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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第十六章 花火の夜に――もう、何も見失わない
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第八十一話

---


二人はそのまま歩き続け、食べ物の匂いが漂う屋台の並びを抜け、賑やかな遊戯エリアを通っていった。


ふと、見覚えのある暖簾が目に入った。

――「小倉屋」。名物のきな粉団子で知られる老舗だ。


店先には、相変わらず長すぎず短すぎもしない列ができていた。


緒山の足が、ほんの少し止まる。


彼女は小さなバッグからあのノートを取り出し、あるページを開いた。

指先で、「小倉屋」の横にずっと空いたままだった、小さな点だけが打たれた欄をそっとなぞった。


それからペンを取り出し、迷いのない手つきで、その点の上に小さく、けれどはっきりとしたチェックを入れる。


石原はその動きを見ていた。

一瞬の疑問のあと、記憶が一気に押し寄せた。


夕暮れの商店街。

途中で終わってしまった“甘いもの作戦”。

結局、一緒には食べられなかった団子。

そして――春野の、あの冷たい詰問。


あの夜の中断と心残りは、まるで昨日のことみたいだった。


けれど、今は違う。

祭りは無事に進み、仲間たちも皆無事だ。

春野は新しい形で前に進み、立花も回復に向かっている。

そして二人はこうしてここにいて、夏の夜風もちょうどいい。


「……この前の」


石原が低く口を開いた。


「うん」


緒山はノートを閉じ、胸の前で抱える。

店の灯りを映した瞳には、かすかな潤みがあった。


「今度は……ちゃんと、埋められたね」


二人のあいだに、言葉にしなくても通じる感慨が、そっと広がった。

それは、遅れてやってきたこの小さな円満と、この夏に重ねてきたすべてを思う気持ちだ。


――そのとき。


ヒュウ――ドンッ!


