなくても。
――私は、ここにいますから」
「……ありがとう」
その一言は、周りの薄暗さに溶けるみたいな小さな声だった。
「はい。それじゃ、もう休んでくださいね。また」
「……また」
通話が切れた。
石原はスマホを握ったまま、自室の薄暗がりにしばらく立っていた。
胸の奥に沈んだものは、まだ冷たくて、重くて、底も見えないままだ。
それでも――緒山の「私は、ここにいますから」という言葉だけは、そのいちばん深いところに、静かに沈んでいく。
はっきりとした、あたたかな座標として。




