第八十八話
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【九月二十日・金曜日・午後】
通話を切ったあとの機械音が、急に静まり返ったリビングにやけに耳障りに響いた。
石原はゆっくりと受話器を耳元から離す。
石原はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
視線は、窓の外で沈みかけた夕暮れに向いたままだ。
ほんの数分の通話に押し込まれていた、あまりにも重い内容を、まだうまくのみ込めずにいた――
電話をかけてきたのは、父親だった。
話の内容自体は、べつに複雑ではなかった。
むしろ、多くの人が思い描くような“お決まりの筋書き”そのものだったのかもしれない。
深い後悔を口にして、この数年の曖昧だった足取りについても説明した。
田舎で暮らすうちに、いろいろ考え直したらしい。
そして、ひどく慎重で、ほとんど懇願するような申し出もあった。
一度会って、直接謝りたい。
これまでずっと言えなかったことも、きちんと話したいのだと。
『お、俺が……今さらこんなことを言っても遅いのは分かってる、久希。
今すぐ許してほしいなんて思ってない。ただ……
機会をくれないか。せめて、お前と杏に一度会いたい。
お前たちの顔を……見せてほしい。頼む』
電話越しに聞こえてきた父の声は、記憶の中のそれよりも、ひどく掠れていて、ひどく疲れていた。
それに、不器用に隠そうとしているせいで、かえってよけいに目立つ緊張も混じっていた。
石原の視線は、無意識にソファへ向く。
立花と杏は、どうやらさっきまで見ていたアニメの爆笑シーンから、ようやく笑いを引きずったまま戻ってきたところだった。
杏はまだ半分ほど残ったポテトチップスの袋を手にしたままで、二人の顔には笑いの余韻が残っていた。
電話に出てから明らかに様子の変わった石原を、二人は不思議そうに見上げていた。
石原は深く息を吸い、二人のいるほうへ歩く。
「お兄ちゃん、誰だったの? 営業の電話?」
杏がぱちりと瞬きをして、何気ない調子で聞いてくる。
まだ完全には、さっきまでのはしゃいだ空気から切り替わっていないようだった。
石原は杏の前で足を止める。
声は落ち着いていたが、その奥には、かすかな沈みが滲んでいた。
「……父さんだ」
空気が、一瞬だけ張りついたような気がした。
杏の顔に残っていた笑みが、目に見えて固まった。
その直後、杏の目には、信じられないものを前にした驚きと、抑えきれない期待が入り混じった光が宿る。
手にしていたポテトチップスの袋がソファの上に滑り落ち、かさりと小さな音を立てた。
杏は何か言おうとして口を開く。
けれど、すぐには声にならなかった。
ただ、兄の顔をじっと見つめていた。
隣にいた立花も、ぴたりと動きを止めていた。
ほとんど表情の変わらない石原の横顔と、杏の目に一瞬で灯った強い光とを見比べて、家族の話にしかない、あの複雑な空気を敏感に嗅ぎ取ったのだろう。
彼女はすぐに笑みを引っ込め、おとなしく黙った。
「……パパ?」
杏の声は少し震えていた。
勢いよく石原の腕をつかんだ。
「何て言ってたの? 元気なの? どうして急に……」
石原には、杏の頭上で一気に跳ね上がった感情の数値が、はっきりと見えていた。
【石原杏の感情:驚愕25、期待35、緊張40】
タグは乱れていない。感情は濃く、はっきりしていた。
それほどまでに純粋で、それほどまでに高ぶっていた。
「会いたいってさ」
石原は簡潔にそう言った。
少し申し訳なさそうに、一瞬だけ隣の立花へ視線を向ける。
それから、再び妹へ視線を戻した。
「詳しいことは……あとで話そう。少し、話す必要がある」
それが合図になったみたいに、立花はぱっと立ち上がる。
顔には、気を遣った、いかにも物わかりのいい笑みが浮かんでいた。
「えっと、その……先輩、杏ちゃん、私、急に家の用事があるの思い出しちゃって! アニメはまた今度見ましょうね!」
手際よく自分の荷物をまとめ、バッグをひょいと持ち上げた。
「今日はごちそうさまでした! ケーキ、すっごく美味しかったです!」
