第八十四話
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勉強会が終わりに近づくころには、それぞれが抱えていた課題の山も、ほとんど片づいていた。
目の前には、びっしりと書き込まれた計算用紙と、ようやくはっきり見えてきた解法の筋道があった。
それを眺めていると、充実感の混じった疲れがじわりと広がってくる。
石原は文房具を片づけながら、つい隣の緒山に目をやった。
緒山はノートとレポートを丁寧に鞄へしまっている。
その横顔は落ち着いていて、さっきの“呼び方の事故”からは、もうすっかり立ち直っているように見えた。
けれど、石原の胸の奥には、細い棘みたいなものがずっと引っかかっていた。
さっき自分がろくに考えもせず口にした呼び方も、そのあと口走った最悪の言い訳も、どちらも頭から離れない。
あれで不快にさせていないか。あるいは、心の中では怒っているのではないか――そんな考えが、どうしても拭えなかった。
何か言うべきだとは思う。
せめて、味気ない一言でもいいから「さっきは悪かった」と伝えるべきだ。
けれど、伏せられた睫毛と、荷物を片づけることだけに意識を向けているようなその横顔を見ていると、言葉は喉の奥でつかえたまま、どうしても出てこなかった。
場の空気には、どこか微妙な澱みがあった。
勉強中の集中とも違うし、いつもの気安さとも違う。
何かひとつ触れ方を間違えれば、そのまま崩れてしまいそうな静けさだった。
そのとき、春野が自分のノートを閉じ、穏やかな目で石原と緒山を順に見た。
口元には、事情を分かっている者らしい薄い笑みが浮かんでいた。
そして、声は大きくないのに妙にはっきりと、沈黙を破るように言った。
「石原、緒山。そんなにかたくならなくていいぞ」
その声に、二人ともぴたりと動きを止めた。
視線がそろって春野へ向く。
春野は、そこにない眼鏡を押し上げるみたいな仕草をしてから、年上らしい妙な包容力と、からかい半分のやさしい声で続けた。
もっとも、一歳しか違わないのだが。
「お前たち二人のことはな……まあ、こっちは前からだいたい察してた」
少し間を置いて、春野はさらに言った。
「だから、みんなの前だからって無理に取り繕わなくていい。
自然にしてればいいし、呼び方だって、呼びたいように呼べばいい」
「会長……!」
緒山は顔をかっと赤くして、恥ずかしさと気まずさが混じったような声で小さく抗議する。
けれど、その目に本気の怒りはなかった。
「そうそう!」
立花もすぐに笑いながら乗ってきた。
「私たち、みんな分かってるんだって! さっきは急に聞こえたからちょっとびっくりしただけ。ね、杏ちゃん?」
「その通り!」
杏はぶんぶんと頷いて、目を細めて笑った。
「お兄ちゃん、そんなに慎重になってるほうが逆に怪しいよ?」
そこで、みんなの視線が花野へ集まった。
花野はタブレットの画面から目を上げると、いつもの平坦な調子でひと言だけ添えた。
「うん」
そのひと言をきっかけに、みんなが一斉に笑いだす。
石原も緒山も、あまりに直球な“公認”を突きつけられて、耳まで熱くなった。
今すぐ床に穴が開いてくれれば、そのまま潜り込みたいほどだ。
けれど、さっきまでそこにあった気まずさやぎこちなさは、笑い声に押されるようにして、たしかに大半がほどけていった。
春野のあのタイミングの良すぎる言葉が、薄く張っていた空気をやわらかく散らしたのだ。
それからほどなくして、勉強会はお開きになった。
それぞれ荷物をまとめながら、軽く声を掛け合って別れの挨拶を交わす。
春野と花野は、まだ何か話すことがあるらしく、その場に残っていた。
