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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第十七章 日常のさざ波――遅すぎた電話
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第八十六話

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【九月十四日・土曜日・午前】


空は澄んだ青で、陽射しは明るいのにきつすぎず、風にもほどよい心地よさがあった。


石原家は、朝からいつもとは少し違う、どこか浮き立つような忙しさに包まれている。


石原は朝早くから起き出して、リビングの飾りつけを最後にもう一度見て回った。


飾り旗と風船は朝の光の中でいっそう色鮮やかに見えた。

緒山にもらった星空ライトも、昼の光の中では、細やかな飾りとしてちゃんと部屋に馴染んでいる。


キッチンでは、昨夜の石原による慎重な“応急処置”と手順の立て直しを経て、どうにか成功したように見える“特製プリン”がいくつか、冷蔵庫の中で冷やされていた。

あとは最後の飾りつけを残すだけだ。


午前十時を少し回ったころ、インターホンが鳴った。

やって来たのは、緒山と立花だ。


二人とも手にいろいろと荷物を提げていた。

緒山が持っていたのは、見るからに本格的なケーキ箱だった。


「おはようございます、先輩!」


緒山は明るい笑顔でそう言って、箱を少し持ち上げてみせた。


「これ、お母さんと一緒に焼いた誕生日ケーキです。チョコレートとフランボワーズ味で、杏ちゃんがこの前これ食べてみたいって言ってたので」


「おはようございます、先輩!」


立花もいつもの勢いで続き、元気よく笑った。足首はもうほとんど元通りのようだ。


「最後の仕上げ、手伝いに来ました!」


石原は二人を中に通した。

ほどなくして、春野と花野も到着した。


春野が持ってきたのは、女の子に似合いそうな、明るさがありながらも品のある花束だった。

活発さと上品さが、ちょうどよく同居している。


花野は、何の飾りもない真っ白な箱を差し出した。


「杏への誕生日プレゼント」


口調はいつも通り淡々としていたが、続く説明だけは妙に長かった。


「過去三か月のSNS上での作品関連キーワード言及頻度、直近の検索傾向、消費行動モデルの分析をもとに、理論上もっとも嗜好適合率の高い派生商品と、その関連分析資料を選定した」