そう言っているうちに、もう靴まで履き終えていた。
二人に向かってひらひらと手を振り、明るい声で言う。
「二人でゆっくり話してくださいね! 私、先に帰ります! バイバイ!」
言い終わるより早く、身軽に玄関の外へするりと出ていって、そのままそっとドアを閉めた。
ドアの閉まる小さな音のあと、リビングには二人だけが残る。
「お兄ちゃん!」
ドアが閉まったのとほとんど同時に、杏は待ちきれない様子で身を乗り出した。
見上げてくる瞳は、星でも落ちたみたいにきらきらしている。
「パパ、本当に会いたいって言ってたの? パパ……どんな感じだった? いつって言ってた? どこで会うの?」
矢継ぎ早の問いにつれて、感情の数値がわずかに揺れる。
それでも【期待】だけはずっと高いままだった。
石原はソファの前まで行って腰を下ろし、そのまま背をクッションに沈め眉間を軽く押さえた。
「……ああ。直接会って話したいって。謝りたいとも言ってた」
その声はどこか疲れていて、杏みたいな勢いはない。
「お前とも話してからにするって伝えた」
「そんなの、相談することなんてないよ!」
杏は石原のすぐ隣に腰を下ろし、焦れたように言った。
「会うに決まってるじゃん! お兄ちゃん、だってパパから自分で電話してきたんだよ?」
石原は横を向き、興奮で少し赤くなった妹の頬を見る。
「……杏」
声を少しだけ落とした。
「ずっとあの人に帰ってきてほしかったのは分かってる。でも……そんな簡単な話じゃない」
「急に連絡してきて、急に会いたいって言われても、今あの人がどんなふうに生きていて、どんな暮らしをしてるのか、俺たちはほとんど何も知らない」
そこで言葉を切った。
あんな軽い言葉で、これまでの重たい欠落を受け止めきれるはずがない。
杏の瞳の光が、ほんの少しだけ弱まった。
それでも、引かない。
「でも、試してみなきゃ……ずっと分からないままだよ。お兄ちゃん、一回だけ会おう? ね?」
杏は石原の手をきゅっとつかんだ。
「今のあの人がどんなふうなのか……それだけでも知っておきたいの。もし、もしそれでもがっかりするような人だったとしても、私たち、ちゃんと向き合ったって思えるし……あとで後悔もしないでしょ?」
声は少しやわらかい。
澄んだ目で、まっすぐに石原を見てくる。
石原は黙ったまま、妹の顔を見つめた。
冷蔵庫に貼られた、少しずつ黄ばんでいくメモを思い出す。
二人きりで過ごしてきた、あの長い夜を。
それから――
よその家の窓明かりを見たとき、杏の目にふっとよぎる、本人ですら気づいていないかもしれない羨ましさも。
断ろうとした言葉は、喉の奥で何度か引っかかって、結局そのまま飲み込まれた。
「……分かった」
小さく息を吐いた。
「時間と場所は、もう一度ちゃんと確認する。でも、杏――」
石原は妹を見た。
その目は、真剣というより、ほとんど厳しいといっていいほどだ。
「期待しすぎるな。都合のいいことばかり考えるな」
「会うのは……ずっと会っていなかった、これからもう一度知っていくしかない相手だと思え。いいな?」
杏はすぐに何度も頷いた。
その顔に、ぱっと明るい笑みが戻る。
「うん! お兄ちゃんの言うこと聞く!」
【喜び】【期待】のタグが、石原の視界に流れ込んでくる。
石原は小さく頷き、それ以上は何も言わなかった。
立ち上がり、そのまま自分の部屋へ向かう。
「お兄ちゃん!」
背後から杏が明るい声で呼び止めた。
「晩ごはん、何がいい? 私が作る!」
「なんでもいい」
振り返らないまま答えた。
そのまま部屋に入り、ドアを閉める。
冷たいドアに背を預けた。
リビングのほうから、杏が鼻歌まじりにキッチンへ向かう、軽い足音が聞こえてきた。
その音には、まっすぐで無邪気な嬉しさがにじんでいる。
石原は目を閉じた。
胸の奥に残った、かすかで、説明のつかない警戒心が――
それが、水に落ちたインクみたいに、ゆっくりと、それでもしつこく広がっていく。
父親が連絡してきたこと自体ではない。
目の前に、あまりにも出来すぎた形で降ってきたこの“転機”のほうが――
どうしても、現実のものに思えなかったのだ。
(……まるで、夢でも見てるみたいだった)




