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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第十七章 日常のさざ波――遅すぎた電話
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第八十五話

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勉強会のあとの数日は、ぬるい水に浸したレモンみたいに、酸味と甘みの混じった日常の味を、ゆっくりと滲ませていった。


図書館でのあの小さな“呼び方騒ぎ”と、そのあとの的外れな謝罪をきっかけに、石原と緒山のあいだにあった見えない柵が、またほんの少し外れたようだった。


「朋奈」という呼び方が、すぐ石原の口に馴染んだわけではなかった。

それでも、二人きりのときやメッセージのやり取りでは、その音は前ほど重くも遠くも感じられない。


それに応えるみたいに、緒山が二人きりのときに口にする「先輩」にも、前より少し親しげで、気負いのないからかいの響きが混じる。


九月十四日、土曜日。杏の誕生日は、少しずつ輪郭をはっきりさせながら、あたたかな光をまとった一日として、みんなの期待を引き寄せていた。


水曜の夕方、石原は杏に引っぱられて、誕生日会に向けた“大買い出し”に付き合わされていた。


スーパーへ向かう道で、杏は前をぴょんぴょん跳ねるみたいに歩きながら、ふいに振り返る。


「そうだ、お兄ちゃん。朝日先輩と葵ちゃんも呼んであるからね!」


「朝日先輩が言ってたんだけど、葵ちゃん、先週やっと正式に退院できたんだって。今は定期的に通院すればいいだけで、あんまり無理しなければ誕生日会に来るのも全然大丈夫なんだって!」


石原の足が、わずかに止まった。


「……そうか。それはよかったな」


「うん!」


杏は嬉しそうに頷いてから、電話のときの様子を思い出すように続けた。


「朝日先輩も、前よりだいぶ楽そうだったよ。みんなが前に手伝ってくれたおかげで、葵ちゃん、思ってたよりずっと順調に回復してるって。朝日先輩も……なんて言えばいいんだろ、前みたいにずっと張りつめてる感じじゃなくなってた」


「だから、今度の誕生日会は、二人にも絶対来てもらわなきゃって思ってるの!」


二人がスーパーに着くと、カートの中身はあっという間に小山みたいになった。

飾り用の旗や風船、いろいろな菓子と飲み物、それに――杏がどうしても挑戦すると言い張った、見るからに手順の面倒そうな“誕生日特製プリン”の材料まで。


「お兄ちゃん、美里ちゃんって、いちご味とチョコ味、どっちが好きかな?」


杏は生クリームを手に取って、真剣な顔で見比べていた。


「どっちでもいいんじゃないか」


「じゃあ真汐ちゃんは? 食べ物の栄養成分とか気にしたりするかな。先にデータでも調べといたほうがいい?」


杏は鼻をくしゅっとさせて、半分冗談みたいにそう言った。


「……そこまでじゃないだろ」


石原は少しだけ間を置いてから、


「作れば普通に食うんじゃないか」


と付け加えた。


「それもそうか!」


杏は納得したように笑ってクリームをカートに入れると、また跳ねるような足取りで別の棚へ向かう。

その浮き立つような機嫌が、そのまま周りの空気にまでこぼれているみたいだった。


石原はそんな妹の背中を見て、胸の奥が少しだけやわらいだ。

その視線が何気なく脇の棚をかすめた。そこには、中年男性向けらしい贈り物がきれいに並んでいて、包装には「父への贈り物」と書かれていた。


ほんの一瞬目に入っただけだ。

それでも石原はすぐに視線を逸らし、何でもないふうを装ってカートを押し、生鮮コーナーのほうへ向かった。


日々の忙しさや、周りのあたたかさにいったん覆い隠されていた薄い寂しさが、水の底の影みたいに胸の奥でふっと揺れた。

けれど、それもすぐにまた沈んでいく。


木曜になると、緒山と立花が石原の家へ手伝いにやって来た。


三人の手にかかると、もともとすっきりしていたリビングは、あっという間に色とりどりに飾られていく。

部屋の中には、すぐに祝いの日らしい浮き立つ空気が満ちていった。


緒山は、さらに小さくて凝った星空ライトまで持ってきていた。


「杏ちゃんにすごく似合いそうだったから。追加の飾りってことで、これも杏ちゃんに」


そう言って、自然なやり取りで手渡した。


石原はキッチンで、杏が意気込んで始めたものの、実際には何度もつまずいていた“特製プリン”のほうを受け持っていた。


キッチンから三度目の怪しい焦げ臭さと杏の悲鳴が上がったとき、緒山が袖をまくって中へ入ってくる。


「ちょっと貸して?」


そう言って笑いながらミキサーを受け取り、止まりかけていた作業をすっと元の流れへ戻していった。


石原はキッチンの入口にもたれ、そんな様子を黙って見ていた。

手元をばたつかせる杏に、緒山は落ち着いた声でひとつずつ手順を教えていく。

その横顔は、キッチンの灯りの下で妙にやわらかく見えた。


そのとき、リビングのほうから立花の声が飛んできた。


「朋奈ちゃん、すごーい!」


その明るい声は、少し開いたドアの隙間を抜けて、キッチンまで届いてきた。


その瞬間、石原の胸の中に、ふいに不思議な充足感が広がる。

妹の笑い声も、友人たちが手伝ってくれている気配も、キッチンに少しずつ満ちていく甘い匂いも、全部がひとつの景色になってそこにあった。

その中には、ときどき石原のほうを振り返ってくる緒山の、明るい笑みまで混ざっていた。

そうやって編まれた時間は、あたたかくて、どこか地に足のついた確かさを持っている。


石原は一人で家の最後の掃除と片づけを進めていた。そして金曜の午後、つまり誕生日会の前日。


緒山にもらった星空ライトを、石原はリビングのカーテンレールに掛けて、試しに灯りを点けてみた。

やわらかな黄色の光が、暗くなりかけた部屋の中でかすかに瞬く。

それはたしかに、細かな星をひとつかみ、そのまま撒いたみたいに見えた。


そのとき、スマホが震えた。緒山からのメッセージだ。


「先輩、明日って早めに行って、最後のごはんの準備とか手伝ったほうがいいですか? 杏ちゃんの“特製プリン”最終版、まだまだ改良の余地ありそうですし ( ̄▽ ̄*)ゞ」


