第八十七話
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【九月二十日・金曜日】
それから数日後の、何でもない金曜の午後だった。
暑さの気配はもうすっかり消えていて、午後の陽射しが石原家のガラス窓を通って、リビングの床に明るく気だるげな光のまだらを落としている。
部屋の中は静かで、ソファに身を寄せた立花と杏が新しく始まったアニメを見ていた以外、目立った物音はなかった。
ときおり、二人が声をひそめて笑ったり、小さく感想を言い合ったりする声が混じるくらいだ。
石原はちょうど自分の部屋から出てきたところで、台所へ水を汲みに行こうとしていた。
何気なく視線がリビングをなぞった。
穏やかで、どこかあたたかい空気の残る部屋。力の抜けた妹の横顔。
それを見ていると、石原の心の中にも波立つものはなく、誕生日会の余韻がまだ体のどこかを静かに流れているようだった。
水を入れたグラスを手にしたまま、陽射しを受けて白く光る通りをぼんやり眺めていた、そのとき――
ジリリリ――。
古い固定電話の、少し耳に障る呼び出し音が、何の前触れもなく静かなリビングに鳴り響く。
「お兄ちゃん、電話ー!」
杏は振り返りもせずにそう声をかけたが、意識はまだ画面の中の展開に向いたままだった。
石原は反射的にそちらへ向き直る。
リビングの隅、低い棚の上で、陽射しを受けた黒い電話機が鳴っていた。
それはまるで、穏やかな午後の時間に不意に差し込んだ黒い印のようだった。
石原は受話器を取った。
「もしもし。石原です」
受話器の向こうでは、まず細かなノイズがかすかに鳴った。
それから聞こえてきたのは、しゃがれていて、疲れきっていて、知らない他人みたいにおずおずとした、それでいて記憶のずっと奥にだけ引っかかるような、妙に遠い馴染みのある声。
「……あ……その……杏、誕生日、おめでとう。
ああ……その、何日か……遅れた、かもしれないけど……」
その瞬間、時間が止まったように感じた。
全身の血がすっと冷えたかと思った次の瞬間には、それが逆流するみたいに頭へ駆け上がってきた。
受話器を握る指がきつく締まり、石原ははじかれたように視線をソファへ向ける。
そこでは何も知らない杏が、立花と一緒にまだ笑っていた。
馬鹿げている。
怒りが湧いた。
それ以上に、もっと深いところに沈んでいた、長い年月をかけて澱んだ冷たい鈍痛が、一気に浮かび上がってきた。
今すぐこのまま、叩きつけるみたいに電話を切ってしまいたかった。
受話器を持つ腕にはもう力が入っている。
けれど、その前に声がまた届いた。さっきより低く、重く、どうしようもない疲れと、言葉になりきらない詰まりを滲ませながら。
「……久希、か」
そこで一度、息を呑むような間があった。
重たい呼吸だけが、線の向こうからじりじりと伝わってくる。
「……少しでいい。聞いて……聞いてくれないか。
父……いや、俺の話を……ほんの少しだけでいいから……」
ほとんど懇願に近い声音だった。
それは石原の記憶の中にも、何年ものあいだ思い描いてきた姿の中にも、一度も存在しなかった声だ。
あの、何も残さず背を向けて消えた人間が出すはずのない声だった。
リビングのほうから、杏がアニメに笑う声が明るく響いた。
それは今、自分が守っている日常そのものだった。温かくて、手を伸ばせば触れられる、たしかな今だ。
その一方で耳元にあるのは、過去の底から這い上がってきたみたいな息遣いだった。
埋めたつもりでいて、ほんとうは少しも切り離せていなかったもの。
何年経っても夢の底に沈んだままだったもの。
――知る必要があった。
こんなに時間が経ってから、なぜ今さらここへ電話をかけてきたのか。その理由だけは。
石原はゆっくり目を閉じ、深く息を吸う。
そしてもう一度目を開いたとき、その眼差しには何の温度もなかった。
あるのは、凍ったように平たい静けさだけ。
口を開いた。
最初に出たのは、声にもならない乾いた引っかかりだけだった。
それでも石原は、固まりきった空気を無理やり裂くみたいに、一語ずつ押し出した。
「……話してみろ」




