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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第十七章 日常のさざ波――遅すぎた電話
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第八十三話

---


【九月十一日・水曜日・午後】


市立図書館の自習スペースの重いガラス扉を押し開ける。

ひんやりとした空気に、古い紙の匂いが混ざってふっと押し寄せ、外の熱気を一瞬で遮った。


奥の長テーブルには、すでにほとんどの顔ぶれが揃っていた。


春野と花野は同じ側に座っている。

春野の前にはノートと何枚かのプリントが広げられていて、目を落としたまま集中していた。


花野は相変わらずタブレットを立て、そこに視線を落としていた。

ときおり指先が素早く画面の上を滑った。その光が、ほとんど表情のない横顔に淡く映っていた。


その向かいには立花がいる。

国語の問題集を前に、見るからに苦戦している顔をしていた。手元には参考書が何冊も積み上がっていて、いかにも大仕事を前にしているみたいだった。

痛めていた右足首はもうほとんど問題なさそうだったが、姿勢を変えるたびに、まだ少しだけ無意識にかばうような様子があった。


その隣には緒山が座っていた。

物理の教科書と実験レポートの下書きを広げ、指先でペンをくるくると無意識に回している。

表情には、いつものように気負いのない笑みが浮かんでいた。


「お兄ちゃん、こっち!」


通路側の席に座っていた杏が、真っ先に石原に気づいて小さく手を振る。

声は控えめだったが、それでも石原にはすぐ分かった。


杏の前にあるのは、よく冷えた飲み物が一本だけだった。

勉強道具らしいものは何も見当たらない。


……本当に、後方支援と場をにぎやかす役をしに来たみたいだな。


石原は歩み寄り、緒山の隣の空いた席に腰を下ろした。

緒山が振り向いて、ふっと笑った。


「先輩、時間ぴったりですね」


「……ああ」


短く返しながら、鞄から課題と筆記用具を取り出した。


「よし、全員揃ったな」


春野が顔を上げ、穏やかな声で周囲を見渡した。


「じゃあ、まずはそれぞれ一番困ってるところからやろう。順番に見るか、それとも分かれるか?」


「分かれましょう!」


立花が即座に手を挙げた。


「私の国語、ちょっとその……かなり基礎的なところで引っかかってるので……みんなの時間を取っちゃいそうなんです。真汐ちゃん、お願いします!」


そう言って、両手を合わせながら花野のほうへ向き直った。


花野は立花の前に積まれた参考書の山をひと目見て、小さく頷く。


「分かった。まずは誤答率の高い現代文の読解問題から。数問、自力で解いて」


立花は、ひとまず行き先が決まったことにほっとしたようだった。


「私は会長と、数学の最後の発展問題について、いくつか解法の筋を確認します」


花野が視線を春野へ向けた。

春野も自然に自分の資料をそちらへ寄せた。


そうすると、残るのは自然と石原と緒山だった。

二人がそのまま一組になる流れになった。


「先輩、まずどこから見ます?」


緒山は実験レポートの下書きを石原のほうへ差し出した。

整った字でびっしり書き込まれていたが、ところどころに赤ペンで丸や疑問符がついている。


石原はそれを受け取り、目を落とした。

得意な分野だった。


ペンを取り、脇の紙に簡潔な式の流れと補足を書き始めた。


緒山が少し身を寄せてきた。

温かな息がかすかに耳元をかすめ、髪のあいだから淡い香りがふっと漂ってくる。


石原の指先が、ごくわずかに止まった。けれど、それもほんの一瞬だけですぐにまた動き出した。

ただ、耳のあたりにだけ、じわりと熱が残る。


「ここは、この変数は無視していい。簡略化したモデルをそのまま使えばいいから」


石原が小さく指し示しながら説明すると、


「……あ、そっか!」


緒山の目がぱっと明るくなった。


「全部の条件を使わなきゃって思って、逆に変なところで考え込みすぎてました」


彼女は石原から返された紙を受け取り、真剣な顔でその補足を追っていった。

考え込むほどに無意識のうちに距離が縮まっていって、気づけば肩が触れそうなくらい近い。