石原はその画面を見つめたまま、指先をほんの少し止めた。


「そんなに早く来なくていい。プリンは俺がどうにかする」


すぐに返信が返ってきた。


「了解です! あ、プレゼントはもうちゃんと用意してありますからね〜。杏ちゃん、絶対喜びますよ!(^▽^)」


「うん、ありがとう」


そこで会話はひとまず途切れた。

石原はスマホを置き、飾りつけの整ったリビングを改めて見渡す。

その視線は、やがて冷蔵庫の扉へと止まった。


端のめくれた、黄ばんだ古いメモ。

色鮮やかな新しい飾りのそばで、それだけが妙に浮いて見えた。


そこに残っているのは、母親が書き残した、もうとっくに期限を過ぎた言葉だった。

まるで、ずっと昔の時間から届いたかすかな声の名残のようだ。


石原はそこへ歩み寄った。

別に剥がそうと思ったわけではない。それはもう、この家の記憶のひとつになっていた。

ただ、無意識のまま指先で、浮き上がった角をそっと撫でるように押さえた。


明日になれば、この場所はきっと笑い声で満ちる。

祝いの言葉が飛び交って、星空ライトが瞬いて、友達が持ってくる贈り物や温かさで、部屋はいっぱいになるはずだ。


それは、ちゃんといいことだ。

今の自分と杏が持っている、大事にすべきものなのだと石原も分かっていた。


それでも、こうして“生まれてきたことを祝う”ための支度をしていると、血の繋がりのいちばん根っこにあるはずの、もう片方の不在が、どうしても普段よりはっきり見えてしまう。

それはまるで、華やかな旋律の中で、ずっと沈黙し続けるボーカルのようだ。


石原はキッチンのカウンターにもたれながら、ふと一か月以上前の光景を思い出した。

自分の誕生日なんて、ほとんど忘れかけていたあの日。

それを生徒会のみんなに、あんなふうに盛大で温かなサプライズで「踏み込まれた」。


春野の落ち着いた仕切り。

花野の、冷静そうに見えて細部まで行き届いた段取り。

立花の元気いっぱいな飾りつけと祝福。

杏の、いたずらっぽくて得意げな笑顔。


それに、緒山の――

灯りを映して、笑みをいっぱいに湛えていたあの目。


あのときの喧騒も、温かさも、少しだけ混じっていた戸惑いまでもが、あまりに生々しいまま、何ひとつ遠慮なく石原を包み込んだ。

人と距離を取って、冷めたところから見ていることに慣れていたはずの心が、そのときまたはっきりと、“俺たち”と呼べる場所の柔らかさの中へ落ちていく。


生徒会は、いつからかもう、ただ自分が籍を置いているだけの場所ではなくなっていた。


一緒に遅くまで残って準備した疲れも、昼休みに弁当を食べながら交わした他愛ない話も、誰かが困っているときに自然と生まれる心配や、そのために動いたことも、図書館で言葉を交わさないまま聞こえていたペン先の音でさえも――

そういう一つひとつが、知らないうちに細くて強い網を織りなしていた。


その網は石原を受け止め、杏を受け止め、そこにいたみんなのことも受け止めていた。

そこはもう、血の繋がりの家とは別に、自分たちが帰っていけるもうひとつのあたたかな場所だ


石原は、ふと自分の手を見下ろす。

妹の誕生日会の支度をしていたせいで、指先にはうっすら小麦粉がついていた。


大事に思う相手のために動いて、準備して、その相手が喜ぶ顔を思い浮かべる。

そういうことは、もう今の石原にとって、まるきり初めてのものではなくなっていた。

不器用なりに、けれどちゃんと、そういう温かさを作る側に回ろうとしていた。


けれど、その一方で、もっと古くて、もっと本来なら当然そこにあってよかったはずの“家”の影も、こういうときに限って静かに浮かび上がってきた。

それは、新しい居場所を得たからといって埋まってしまうようなものではなかった。ただ、うまくしまい込まれているだけだった。


「誕生日」

「家族」

「団らん」


そんな言葉に触れたときだけ、その沈黙したままの場所が、空っぽな反響になって胸の奥で鳴る。

そこに、最初から埋まらないままの余白があるのだと、思い出させるみたいに。


石原はそこで視線を切り、もうそのメモを見ないことにした。

そのままキッチンへ入って冷蔵庫を開け、中に入っている材料をひとつずつ確かめながら、妹のいよいよ危うくなっている“特製プリン”をどう立て直すかを真面目に考え始める。

意識をこういう目の前の具体的な面倒ごとへ引き戻してしまうのが、浮かびかけた寂しさを追い払うにはいちばん手っ取り早かった。


窓の外では、もうすっかり日が落ちていた。

遠くの街灯が、ひとつずつ順番に灯る。


その一方で、石原の家のリビングでは、星空ライトが小さく、あたたかく瞬いていた。

まるで、明日ここで迎える誕生日と、もうすぐやってくる、この場所なりの団らんを静かに待っているみたいに。

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