その説明に、そこにいた全員が一瞬だけ固まった。

ちょうどキッチンから顔を出した杏が、何ごとかと目を丸くして駆け寄ってくる。


「えっ、なにそれ!?」


杏が箱を開けると、中に入っていたのは、作り込みの見事なキャラクターモデルだった。

しかもそれは、杏が最近どっぷりハマっているマイナーSFアニメの限定グッズで、薄い冊子まで添えられている。


杏が冊子を開いた瞬間、目がみるみる大きくなった。


「え、これ……!」

「この作品の機体設定の詳細スペック比較に、世界観の時系列整理まで……!?」

「え、待って、視聴者の年齢層とか好みの傾向まで入ってるんだけど!? すご……これ、公式の設定集より詳しくない!?」


声がどんどん上ずっていった。


「真汐ちゃん、なんで私がいちばんこれにハマってるって分かったの!?」


花野は軽く眼鏡を押し上げ、平然とした顔で言った。


「気に入ったなら、それでいい」


春野が苦笑する。


「さすがだな、花野」


立花は目を輝かせて感心していた。


「すごい……! こういうプレゼント、めちゃくちゃ“真汐ちゃんらしい”し、なんかすっごく気合い入ってる感じする!」


緒山もくすっと笑って頷いた。


「真汐ちゃんって、ほんとにいつもいちばん独特なやり方で人のこと気にかけるよね」


杏はモデルと冊子を抱えたまま、しばらく手放そうとしなかった。

石原はそんな妹の様子を笑って見てから、あいかわらず淡々とした顔の花野へ目を向けた。


冷たいデータの殻をかぶっているみたいでいて、その中にあるのは誰より細やかな観察と気づかいなのかもしれない。

そんなことを、石原はふと思った。


十一時を回ったころ、再びインターホンが鳴った。


今度やって来たのは、朝日兄妹だ。


葵は淡いピンクのワンピースに、やわらかなニットのカーディガンを羽織っていた。

病院で見たときよりずっと顔色がよく、瞳もきらきらと輝いていて、そこには好奇心と楽しみがそのまま浮かんでいる。


その半歩後ろには朝日守がついていた。

手にはきちんと包まれたプレゼントを提げていて、表情にはまだ少しぎこちなさが残っている。

けれど、長く眉間に沈んでいた陰りはもうかなり薄れていて、今そこにあるのは、妹を見守るような静かな落ち着きだった。


「葵ちゃん、朝日先輩! いらっしゃい!」


杏が嬉しそうに二人を迎えた。


「杏お姉ちゃん、お誕生日おめでとう!」


葵の声は澄んでいて、生き生きした張りがあった。


それから葵は、部屋の中にいるみんなのほうへ向き直って、きちんと挨拶をする。


「石原お兄ちゃん、緒山お姉ちゃん、立花お姉ちゃん、春野お兄ちゃん、花野お姉ちゃん、こんにちは」


あまりに素直で可愛らしくて、見ているほうの心までほどけそうになる。


「来てくれてありがとう、葵ちゃん」


緒山はしゃがんで葵と目線を合わせ、やわらかく笑った。


「今日はほんとに顔色がいいね」


「うん!」


葵は元気よく頷いた。

すぐに、部屋の飾りへ視線が移った。


「わあ……きれい! パーティーみたい!」


朝日守は静かにプレゼントを差し出した。


「誕生日おめでとう。ほんの気持ちだけど……葵がずいぶん迷って選んだ」


その目はずっとさりげなく妹を追っている。

慣れない場所や人の多さで無理をしていないか、ちゃんと確かめ続けているようだった。


杏はそれを受け取り、満面の笑みで言った。


「ありがとう!」


【九月十四日・土曜日・午後】


葵が来たことで、誕生日会にはまたひとつ、ひときわやわらかくて新鮮な活気が加わったようだった。


葵はすぐに立花と杏に引っぱられて、飾りつけや珍しいお菓子を見に行き、そのたびに小さな歓声や笑い声を上げている。


人の輪の中では少しはにかんでいるものの、葵はどこか安心しきった様子でその場に馴染んでいた。

それを見て、朝日守の張っていた肩からも、ようやく少し力が抜けたようだ。

彼は窓際の席へ静かに腰を下ろし、妹の姿を目で追いながら、目を細めて笑っていた。


石原は、その一つひとつを黙って見ていた。

目の前にある光景が重なり合って、ひどく生き生きとしていて、どこか希望を帯びたひとつの景色みたいに見える。


これが、今の自分にあるものだった。

傷がないわけじゃない。欠けているものがないわけでもない。

それでも皆が前へ進んでいて、誰かと一緒にいることで少しずつ繕われ、少しずつ育っていく。

こうして「一緒にいる」ということの感触は、驚くほど具体的で、ちゃんと地に足がついていた。


昼食は簡単なビュッフェ形式で、それぞれ好きに取って食べる形だ。

石原はそこで、どうにか“改良”を重ねた特製プリンを出したのだが、杏からは「これ、私が作ったのより百倍おいしい!」と大げさな評価をもらい、部屋にはすぐ笑いが広がった。


