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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第十八章 綴り損ね――思うままにならなかった終わり
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第八十八話

---


【九月二十日・金曜日・午後】


通話を切ったあとの機械音が、急に静まり返ったリビングにやけに耳障りに響いた。


石原はゆっくりと受話器を耳元から離す。


石原はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。

視線は、窓の外で沈みかけた夕暮れに向いたままだ。

ほんの数分の通話に押し込まれていた、あまりにも重い内容を、まだうまくのみ込めずにいた――


電話をかけてきたのは、父親だった。


話の内容自体は、べつに複雑ではなかった。

むしろ、多くの人が思い描くような“お決まりの筋書き”そのものだったのかもしれない。


深い後悔を口にして、この数年の曖昧だった足取りについても説明した。

田舎で暮らすうちに、いろいろ考え直したらしい。


そして、ひどく慎重で、ほとんど懇願するような申し出もあった。

一度会って、直接謝りたい。

これまでずっと言えなかったことも、きちんと話したいのだと。


『お、俺が……今さらこんなことを言っても遅いのは分かってる、久希。

 今すぐ許してほしいなんて思ってない。ただ……

 機会をくれないか。せめて、お前と杏に一度会いたい。

 お前たちの顔を……見せてほしい。頼む』


電話越しに聞こえてきた父の声は、記憶の中のそれよりも、ひどく掠れていて、ひどく疲れていた。

それに、不器用に隠そうとしているせいで、かえってよけいに目立つ緊張も混じっていた。


石原の視線は、無意識にソファへ向く。


立花と杏は、どうやらさっきまで見ていたアニメの爆笑シーンから、ようやく笑いを引きずったまま戻ってきたところだった。

杏はまだ半分ほど残ったポテトチップスの袋を手にしたままで、二人の顔には笑いの余韻が残っていた。


電話に出てから明らかに様子の変わった石原を、二人は不思議そうに見上げていた。


石原は深く息を吸い、二人のいるほうへ歩く。


「お兄ちゃん、誰だったの? 営業の電話?」


杏がぱちりと瞬きをして、何気ない調子で聞いてくる。

まだ完全には、さっきまでのはしゃいだ空気から切り替わっていないようだった。


石原は杏の前で足を止める。

声は落ち着いていたが、その奥には、かすかな沈みが滲んでいた。


「……父さんだ」


空気が、一瞬だけ張りついたような気がした。


杏の顔に残っていた笑みが、目に見えて固まった。

その直後、杏の目には、信じられないものを前にした驚きと、抑えきれない期待が入り混じった光が宿る。


手にしていたポテトチップスの袋がソファの上に滑り落ち、かさりと小さな音を立てた。


杏は何か言おうとして口を開く。

けれど、すぐには声にならなかった。

ただ、兄の顔をじっと見つめていた。


隣にいた立花も、ぴたりと動きを止めていた。

ほとんど表情の変わらない石原の横顔と、杏の目に一瞬で灯った強い光とを見比べて、家族の話にしかない、あの複雑な空気を敏感に嗅ぎ取ったのだろう。


彼女はすぐに笑みを引っ込め、おとなしく黙った。


「……パパ?」


杏の声は少し震えていた。

勢いよく石原の腕をつかんだ。


「何て言ってたの? 元気なの? どうして急に……」


石原には、杏の頭上で一気に跳ね上がった感情の数値が、はっきりと見えていた。


【石原杏の感情:驚愕25、期待35、緊張40】


タグは乱れていない。感情は濃く、はっきりしていた。

それほどまでに純粋で、それほどまでに高ぶっていた。


「会いたいってさ」


石原は簡潔にそう言った。


少し申し訳なさそうに、一瞬だけ隣の立花へ視線を向ける。

それから、再び妹へ視線を戻した。


「詳しいことは……あとで話そう。少し、話す必要がある」


それが合図になったみたいに、立花はぱっと立ち上がる。


顔には、気を遣った、いかにも物わかりのいい笑みが浮かんでいた。


「えっと、その……先輩、杏ちゃん、私、急に家の用事があるの思い出しちゃって! アニメはまた今度見ましょうね!」


手際よく自分の荷物をまとめ、バッグをひょいと持ち上げた。


