第八十二話
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夏祭りの花火の余韻が、八月の終わりの気だるい空気に、ゆっくりと溶けていくようだった。
あの夜を境に、石原と緒山の関係は少しだけ変わり、言葉にしなくても通じる、新しい「当たり前」が、二人のあいだに少しずつできている。
昼間は、二人ともそれぞれ別の時間を過ごしていた。
石原は杏に引っぱり回されて、よく分からない「料理実験」の材料を買いに行かされることもあったし、緒山のほうも家の用事だとか自分の予定だとかで、姿を見せないことが多い。
けれど夕方になると、それが自然と二人のいつもの流れみたいになっていた。
短いメッセージが届いたり、マンションの階段でばったり顔を合わせたり、ついでみたいな顔で一緒にコンビニへ冷たい飲み物を買いに行ったりする。
そんな何気ない時間の続きが、そのまま階下の見慣れた扉の向こうへ伸びていくことも、いつの間にか増えていた。
緒山の両親――とくに母親は、石原兄妹への親しみをますます隠そうとしなくなっていた。
「お菓子をちょっと多く作りすぎちゃって」とか、「食材を買いすぎちゃったから」とか、そんな理由をつけては、よく二人を自宅へ呼んだ。
そんなことが何度も続くうちに、石原も最初のぎこちなさが少しずつ薄れていき、その少しばかり過剰な温かさにも慣れていった。
そして、明るく人懐っこい杏は、あっという間に緒山の両親に可愛がられるようになっていた。
緒山の母親は、杏の好きなお菓子をわざわざ用意しては、身ぶり手ぶりを交えて話すアニメの話に、楽しそうに耳を傾けていた。
父親のほうは口数こそ少ないものの、杏が興味を持ちそうな番組にそっとチャンネルを合わせたり、杏に料理を褒められたときは口元にわずかな得意げさをのぞかせたりした。
あるとき、母親が親しげに杏の肩を抱き寄せながら新しいレシピの話で盛り上がり、父親までが珍しく杏とSF作品の設定について話しているのを見て――
緒山はついに、ぷくっと頬をふくらませた。
「もう~、実の娘は私なんだけど? お母さんもお父さんも、今じゃ杏ちゃんしか見えてないんじゃない?」
わざとらしく拗ねたその言い方に、母親は笑いながら緒山の肩を軽く叩く。
「なに、朋奈。やきもち?」
「だって杏ちゃん、こんなに可愛くて元気で、そのうえ話し上手なんだもの」
「そうそう!」
杏はすぐに緒山の腕に抱きついて、にこにこと見上げた。
「でも、朋奈さんは私にとっていちばん優しくて、いちばん素敵なお姉さんですよ! それに――」
杏はぱちっと目を瞬かせて、いたずらっぽく笑う。
「これは、朋奈さんの“お父さんとお母さんに愛されすぎる”っていう甘い負担を、私がちょっとだけ肩代わりしてるだけです!」
部屋の中に笑い声が広がった。
緒山も思わず吹き出し、さっきまでのわざとらしいやきもちもすぐに消えてしまう。
あとに残ったのは、まるで最初からそうだったのが当たり前みたいな、あたたかな家族のにぎわいだった。
石原は少し離れたところから、その光景を眺めていた。
妹がよその家でもあんなふうに自然に可愛がられているのを見ていると、胸の奥にいろんな思いが静かに浮かんでくる。
緒山の両親の目にあるのは、何のてらいもない善意だった。
自分の中でときどき顔を出す、両親の不在が残した寂しさも、その笑い声と灯りに少しずつあたためられて、ほんの少しだけやわらいでいく気がする。
星空柄の表紙のあのノートも、夏祭りのあとにしまいこまれたわけではなかった。
二人の「夏休みの願いごと計画」は、のんびりしたペースのまま、今もちゃんと続いている。
ただ、その進み方は前よりずっと気ままになっていた。
たとえば、蒸し暑い夕暮れ。
リストの曖昧な一文を頼りに、電車で近くの海辺まで出かけたことがあった。
けれど時間を読み違えて、見られたのは期待していた夕焼けではなく、沈みかけの夕日の名残だった。