一方で立花は杏の腕を引っぱり、誕生日会で何を食べたいかを楽しそうに話しながら、先に図書館の出口へ向かっていった。
石原も鞄を背負う。
見ると、緒山もちょうど片づけを終えたところで、テーブルの脇に立っていた。どこか、石原を待っていたようにも見えた。
そのまま二人は自然に並んで歩き出し、すこし先で賑やかにしゃべっていた立花と杏の後ろを、出口へ向かっていった。
図書館の廊下は静かで、足音だけがやけにはっきり響く。
石原は何度も言葉を探し、隣を歩く緒山の静かな横顔を見ては迷い、最後にはひとつ深く息を吸ってから足を止めた。
「……緒山さん」
わざと少し距離を置いた呼び方だった。
声も、自分で分かるくらい硬い。
「ん?」
緒山も足を止め、問いかけるようにこちらを振り向いた。
「さっき……俺……」
その先がうまく続かなかった。
頭の中で何度組み立てても、言葉がきちんと形になってくれない。
「うっかり名前で呼んだことも……そのあとの言い方も……悪かった。
あれ、困らせたんじゃないかって……」
石原は視線を落としたまま、返事を待った。
気まずそうな返答か、それともさらに気まずい沈黙が落ちるのだろうと、そう思っていた。
けれど、予想していた反応は来なかった。
代わりに聞こえてきたのは、喉の奥から漏れたみたいな小さな息。
思わず顔を上げると、緒山が口元を手で押さえたまま、肩を小さく震わせていた。
「……っ、ぷ……は、はは……っ、んっ」
どうにか堪えようとしていたらしい。
けれど結局こらえきれなかったのか、緒山は手を下ろすと、そのまま近くの閲覧机に突っ伏した。
腕の中に顔を埋めたまま、くぐもった、それでいて妙に楽しそうな笑い声を漏らし続けてい。肩は震えっぱなしだ。
石原は完全に呆気に取られた。
何がそんなにおかしいのか、まったく見当がつかない。
その場に立ち尽くしたまま、手をどこに置けばいいのかも分からず、顔には困惑とわずかな狼狽がそのまま出ていた。
「……緒山さん?」
緒山はしばらく笑ったあと、ようやく少し落ち着いたらしく、ゆっくり顔を上げた。
目の端はうっすら濡れていて、頬も真っ赤だ。
けれど石原を見るその目には、からかうような光と、やわらかな熱が一緒に浮かんでいた。
「ご、ごめんなさい……先輩……」
緒山は目元を軽くぬぐいながら、まだ笑いの混じった声で言った。
「でも……先輩、それを気にして、あんなに真剣な顔で謝ってきたんですか?」
石原は、まだ状況が飲み込めないまま黙って頷いた。
すると緒山はまた小さく口元を緩め、ほんの少しだけ身を寄せてくる。
声をぐっと落としたその言い方は、秘密を分けるみたいだった。
「私ね、実は……」
そこで緒山はわざと間を置いた。
困って少しだけ目を見開いている石原の顔を見つめたまま、語尾をいたずらっぽく引きのばした。
「――すごく好きです、先輩が……」
その言葉が耳に入った瞬間、石原の心臓がどくんと大きく跳ねた。
血が一気に頭へ上って、思考が真っ白になる。
緒山はその反応をしっかり見届けると、目の奥の悪戯っぽさをますます濃くして、わざとゆっくり後半を足した。
「……そうやって呼んでくれるの」
そう言うと、悪戯が成功した子どもみたいに、緒山は完全に固まってしまった石原へ向かってぱちりと片目をつぶった。
それからくるりと背を向けると、軽い足取りのまま、先に行った立花と杏を追いかけていく。
廊下には、緒山が残していったあの意味深な言葉だけが、まだ薄く漂っているような気がした。
石原はしばらくその場に立ち尽くしたまま、ようやく少しぎこちない手つきで、自分の熱くなった耳のあたりに触れる。
指先に伝わってくる熱だけが、妙に生々しかった。
図書館の窓の外では、夏の終わりの陽射しが、まだ明るく残っていた。




