第八十一話
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二人はそのまま歩き続け、食べ物の匂いが漂う屋台の並びを抜け、賑やかな遊戯エリアを通っていった。
ふと、見覚えのある暖簾が目に入った。
――「小倉屋」。名物のきな粉団子で知られる老舗だ。
店先には、相変わらず長すぎず短すぎもしない列ができていた。
緒山の足が、ほんの少し止まる。
彼女は小さなバッグからあのノートを取り出し、あるページを開いた。
指先で、「小倉屋」の横にずっと空いたままだった、小さな点だけが打たれた欄をそっとなぞった。
それからペンを取り出し、迷いのない手つきで、その点の上に小さく、けれどはっきりとしたチェックを入れる。
石原はその動きを見ていた。
一瞬の疑問のあと、記憶が一気に押し寄せた。
夕暮れの商店街。
途中で終わってしまった“甘いもの作戦”。
結局、一緒には食べられなかった団子。
そして――春野の、あの冷たい詰問。
あの夜の中断と心残りは、まるで昨日のことみたいだった。
けれど、今は違う。
祭りは無事に進み、仲間たちも皆無事だ。
春野は新しい形で前に進み、立花も回復に向かっている。
そして二人はこうしてここにいて、夏の夜風もちょうどいい。
「……この前の」
石原が低く口を開いた。
「うん」
緒山はノートを閉じ、胸の前で抱える。
店の灯りを映した瞳には、かすかな潤みがあった。
「今度は……ちゃんと、埋められたね」
二人のあいだに、言葉にしなくても通じる感慨が、そっと広がった。
それは、遅れてやってきたこの小さな円満と、この夏に重ねてきたすべてを思う気持ちだ。
――そのとき。
ヒュウ――ドンッ!
一本の花火が尾を引きながら夜空へ昇り、頂点で大きく弾けた。
まばゆい金の光が一瞬で広がり、見上げた無数の顔を照らし出す。
続けて、二発、三発と花火が上がった。
赤、青、銀。
次々と咲く光は、花のように、流れる星の川のように、夏の夜空を目まぐるしく染めていった。
轟音と歓声が重なり合い、細かな音はすべて掻き消される。
その盛大な光景を前に、二人は揃って顔を上げた。
色とりどりの光が瞳の中で弾け、そのまま緒山と石原の頬を照らしていた。
そのとき、石原の視線が緒山の抱えるノートへ落ちる。
表紙に書かれた文字――「夏休み計画表」。
ふいに、ひとつの考えが浮かんだ。
ほとんど考えるより先に、言葉が口をついていた。
「……じゃあ、次の項目は?」
「え?」
緒山がはっとしたように振り向いた。
花火の光が、見開かれた瞳の中で明滅する。
「つ、次の項目? 先輩、それって……」
石原はそこでようやく、自分が何を口にしたのか気づいた。
遅れて、気まずさと照れが一気に押し寄せてくる。
視線が夜空から彼女の顔へ戻り、あまりにまっすぐなその目に、思わず逸らしかけた。
けれど、無理やりそこで踏みとどまる。
「……その、ちょうど時間もあるし……よければ」
花火の音に紛れそうなくらい小さな声だった。
それでも、ちゃんと届く距離にあった。
緒山はじっと彼を見ていた。
不器用に言葉を探す様子。
花火に照らされて、いつもより少し柔らかく見える横顔。
それから、照れながらも、もう逃げようとしないその目。
驚きは、やがて小さく納得したような笑みに変わっていく。
彼女は首を少し傾け、わざとらしく声を伸ばした。
「へぇ~? それって……私を“誘ってる”ってことでいいんですか?」
「……」
石原はまた言葉を詰まらせ、気まずそうに唇を引き結んだ。
その様子に、緒山はとうとう吹き出した。
くすっと零れた笑い声が、花火の轟きと歓声の中へ溶けていく。
ひとしきり笑ってから、彼女はようやく落ち着いた。