あるいは、緒山がどこからか手に入れてきたマイナーな芸術映画のチケットで、二人で冷房のよく効いた小さな映画館に入り、静かで少し眠くなるような午後を過ごしたこともあった。
やっていること自体は、どれも大したことじゃない。
それでも、いつも隣にいる相手が同じだと、ちょっとした行き違いも、なんでもない時間さえ、夏の光にやわらかく縁取られているように思えた。
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【九月十日・火曜日・午後】
暑さの盛りは過ぎたはずなのに、空気にはまだ真夏の名残が色濃く残っていた。
蝉の声さえ、どこか途切れがちで頼りない。窓の外では強い日差しがじりじりとすべてを焼きつけ、室内だけが冷房でどうにかわずかな涼しさを保っている。
石原は、うんざりしながら動かしていたペンを放り出し、そのままベッドに倒れ込んだ。
見慣れた天井の模様をぼんやりと見上げて、長く息を吐く。
夏休みの課題は、どうにか少しだけ進んだ。
気分のいい作業ではなかったが、とりあえず一つの山は越えた。
少しだけ頭を空っぽにしたあと、石原は枕元のスマホへ手を伸ばす。
指を滑らせて開いたのは、見慣れたグループチャットだった。
【泉方新高生徒会】
石原は短く打ち込む。
「夏休みの課題、まだ生きてるやつは報告」
ほとんど間を置かず、花野の返信が表示された。
「三日前に既定の課題および自主予習計画はすべて完了。なお、当該内容は生徒会の定例業務とは無関係。私的な連絡には別の手段の使用を推奨する。@石原」
相変わらず、無駄がない。
画面の向こうで、花野が無表情のまま淡々と打ち込んでいる姿が、目に浮かぶようだった。
続いて、緒山。
「私はだいたい終わってますよ〜。でも物理の実験レポートがちょっと不安で……先輩はどんな感じですか?(。•́ω•̀。)」
少し困ったような顔文字つきだった。
春野の返信は、いつも通り落ち着いていた。
「主要部分は完了。今は最後の確認中だ。必要なら相談に乗る」
「課題? それっておいしいの?( ̄▽ ̄)」
杏のひと言。
期末でうっかり学年一位を取ってしまったせいで、特別に「自主的に学習内容を組んでいい」とされているらしい。
その発言に、立花が即座に食いついた。
「えっ、ちょっと待ってください!?
それ、完全に自慢じゃないですか!?(╯°□°)
こっちはまだ読書感想文と社会調査レポートの海でもがいてるんですけど!! 助けてください!!
夏休みの楽しさが、課題にじわじわ削られていくんですけど……(T▽T)」
勢いそのままのメッセージが立て続けに送られてきて、石原は少しだけ同情した。
そんなやり取りの最中、春野から新しいメッセージが届いた。
「もし詰まってるところがあるなら、明日の午後、図書館で勉強会でもどうだ?
分からないところをまとめて片づけたほうが、一人で悩むより効率はいいはずだ。環境も悪くない。@全員」
すぐに反応が返ってくる。
「賛成です!! 両手両足を上げて賛成です!! 会長、暗闇の灯台です!! 国語ほんと助けてください!!(;´༎ຶД༎ຶ`)」
「いいですね〜! 図書館の冷房ってほんと救命レベルですし! レポート、生き返りそうです!」
「私は課題の心配はないですけど、みなさんの後方支援ならできますよ〜。ついでに、お兄ちゃんの苦しそうな顔も貴重な記録として残しておこうかな♪」
「可。」
花野まで参加するというのは、ちょっと珍しかった。
石原は一気に賑やかになった画面を見つめ、少しだけ指を止めたあと、
「了解」
とだけ返した。
窓の外では、相変わらず強い日差しが照りつけている。
それでも胸のどこかに、明日のことを待つ気持ちが、ほんの少しだけ生まれていた。
図書館のひんやりした空気。
紙とインクの匂い。
ペン先が紙を走る音。
そして、見慣れた仲間の顔。
――悪くない日になりそうだった。