一本の花火が尾を引きながら夜空へ昇り、頂点で大きく弾けた。

まばゆい金の光が一瞬で広がり、見上げた無数の顔を照らし出す。


続けて、二発、三発と花火が上がった。


赤、青、銀。

次々と咲く光は、花のように、流れる星の川のように、夏の夜空を目まぐるしく染めていった。


轟音と歓声が重なり合い、細かな音はすべて掻き消される。


その盛大な光景を前に、二人は揃って顔を上げた。

色とりどりの光が瞳の中で弾け、そのまま緒山と石原の頬を照らしていた。


そのとき、石原の視線が緒山の抱えるノートへ落ちる。

表紙に書かれた文字――「夏休み計画表」。


ふいに、ひとつの考えが浮かんだ。


ほとんど考えるより先に、言葉が口をついていた。


「……じゃあ、次の項目は?」


「え?」


緒山がはっとしたように振り向いた。

花火の光が、見開かれた瞳の中で明滅する。


「つ、次の項目? 先輩、それって……」


石原はそこでようやく、自分が何を口にしたのか気づいた。


遅れて、気まずさと照れが一気に押し寄せてくる。

視線が夜空から彼女の顔へ戻り、あまりにまっすぐなその目に、思わず逸らしかけた。

けれど、無理やりそこで踏みとどまる。


「……その、ちょうど時間もあるし……よければ」


花火の音に紛れそうなくらい小さな声だった。

それでも、ちゃんと届く距離にあった。


緒山はじっと彼を見ていた。


不器用に言葉を探す様子。

花火に照らされて、いつもより少し柔らかく見える横顔。

それから、照れながらも、もう逃げようとしないその目。


驚きは、やがて小さく納得したような笑みに変わっていく。


彼女は首を少し傾け、わざとらしく声を伸ばした。


「へぇ~? それって……私を“誘ってる”ってことでいいんですか?」


「……」


石原はまた言葉を詰まらせ、気まずそうに唇を引き結んだ。


その様子に、緒山はとうとう吹き出した。

くすっと零れた笑い声が、花火の轟きと歓声の中へ溶けていく。


ひとしきり笑ってから、彼女はようやく落ち着いた。

頬にはまだ赤みが残っていたが、その瞳は夜空の花火よりもずっと明るい。


彼女は答えの代わりに、ノートを胸の前で軽く叩いた。


「実はね、“誰か”と一緒に夏祭りの花火大会を見るっていう項目……」


そこで一度言葉を切り、今まさに咲き続ける夜空を見上げた。

口元がふわりと緩む。


「……もう達成済みなんだよ」


その言葉を追いかけるみたいに、銀紫色の花火が空いっぱいに広がった。

滝のような光が降り注ぎ、彼女の笑顔をいっそう鮮やかに照らし出す。


石原は、思わず息を止めた。


花火に照らされた緒山の顔。

その手の中にある、夏の願いを書き留めたノート。


夜風は涼しいのに、二人のあいだの空気だけが妙に熱を帯びていた。


緒山は、もう一度ノートを開く。

指先で軽やかに何ページかめくり、あるところで手を止めた。


何かを確かめるみたいに、視線を落とした――そのとき。


ふいに、少し強い夜風が吹いた。


前髪が揺れ、ノートの紙がぱらりとめくれる。


「っ、あ!」


緒山が慌てて押さえようとした。

だが、その一瞬で――


石原の目は、開かれたページの一行を捉えていた。


見覚えのある、緒山の丁寧な字。

その横には、さらに小さな字で何かが書き足されていた。


書かれていたのは――


「“誰か”と一緒に夏祭りの花火大会を見る」


そして、その「誰か」の横の余白には、少し幼い字で、こう書き足されていた。


「自覚のないバカな先輩」


さらにその下には、一度消して書き直したような跡があった。

「先輩」という文字と、描きかけの、むっと膨れた簡単な顔の落書きまで見えた。


風が止み、ページが落ちた。


緒山はノートをぎゅっと押さえたまま、顔を上げられないでいる。

頬は一瞬で真っ赤になり、その熱は首元まで一気に広がっていた。

身体を小さく縮め、視線を逸らす。

今にもその場から消えてしまいたい、みたいに。


空気が固まる。


二人のあいだには、心臓が止まりそうなくらいの沈黙と、緒山の頭上で【羞恥】と【狼狽】と【後悔】が入り混じりながら激しく揺れ続ける感情タグだけがあった。


石原は、少しだけ目を見開いた。


(バカな先輩……か。緒山さんの中では)