頬にはまだ赤みが残っていたが、その瞳は夜空の花火よりもずっと明るい。
彼女は答えの代わりに、ノートを胸の前で軽く叩いた。
「実はね、“誰か”と一緒に夏祭りの花火大会を見るっていう項目……」
そこで一度言葉を切り、今まさに咲き続ける夜空を見上げた。
口元がふわりと緩む。
「……もう達成済みなんだよ」
その言葉を追いかけるみたいに、銀紫色の花火が空いっぱいに広がった。
滝のような光が降り注ぎ、彼女の笑顔をいっそう鮮やかに照らし出す。
石原は、思わず息を止めた。
花火に照らされた緒山の顔。
その手の中にある、夏の願いを書き留めたノート。
夜風は涼しいのに、二人のあいだの空気だけが妙に熱を帯びていた。
緒山は、もう一度ノートを開く。
指先で軽やかに何ページかめくり、あるところで手を止めた。
何かを確かめるみたいに、視線を落とした――そのとき。
ふいに、少し強い夜風が吹いた。
前髪が揺れ、ノートの紙がぱらりとめくれる。
「っ、あ!」
緒山が慌てて押さえようとした。
だが、その一瞬で――
石原の目は、開かれたページの一行を捉えていた。
見覚えのある、緒山の丁寧な字。
その横には、さらに小さな字で何かが書き足されていた。
書かれていたのは――
「“誰か”と一緒に夏祭りの花火大会を見る」
そして、その「誰か」の横の余白には、少し幼い字で、こう書き足されていた。
「自覚のないバカな先輩」
さらにその下には、一度消して書き直したような跡があった。
「先輩」という文字と、描きかけの、むっと膨れた簡単な顔の落書きまで見えた。
風が止み、ページが落ちた。
緒山はノートをぎゅっと押さえたまま、顔を上げられないでいる。
頬は一瞬で真っ赤になり、その熱は首元まで一気に広がっていた。
身体を小さく縮め、視線を逸らす。
今にもその場から消えてしまいたい、みたいに。
空気が固まる。
二人のあいだには、心臓が止まりそうなくらいの沈黙と、緒山の頭上で【羞恥】と【狼狽】と【後悔】が入り混じりながら激しく揺れ続ける感情タグだけがあった。
石原は、少しだけ目を見開いた。
(バカな先輩……か。緒山さんの中では)
心の中でそう繰り返した。
すると、可笑しさと、どうしようもない苦笑いと、それからもっと奥のほうを熱くする何かが、胸の中でゆっくり混ざり合っていく。
やがて、その熱が最初の居心地の悪さを静かに押し流していった。
次の瞬間、大きな金色の花火が夜空で弾ける。
その轟きの中、石原は視線を外し、遠く、花火に照らされた屋根の輪郭を見つめた。
声は大きくなかった。
けれど、喧騒の中でも不思議とはっきり届いた。
「……“バカな先輩”っていうのは、ちょっとひどい」
そこで一度、言葉が途切れた。
何かを決めたみたいに、ゆっくりと視線を戻す。
その先にあったのは、うつむいたまま赤く染まった彼女の耳先だった。
声は、さらに低くなった。
「次は……そのまま名前を書いてもいい」
ほんの半拍。
胸の中で何度も転がしてきたその呼び方が、ようやく、ひどく自然にこぼれ落ちた。
「……朋奈」
その一言が落ちた瞬間――
時間が、どこまでも引き延ばされたみたいだった。
緒山の身体がびくりと震える。
ノートを押さえていた手が、一瞬だけ緩んだ。
信じられないものを見るみたいに、ゆっくり顔を上げた。
瞳の中には、空いっぱいの花火の光と、
そして石原の――まだ少し強張ってはいるのに、もう逃げようとしない真剣な顔が映っていた。
胸の中をいっぱいにしていた羞恥も狼狽も、
その呼び方を聞いた途端、妙なくらい静かに沈んでいった。
代わりに、もっと熱くて、もっとどうしようもない鼓動だけが、心臓を強く叩き始める。
「は、はい……」
声はほとんど花火にかき消された。
頬が熱かった。