緒山が持ってきたケーキも大好評だった。

甘さはくどくなく、口当たりもなめらかで、花野でさえ、黙って二切れ目に手を伸ばしていたほどだ。


いちばん盛り上がったのは、やはり定番の誕生日の歌とろうそくの場面だった。

皆の歌と祝福に囲まれながら、杏は目を閉じて願いごとをし、それから一息でろうそくを吹き消す。

その顔には、ためらいのない、眩しいほどの笑顔が広がっていた。


灯りが戻ったとき、石原は緒山がそっと鞄からあのノートを取り出し、素早く何かに印をつけたのを見た。

そのあと、彼女は石原のほうを見て、いたずらっぽく片目をつぶる。


石原がちらりと目にしたそのページの見出しには、こう書かれていた。


「大切な人と大切な日を祝う」


ケーキを取り分けるころには、葵は兄の隣に座って、小さく一口ずつ食べていた。

そしてふいに顔を上げると、澄んだ大きな目で部屋の賑わいを見回し、けれどはっきりとした声で尋ねる。


「石原お兄ちゃんとお姉ちゃんのお父さんとお母さんは、今日は来てないの?」


その一言で、部屋のざわめきがほんの一瞬だけ揺らいだ。


朝日守はすぐに妹の腕にそっと触れ、声を落として言った。


「葵」


自分が何かまずいことを言ったのかもしれないと気づいたのだろう。

葵は少し戸惑ったように、ぱちぱちと目を瞬かせた。


杏は笑顔を崩さないまま、明るい声で言った。


「お母さんはね、すごく遠くでお仕事してるの。お父さんは……うん、ちょっと忙しいんだ」


石原は、自分の顔の筋肉が少し強張るのを感じた。


視線が、無意識に冷蔵庫の扉のほうへ流れた。

色とりどりの飾りつけの中で、あの黄ばんだ古いメモは、今日も変わらずそこに貼られたままだ。


そのとき、緒山の視線が静かにこちらへ向けられているのに気づいた。


ちょうどその間を埋めるように、春野が飲み物を一杯差し出しながら、何でもない調子で口を開く。


「今日のケーキ、ほんとにうまいな。緒山さん、あとでお母さんにも礼を伝えておいてくれ」


話題はそのまま自然に逸れていき、空気もすぐにまた流れ出した。

けれど、その小さなひっかかりは、湖に落ちた小石みたいに、石原の胸の中に細かな波紋を残したままだった。


笑い声と、心からの祝福に包まれたこの満ち足りた時間の下には、やはりどうしても埋まらない小さな空白がある。

――子どもの何気ない一言に、今日はそれがそっと触れられただけだった。


それでも、そのささやかな寂しさは、ほどなくしてまた別の温かさに薄められていく。


プレゼントを開ける時間は、驚きと笑いに満ちていた。

朝日兄妹が贈ってくれた手作りの星空投影機には、杏がすっかり夢中になっていた。

立花からは、今いちばん流行っているアニメとのコラボイヤホン。

春野は、上質な文房具のセットと、前に杏が読みたがっていた推理小説。

そして緒山からの贈り物は、星柄の入った、柔らかな手編みのマフラーだった。


午後の時間は、そのままおしゃべりをしたり、簡単なテーブルゲームをしたり、杏が「学年一位として迎える輝かしい新学期計画」を得意げに語ったりしながら、のんびりと過ぎていく。


葵が少し疲れてきた様子を見て、朝日守は妹を連れて少し早めに帰ることにした。

誘ってくれたことへの礼を何度も口にしながら、二人は丁寧に別れを告げていった。


他の皆も、夕方が近づくころには順に帰っていき、部屋には楽しかった時間の熱と名残だけが残る。


全員を見送ったあと、石原は杏と一緒に、少し散らかったリビングを片づけた。

窓から差し込む夕陽が、部屋の中をやわらかな金色に染めている。

杏が点けた星空ライトも、暖かな光を静かに瞬かせていた。


「今日はほんとに楽しかったね、お兄ちゃん」


包み紙を抱えた杏が、心から満ち足りた顔で笑う。


「みんな、ほんとに優しいよね」


「……ああ」


石原はごみ袋の口を結びながら、小さく答えた。

星空ライトの下で、やわらかく明るく見える妹の横顔を見ていると、胸の奥にまた、あの満ちた温かさが静かに広がっていく。

午後にふと差したあの寂しさも、その中へ押し流されていった。


――これでいい。


自分たちには、ちゃんと互いがいる。

そして、家族みたいに大事に思える友達もいる。

それで十分だった。


それからの二日間、日々はまた穏やかな流れに戻っていく。

けれど、誕生日会に残ったあの温かな余韻は、やわらかな光みたいに、まだしばらく日常を包んでいた。


石原はときどき、あの日の葵の無邪気な問いを思い出した。

けれど、不思議と胸に残るのはそれよりも、あの日そこにあった皆の笑顔のほうだった。

緒山がこっそり印をつけたときの、あの悪戯っぽい目。

そして、杏がろうそくを吹き消したあとに見せた、曇りのない笑顔。


“欠けているもの”についての淡い思いは、また静かに心の奥へしまい直された。


今ここにあるものは、もう十分に、心から大切にして守っていくべき「今」だった。

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