心の中でそう繰り返した。


すると、可笑しさと、どうしようもない苦笑いと、それからもっと奥のほうを熱くする何かが、胸の中でゆっくり混ざり合っていく。

やがて、その熱が最初の居心地の悪さを静かに押し流していった。


次の瞬間、大きな金色の花火が夜空で弾ける。


その轟きの中、石原は視線を外し、遠く、花火に照らされた屋根の輪郭を見つめた。

声は大きくなかった。

けれど、喧騒の中でも不思議とはっきり届いた。


「……“バカな先輩”っていうのは、ちょっとひどい」


そこで一度、言葉が途切れた。

何かを決めたみたいに、ゆっくりと視線を戻す。

その先にあったのは、うつむいたまま赤く染まった彼女の耳先だった。

声は、さらに低くなった。


「次は……そのまま名前を書いてもいい」


ほんの半拍。

胸の中で何度も転がしてきたその呼び方が、ようやく、ひどく自然にこぼれ落ちた。


「……朋奈」


その一言が落ちた瞬間――


時間が、どこまでも引き延ばされたみたいだった。

緒山の身体がびくりと震える。

ノートを押さえていた手が、一瞬だけ緩んだ。


信じられないものを見るみたいに、ゆっくり顔を上げた。


瞳の中には、空いっぱいの花火の光と、

そして石原の――まだ少し強張ってはいるのに、もう逃げようとしない真剣な顔が映っていた。


胸の中をいっぱいにしていた羞恥も狼狽も、

その呼び方を聞いた途端、妙なくらい静かに沈んでいった。

代わりに、もっと熱くて、もっとどうしようもない鼓動だけが、心臓を強く叩き始める。


「は、はい……」


声はほとんど花火にかき消された。

頬が熱かった。


そのまま、呼び返すみたいに口を開いて――


「……久……」


一音だけこぼれた、その瞬間。

今度はまるで別の羞恥が、一気に押し寄せた。


慌てて下唇を噛み、顔を背ける。

それから、ほとんど聞こえないような声で、慌てて後ろに付け足した。


「……久希……先輩!」


最後の二文字だけ、妙に強くなった。

誤魔化したかったはずなのに、かえって全部ばれてしまうような響きだ。


石原は、その様子を見ていた。


真っ赤になりながら、それでもなんとか平静を装おうとする顔。

瞳の奥で揺れる、花火よりも眩しい光。


それを見ているうちに、胸のどこかで、小さなあたたかい花火がそっと咲いた気がした。


石原は何も言わず、少し困ったように笑う。

そして視線を戻し、彼女と並んで空を見上げた。


夜空では、花火がさらに勢いを増していった。

さまざまな形が次々に咲き、祭りのあちこちを照らしている。

それぞれの場所で、この時間を楽しんでいる仲間たちの姿まで照らしていた。


人混みの少し外れたところでは、春野が一人、静かに立っていた。

空を見上げるその横顔には、もう焦りも、張り詰めたものもない。

ただ一人で、穏やかにそこにいた。


夜風が前髪を揺らした。

ポケットに手を入れたままの姿は、これまでにないほど力が抜けていた。

花火の光が瞳の中で明滅する。

そこにはもう、未来を先回りして見るような不安は映っていなかった。

ただ、今この瞬間の美しさを、そのまま受け止めているだけだ。


彼は深く息を吸い、ゆっくり吐き出した。

――胸の底に残っていた最後の澱まで、吐き出すみたいに。

そして、ほんの少し笑った。


もう十分だ、と春野は思った。

これでいい。


少し離れた場所では、杏がはしゃぎながらスマホを掲げ、空を映していた。

画面の向こうの立花に向けて、花火の形を一生懸命説明していた。

スピーカー越しに聞こえる立花の声も、楽しそうに弾んでいた。

距離はあっても、同じ光をちゃんと分け合っていた。


さらに離れたサービスステーションの隅。

花野は、相変わらずそこに座っていた。

空は見上げていなかった。

視線は、タブレットに映る最後のデータへ落ちていた。


すべての指標は安定。

イベント成功率は、想定ピークに到達。


彼女は眼鏡を押し上げ、画面を閉じた。

遠くの花火の音も、歓声も、

彼女にとってはただ遠い背景音でしかなかった。

ノイズキャンセリングヘッドホンをつけ、静かに目を閉じた。


夜空では、最後の一斉打ち上げが始まっていた。

最も密で、最も華やかな光が、世界を昼のように照らす。


その光の中で――

石原は、そっと横を向いた。

隣にいる少女を見た。


彼女は空を見上げたまま、瞬きも忘れたみたいに、一つひとつの花火を追っていた。

頬にはまだ赤みが残り、

口元には、満ち足りたやわらかな笑みが浮かんでいた。


花火の光が、その横顔を明るく流れていく。


ふいに、緒山もわずかに顔を傾けた。

視線が合う。


眩しい光の中で、言葉はなかった。


(――夏って、本当はこうやって終わるものなんだな)


この長くて、騒がしくて、めまぐるしかった夏の終わりに。

きっと、何かが静かに変わり、根を下ろし始めていた。


最後の花火が、長い尾を引きながら夜の底へ溶けていった。

人々のあいだから、満ち足りたため息と拍手が広がる。

祭りの空気は、少しずつやわらかな終わりへ向かっていった。


星が、また空にはっきり戻ってきた。

夏の風はやさしい。


――ひとつの章が、ここに幕を閉じた。


そして新しい物語は、たぶんもう、すぐそばにあった。

すぐ隣の誰かがそっと吐いた、あたたかな息の中に。

繋いだ手の中で、少しずつ高まっていく熱の中に。

それから、星の光よりもずっと長く残る、互いの瞳の奥に灯された小さな灯りの中に。

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