そのまま、呼び返すみたいに口を開いて――
「……久……」
一音だけこぼれた、その瞬間。
今度はまるで別の羞恥が、一気に押し寄せた。
慌てて下唇を噛み、顔を背ける。
それから、ほとんど聞こえないような声で、慌てて後ろに付け足した。
「……久希……先輩!」
最後の二文字だけ、妙に強くなった。
誤魔化したかったはずなのに、かえって全部ばれてしまうような響きだ。
石原は、その様子を見ていた。
真っ赤になりながら、それでもなんとか平静を装おうとする顔。
瞳の奥で揺れる、花火よりも眩しい光。
それを見ているうちに、胸のどこかで、小さなあたたかい花火がそっと咲いた気がした。
石原は何も言わず、少し困ったように笑う。
そして視線を戻し、彼女と並んで空を見上げた。
夜空では、花火がさらに勢いを増していった。
さまざまな形が次々に咲き、祭りのあちこちを照らしている。
それぞれの場所で、この時間を楽しんでいる仲間たちの姿まで照らしていた。
人混みの少し外れたところでは、春野が一人、静かに立っていた。
空を見上げるその横顔には、もう焦りも、張り詰めたものもない。
ただ一人で、穏やかにそこにいた。
夜風が前髪を揺らした。
ポケットに手を入れたままの姿は、これまでにないほど力が抜けていた。
花火の光が瞳の中で明滅する。
そこにはもう、未来を先回りして見るような不安は映っていなかった。
ただ、今この瞬間の美しさを、そのまま受け止めているだけだ。
彼は深く息を吸い、ゆっくり吐き出した。
――胸の底に残っていた最後の澱まで、吐き出すみたいに。
そして、ほんの少し笑った。
もう十分だ、と春野は思った。
これでいい。
少し離れた場所では、杏がはしゃぎながらスマホを掲げ、空を映していた。
画面の向こうの立花に向けて、花火の形を一生懸命説明していた。
スピーカー越しに聞こえる立花の声も、楽しそうに弾んでいた。
距離はあっても、同じ光をちゃんと分け合っていた。
さらに離れたサービスステーションの隅。
花野は、相変わらずそこに座っていた。
空は見上げていなかった。
視線は、タブレットに映る最後のデータへ落ちていた。
すべての指標は安定。
イベント成功率は、想定ピークに到達。
彼女は眼鏡を押し上げ、画面を閉じた。
遠くの花火の音も、歓声も、
彼女にとってはただ遠い背景音でしかなかった。
ノイズキャンセリングヘッドホンをつけ、静かに目を閉じた。
夜空では、最後の一斉打ち上げが始まっていた。
最も密で、最も華やかな光が、世界を昼のように照らす。
その光の中で――
石原は、そっと横を向いた。
隣にいる少女を見た。
彼女は空を見上げたまま、瞬きも忘れたみたいに、一つひとつの花火を追っていた。
頬にはまだ赤みが残り、
口元には、満ち足りたやわらかな笑みが浮かんでいた。
花火の光が、その横顔を明るく流れていく。
ふいに、緒山もわずかに顔を傾けた。
視線が合う。
眩しい光の中で、言葉はなかった。
(――夏って、本当はこうやって終わるものなんだな)
この長くて、騒がしくて、めまぐるしかった夏の終わりに。
きっと、何かが静かに変わり、根を下ろし始めていた。
最後の花火が、長い尾を引きながら夜の底へ溶けていった。
人々のあいだから、満ち足りたため息と拍手が広がる。
祭りの空気は、少しずつやわらかな終わりへ向かっていった。
星が、また空にはっきり戻ってきた。
夏の風はやさしい。
――ひとつの章が、ここに幕を閉じた。
そして新しい物語は、たぶんもう、すぐそばにあった。
すぐ隣の誰かがそっと吐いた、あたたかな息の中に。
繋いだ手の中で、少しずつ高まっていく熱の中に。
それから、星の光よりもずっと長く残る、互いの瞳の奥に灯された小さな灯りの中に。




