第九十話
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キッチンからの物音はやがて落ち着いて、代わりに食材の焼けるじゅうっという音と、食欲を誘う匂いがドアの隙間から流れ込んできた。
――杏が夕飯の支度をしているのだろう。
それから三十分ほどして、控えめなノックの音がした。
「お兄ちゃん、ごはんできたよ」
ドア越しの杏の声は、どこか遠慮がちで、それでも明るい。
「今行く」
石原はそう返し、立ち上がってドアを開けた。
夕飯は、簡単な生姜焼きと味噌汁で、どちらも湯気を立てながら、食卓に並んでいた。
杏はもう席についていて、茶碗を手にしたまま、きらきらした目で石原を見ていた。
「いただきます」
二人の声が重なった。
しばらくは無言だった。
箸と茶碗が触れ合う、小さな音だけが続いた。
どこか、空気は澱んでいる。
まだはっきり決まりきっていない“会う話”が、目に見えない壁みたいに、二人のあいだに横たわっていた。
先に沈黙を破ったのは、やっぱり杏だった。
「お兄ちゃん」
杏は豚肉を一枚つまんだまま、それをすぐには口に運ばず、少しためらってから小さく聞いた。
「……いつ、パパに連絡するの?」
石原の箸が、わずかに止まる。
「明日かな」
口の中のものを飲み込んでから答えた。
「とりあえず時間と場所は決めないといけない。週末のほうが……たぶん都合はつけやすい」
「週末いいね!」
杏はすぐに顔を明るくする。
「私、この週末は何も予定ないよ! お兄ちゃんは? 生徒会とか……」
「たぶん大丈夫だ」
夏祭りも終わって、生徒会の急ぎの仕事もひと区切りついていた。
週末に、どうしても石原がいなければ困るような予定はない。
杏は目に見えてほっとした様子で、その笑顔が、さっきより少し明るくなる。
「よかった! じゃあ……場所は? パパ、今どこに住んでるの? こっちに来るの、大変じゃないかな?」
その問いに、石原はまた黙る。
そこで初めて気づいた。
電話の中で父は「会いたい」としか言っていなかった。
今どこにいるのか、どうやって来るつもりなのか――そこは何ひとつ口にしていなかった。
そして自分も、無意識にそれ以上は聞かなかったのだ。
「……言ってなかった」
石原は正直に答えた。
「明日、連絡したときにちゃんと聞く」
「うん! パパにも何か考えがあるんだよ、きっと。じゃあ待ち合わせは中間くらいにする?
それとも、こっちまで来てもらうのもありかな……あ、でもあんまり遠くまで来てもらうのは悪いかな……」
杏はすっかり楽しそうに考えはじめている。
まるでもう会うこと自体は決まっていて、あとは細かいことを詰めるだけみたいだった。
石原はそれを静かに聞きながら、ときどき短く相槌を打った。
電話を受けて、会うことを決めて、こうして細かい話まで進んでいく。
何もかもがあまりに自然で、なんの障害もなかった。
そして自分は、その暖かな流れに包まれながら前へ流されていくばかりで、どうしようもない。
「……杏」
石原はふいに口を開き、妹の待ち合わせ場所の話を遮った。
「ん?」
杏は箸を止めて顔を上げる。
石原はその澄んだ目を見て、口元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「……なんでもない。食べろ。冷めるぞ――せっかく可愛い妹が作ってくれた手料理を無駄にするわけにいかないからな」
「えへへ……」
本当は聞きたかった。
――本当に、そんなふうに何もかもうまくいくと思ってるのか。
――会ってみたら、父親とのあいだにどうしたって埋められない溝があるって分かるかもしれない。
そう言いかけて、結局、口にはしなかった。
妹の期待を、自分から壊したくはなかった。
それに、そこまで言い切れるだけの理由も、今の自分にはなかった。
……ただ、自分が悲観的すぎるだけなのかもしれない。
夕食は、少し静かなまま終わった。
杏は率先して食器を片づけ、鼻歌まじりにキッチンへ入っていく。
石原はそのまま自分の部屋へ戻った。
今度は、迷わなかった。
スマホのロックを解除し、メッセージ画面を開いた。
宛先には、まだ登録していないあの番号を入れた。
空白の入力欄で、カーソルが点滅していた。
打っては消し、消してはまた打ち直した。
最後に残ったのは、短く、感情を抑えた文面だけだった。
「久希です。会うことですが、週末なら時間が取れます。
そちらは都合がつきそうですか。詳しい時間と場所を教えてください」
二度読み返して、
語調が落ち着いていること、必要なことだけがきちんと入っていること、余計な感情がにじんでいないことを確かめた。
それから送信ボタンを押す。
メッセージはすぐに送信された。
ほとんど同時に、スマホが小さく震えた。
返信だ。
驚くほど早い。
石原はそれを開いた。
「よかった。こちらはいつでも大丈夫です。場所はそちらで決めてもらえれば、こちらから行きます。
泉方にはもう長いこと戻っていないので、今がどんな感じなのかもよく分かっていません。そちらの都合に合わせます」
石原は画面を見つめたまま、親指でその数行を無意識になぞった。
――いつでも大丈夫?
それはつまり、今は仕事の都合がないのか。
それとも、このために時間を空けているのか。
どこに住んでいれば、「いつでも行ける」なんて言えるのか。
答えはなかった。
それに、メッセージでそこまで聞く気にもなれなかった。
石原は部屋を出て、キッチンの入り口まで行く。
杏はちょうど手を拭いているところで、出てきた石原を見ると、どうだったの、と問いかけるような顔をした。
「連絡した」
スマホを軽く持ち上げた。
「いつでも大丈夫だってさ。場所はこっちで決めていいらしい」
杏の目が、またぱっと明るくなった。
「じゃあ……土曜日のお昼にする? 場所は……
『和亭』とかどうかな。あのファミレス、けっこう静かだし、料理も無難で、変に気を張らなくていいし」
石原はうなずいた。
「それでいい。返信する」
もう一度スマホを取り出し、短く打ち込む。
「土曜日の正午、泉方駅前の『和亭』でどうでしょう」
今回の返信も早かった。
「分かった。ありがとう、久希。それから杏にもありがとうと伝えてくれ」
石原は画面を閉じ、その番号を一時的に連絡先へ登録した。
表示名は、シンプルに名字だけ。
石原(父)。
「決まった。土曜日の昼、『和亭』だ」
「うん!」
杏は大きくうなずいた。
その顔には、抑えきれない笑顔が広がっている。
その感情タグは、石原の目にはひどくまっすぐに映った。
【石原杏の感情:喜び34、期待26、安心40】
「じゃあ私、お風呂入ってくるね!」
弾んだ声でそう言うと、杏はそのまま浴室のほうへ向かっていく。
足取りは軽く、鼻歌までついていた。
石原はその場に立ったまま、妹の背中を見送る。
それから、スマホの画面にもう一度目を落とした。
そこには、さっき登録したばかりの連絡先が表示されている。
石原は部屋へ戻り、ドアを閉めた。
スマホを机の上に置くと、鈍い音がする。
外はもう、すっかり夜だった。
遠くで電車の走る音がかすかに聞こえて、すぐにまた静けさが戻る。
石原はベッドに横になり、天井を見つめた。
疲れが、ゆっくりと押し寄せてくる。
けれどそれは、体の疲れじゃなかった。
――土曜日。
心の中で、その日を小さく繰り返す。
そして、目を閉じた。