「今日はごちそうさまでした! ケーキ、すっごく美味しかったです!」


そう言っているうちに、もう靴まで履き終えていた。

二人に向かってひらひらと手を振り、明るい声で言う。


「二人でゆっくり話してくださいね! 私、先に帰ります! バイバイ!」


言い終わるより早く、身軽に玄関の外へするりと出ていって、そのままそっとドアを閉めた。


ドアの閉まる小さな音のあと、リビングには二人だけが残る。


「お兄ちゃん!」


ドアが閉まったのとほとんど同時に、杏は待ちきれない様子で身を乗り出した。

見上げてくる瞳は、星でも落ちたみたいにきらきらしている。


「パパ、本当に会いたいって言ってたの? パパ……どんな感じだった? いつって言ってた? どこで会うの?」


矢継ぎ早の問いにつれて、感情の数値がわずかに揺れる。

それでも【期待】だけはずっと高いままだった。


石原はソファの前まで行って腰を下ろし、そのまま背をクッションに沈め眉間を軽く押さえた。


「……ああ。直接会って話したいって。謝りたいとも言ってた」


その声はどこか疲れていて、杏みたいな勢いはない。


「お前とも話してからにするって伝えた」


「そんなの、相談することなんてないよ!」


杏は石原のすぐ隣に腰を下ろし、焦れたように言った。


「会うに決まってるじゃん! お兄ちゃん、だってパパから自分で電話してきたんだよ?」


石原は横を向き、興奮で少し赤くなった妹の頬を見る。


「……杏」


声を少しだけ落とした。


「ずっとあの人に帰ってきてほしかったのは分かってる。でも……そんな簡単な話じゃない」


「急に連絡してきて、急に会いたいって言われても、今あの人がどんなふうに生きていて、どんな暮らしをしてるのか、俺たちはほとんど何も知らない」


そこで言葉を切った。


あんな軽い言葉で、これまでの重たい欠落を受け止めきれるはずがない。


杏の瞳の光が、ほんの少しだけ弱まった。

それでも、引かない。


「でも、試してみなきゃ……ずっと分からないままだよ。お兄ちゃん、一回だけ会おう? ね?」


杏は石原の手をきゅっとつかんだ。


「今のあの人がどんなふうなのか……それだけでも知っておきたいの。もし、もしそれでもがっかりするような人だったとしても、私たち、ちゃんと向き合ったって思えるし……あとで後悔もしないでしょ?」


声は少しやわらかい。

澄んだ目で、まっすぐに石原を見てくる。


石原は黙ったまま、妹の顔を見つめた。


冷蔵庫に貼られた、少しずつ黄ばんでいくメモを思い出す。

二人きりで過ごしてきた、あの長い夜を。

それから――

よその家の窓明かりを見たとき、杏の目にふっとよぎる、本人ですら気づいていないかもしれない羨ましさも。


断ろうとした言葉は、喉の奥で何度か引っかかって、結局そのまま飲み込まれた。


「……分かった」


小さく息を吐いた。


「時間と場所は、もう一度ちゃんと確認する。でも、杏――」


石原は妹を見た。

その目は、真剣というより、ほとんど厳しいといっていいほどだ。


「期待しすぎるな。都合のいいことばかり考えるな」


「会うのは……ずっと会っていなかった、これからもう一度知っていくしかない相手だと思え。いいな?」


杏はすぐに何度も頷いた。

その顔に、ぱっと明るい笑みが戻る。


「うん! お兄ちゃんの言うこと聞く!」


【喜び】【期待】のタグが、石原の視界に流れ込んでくる。


石原は小さく頷き、それ以上は何も言わなかった。


立ち上がり、そのまま自分の部屋へ向かう。


「お兄ちゃん!」


背後から杏が明るい声で呼び止めた。


「晩ごはん、何がいい? 私が作る!」


「なんでもいい」


振り返らないまま答えた。


そのまま部屋に入り、ドアを閉める。


冷たいドアに背を預けた。


リビングのほうから、杏が鼻歌まじりにキッチンへ向かう、軽い足音が聞こえてきた。

その音には、まっすぐで無邪気な嬉しさがにじんでいる。


石原は目を閉じた。


胸の奥に残った、かすかで、説明のつかない警戒心が――

それが、水に落ちたインクみたいに、ゆっくりと、それでもしつこく広がっていく。


父親が連絡してきたこと自体ではない。


目の前に、あまりにも出来すぎた形で降ってきたこの“転機”のほうが――

どうしても、現実のものに思えなかったのだ。


(……まるで、夢でも見てるみたいだった)

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