「それで、ここの数値はこの式に代入して――」


石原は声を落としたまま説明を続けた。


説明に意識が向いていたのか。

それとも、すぐ隣にある緒山の気配と、まっすぐ向けられる視線に引っぱられていたのか。


周囲の音が、ふっと遠のいた気がした。


次のポイントを口にしようとした、そのときだった。

心の中でしか呼んだことのない名前が、不意に唇から零れた。


「朋奈、分かった?」


言い終えた瞬間、石原自身も固まった。

ペン先が紙の上に小さなインクの点をつくった。


さっきまで小さな話し声や紙をめくる音、ペン先の走る音で満ちていた自習スペースの一角が、ほんの一瞬だけ水を打ったように静まった。


最初に反応したのは立花だった。

古文の文法に悪戦苦闘していた彼女が、勢いよく顔を上げる。目はまん丸で、手にしていたペンがぽとりと机の上に落ちた。


続いて杏。

さっきまで退屈そうにスマホをいじっていたのに、次の瞬間にはぴしっと背筋を伸ばしていた。

その視線が、サーチライトみたいな勢いで石原と緒山のほうへ走る。

口元を必死に押さえているけれど、笑いをこらえきれていないのは見え見えだった。


春野は話の途中でわずかに眉を上げ、それから何かに納得したように目を細める。

けれど、何も言わなかった。


花野まで、タブレットの上を滑っていた指を止めた。

レンズの奥の視線が石原へ向き、それから首元から耳の先まで真っ赤になった緒山をひと目だけ見る。


そして、何か客観的な事実を確認したみたいな調子で、

「ふむ」

と小さく言った。


緒山本人はというと、そう呼ばれた瞬間、驚いた猫みたいにぴくっと肩を震わせた。


次の瞬間には勢いよくうつむいて、今にも顔をレポートに埋めそうなくらいだった。

見えているのは、湯気でも出そうなくらい赤くなった頭のてっぺんだけだ。


誰もすぐには口を開かなかった。


石原は一気に頭へ血が上るのを感じた。耳の奥まで熱い。

何とか取り繕おうとして、咳払いをひとつした。


「わ、悪い……いや、その……今が二人きりじゃないって、忘れてた」


口にした直後、石原は本気で自分の舌を噛みたくなった。

今のは、弁解になっていない。むしろ最悪だった。


「おぉーー……」


立花が真っ先に意味ありげな声をあげる。

目はもうきらきらで、顔じゅうに面白がっているのが出ていた。


「今、なんかすごいの聞いちゃったんですけど!」


「二人きり、だって〜?」


杏は口元を押さえながら、肩を震わせて笑う。

どう見ても、面白がっていた。


春野は資料に視線を落としたまま、ほんのわずかに肩を揺らす。


花野は再び石原へ視線を向けると、いつもの抑揚のない声で、

「場をわきまえて」

とはっきり言った。


「ま、真汐ちゃん……!」


緒山はようやくレポートから顔を上げる。

まだ顔は真っ赤なままで、恥ずかしさと悔しさがないまぜになったような顔で花野を睨んだ。


それから石原のほうを一瞬だけ見た。

目の端がわずかに潤んでいて、ひどく居心地が悪そうなのに、その奥にかすかな照れが滲む。。


石原はそこで完全に抵抗を諦めた。


もう何も言わず、黙ってペンを握り直し、目の前の問題集に視線を落とした。

まるでそこに突然花でも咲いたみたいに、必要以上に真剣な顔で見つめる。


自分でも分かっていた。


耳の熱はいつまで経っても引かない。

心臓も、胸の内側でやけにうるさく鳴っている。


それは、人前で口を滑らせた気まずさだけのせいじゃなかった。


あの名前が口から出た瞬間、ほんの一瞬だけ胸をかすめた、見慣れない高鳴りと、あまりにも自然にそこにあった親しさのせいだ。


そのあとの勉強時間も、立花はことあるごとに意味ありげな目を石原と緒山のあいだへ向けてきたし、杏は杏で、ずっと妙に上機嫌だった。


「集中しろ。予定終了時刻まで、あと四十分」


春野がそう声をかけて、ようやく場の空気が少しずつ元に戻っていった。


それでも、ふとした拍子に目が合うたび、緒山の頬にはまだ消えきっていない赤みが残っていた。


図書館の窓から差し込む午後の光まで、いつもより少しだけやわらかく、明るく見えた。


---


勉強会の効率は、花野の見立てどおり驚くほど良かった。


春野と花野のやり取りは短く、要点だけをまっすぐ射抜いていくようだった。

立花も、花野に冷静すぎるくらい淡々と理屈を分解されて、ときどき小さなうめき声を漏らしてはいたが、長いこと引っかかっていた読解の筋道は、少しずつ見えてきたらしい。


石原と緒山のほうは、さらに順調だった。

物理のレポートを片づけると、そのまま石原の残っていた数学の問題にも取りかかっていた。


途中の休憩で、杏が自動販売機まで走って、みんなの分の冷えた麦茶を買ってくる。


立花は椅子にぐったりともたれたまま、大きくため息をついた。


「なんか、頭の中……真汐ちゃんに強制的にフォーマットされた感じなんですけど……でも、ちょっと見えてきたかも?」


「かなり整理できてきたな」


春野は穏やかにそう言って、麦茶をひと口含んだ。


「花野のやり方は直接的だけど、この手の問題にはよく効く」


当の花野は、タブレットに視線を落としたまま、何かのデータを打ち込んでいた。

声をかけられても、小さく「うん」と返しただけだ。


その間に、緒山は小さなバッグから例のノートを取り出した。

ぱらりと開いて、あるページの項目に小さくチェックを入れる。


ふと石原の目に入ったそのページには、

「誰かと一緒に効率よく夏休みの課題を終わらせる」

と書かれていた。


「誰か」のところには丁寧に線が引かれていて、その横に「先輩」と書き直されていた。


視線に気づいたのか、緒山が顔を上げた。

ぱちりと片目を閉じて、少しだけ悪戯っぽく笑う。


それから何事もなかったみたいに、さっとページをめくってしまった。


「そうだ!」


そのとき、杏が何かを思い出したようにぱんと手を叩いた。


「今週の土曜なんだけど……私、誕生日なんだよね!」


みんなの視線が、いっせいに杏へ集まった。


「そんな大げさにやるつもりじゃないんだけど、みんなでちょっとしたお祝いできたらなって。うちでどう? 私が料理……は、まあちょっとアレだから、おいしいものはちゃんと用意する!」


途中で言い直したあたり、自分の腕前についてはちゃんと分かっているらしい。


「行く行く!」


立花が真っ先に食いついた。

さっきまで勉強でへろへろだったのが嘘みたいに、声に勢いが戻っている。


「杏ちゃんの誕生日なんて、祝わないわけないじゃん!」


「問題ないよ。時間は空けておく」


春野も頷いた。


「食材の買い出しとか、献立の調整で手がいるなら言って」


花野はいつもの抑揚のない声でそう言った。

まるで何かの案件を引き受けるみたいな口ぶりだった。


緒山も笑って頷いた。


「もちろん行くよ。飾りつけとか、手伝えることがあったらいつでも言ってね」


石原は、目を輝かせている妹を見て、ほんの少しだけ表情を緩めた。


「……家でやるのも、悪くないな」


「じゃあ決まりね! みんな、ちゃんと来てよ!」


杏は嬉しそうに笑った。

この先にまだまだ楽しいことが続いていくと、もう信じきっているみたいな顔だった。


休憩が終わって、勉強会が再開すると、さっきまでより空気は少しだけやわらいでいた。


目の前の課題が消えたわけじゃない。

それでももう、ただの重荷には思えなかった。

この先に続く小さな楽しみへ向かうための、通り道みたいなものに感じられたのだ。


高い窓から差し込む光が、長テーブルの端に明るい模様を落としている。

その中を、細かな埃が静かに舞っていた。


穏やかで、張りつめすぎてはいない集中の空気の中で、石原はふと、胸の奥に落ち着いた満足感がしっかりと根を下ろしていることに気づいた。


妹の笑顔。

仲間たちの低い話し声や、ときおり混じるぼやき。

隣からふと向けられる緒山の、笑みを含んだ視線。

それに、窓の外でまだ続いているのに、もう前ほど鬱陶しくは感じない夏の光。


そういうものが重なって、ひとつの「日常」になっていた。

前ならきっと鬱陶しいと思っていたはずなのに、今はもう、その中にいることがそれほど苦ではなかった。


気づけば石原は、ほんの少しのあいだだけ、それを忘れていた。

いや――忘れないまま、考えないことを自分に許していたのかもしれない。


冷蔵庫に貼られたまま、少しずつ色を失っていく古いメモのことを。

そして、本当ならこんな「日常」のどこかにいてもおかしくないはずの、ずっと不在のままになっている存在のことも。

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