第八十話
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祭りの灯りはまた、いっそう華やかな彩りを取り戻した。
人々の熱気は少しも衰えず、通りは相変わらずの賑わいに包まれている。
主要な誘導と安全確保がひと段落すると、春野はその後の輪番体制を整え、石原と緒山を含む第一陣の中核実行委員を臨時指揮点へ呼び集めた。
「交代の時間だ」
忙しさの名残を引くように、少しかすれた声だった。けれど、その口元には笑みが浮かんでいる。
視線が一人ひとりをなぞり、石原と緒山のところでわずかに止まった。
「いちばん張り詰める時間帯はもう過ぎた。あとは次の班に任せればいい。みんな、お疲れさま」
そこで一拍置いて、春野は続けた。
「ここからは、ちゃんと祭りを楽しんでくれ。これは、俺たちが頑張って作り上げた成果だ」
みな顔を見合わせて、自然と笑みをこぼす。
張りつめていた空気が、ふっとほどけた。
やがて人は少しずつ散り、それぞれ祭りの人波の中へ溶けていく。
緒山は小さく息を吐き、少し固まっていた肩を回した。
それから自然と石原の姿を探す。
少し離れたところで、焼きそばの屋台のほうを眺めている彼を見つけると、彼女はそのまま数歩で歩み寄った。
「先輩~」
明るい声で呼びかけて、その隣へぴょんと並んだ。
「会長もああ言ってましたし、私たちも“命令を実行”しませんか?」
石原は振り向き、提灯のあたたかな灯りに照らされた彼女の瞳を見て、小さくうなずく。
「……ああ」
特に行き先を決めることもなく、二人は人の流れに身を任せて歩き出した。
自分たちの手で支えてきたこの賑わいを、そのまま肌で感じるように歩いていく。
たこ焼きの香り。
金魚すくいの水音。
射的屋台の澄んだ鈴の音。
どれも、いつもとは少し違って、どこか親しみを帯びたものに見えた。
「――あっ! お兄ちゃん! 朋奈さん!」
弾んだ声が、すぐ近くから飛んできた。
見ると杏が、大きなりんご飴を掲げながら、もう片方の手でスマホを高く持ち上げていた。
画面には、にこにこと笑う立花の顔が大きく映っていた。
「見て見て! 二人つかまえたよー!」
杏は画面に向かってそう叫び、それから石原たちへと向き直った。
「美里ちゃんが“現場見たい”って言うから、案内してるの! 一緒に回ろう!」
画面の向こうで立花が手を振った。
スピーカー越しの声は、いかにも楽しそうだ。
「先輩、朋奈ちゃん! お祭り、めちゃくちゃ賑やかそうですね!
あっ、そのお面かわいい! 杏ちゃん、もうちょっと左ですっ」
元気いっぱいの立花と、それに応える杏の様子を見て、石原と緒山は思わず笑ってしまった。
緒山は少し身をかがめて画面に顔を寄せ、わざと拗ねたような声を出す。
「美里ちゃん、ひどいです~。杏ちゃんばっかり案内役にして、私には声かけてくれないんですね」
画面の中で、立花と杏がちらっと顔を見合わせた。
そして、同時に意味ありげな笑みを浮かべる。
立花が目を細めた。
「だって朋奈ちゃんには、“もっと大事な人”がいるじゃないですか~。私が邪魔しちゃ悪いですし?」
「そうそう!」
杏もすぐに乗っかった。
りんご飴をかじりながら、口の中でもごもごと言う。
「お兄ちゃんも、さっきまでずっと“話しかけるな”って顔して見回ってたのに、今はもう……ねぇ?」
わざと語尾を引っぱりながら、視線を二人の間で行ったり来たりさせた。
緒山の頬がほんのり赤くなる。
少しむっとしたように画面を睨み返した。
「もう、二人とも!」
石原は軽く咳払いをして、視線を逸らした。
耳のあたりが少し熱い。
その様子に、画面の向こうの二人はますます楽しそうに笑う。
四人はそんなふうに、“一緒に”しばらく祭りを歩いた。
立花は画面越しに杏のカメラをあれこれ指示しながら、屋台や飾りつけを見ては次々と感想を口にしていた。
まるで本当にその場にいるみたいで、来られなかった寂しさも少し薄れていくようだった。
やがて、ボランティアサービスステーションの前を通りかかったとき、杏は綺麗に並んだ風鈴の屋台にすっかり目を奪われ、「ちょっと見てくる!」と、一時的に“離脱”して駆けていった。
緒山は杏が駆けていく背中を見送り、くすっと笑って軽く首を振った。
そのままサービスステーションへ視線を流し――ふと、動きを止める。
少しひっそりした隅に、花野が一人、折りたたみ椅子に腰かけていた。
目の前の小さなテーブルにはタブレットが置かれていたが、画面はもう暗く落ちている。
彼女は賑わう人波には目も向けず、ただ遠くの灯りを静かに見ていた。
明暗の入り混じる光の中、その横顔はどこか近寄りがたい。
緒山はくるりと目を動かすと、石原に「しーっ」と合図し、足音を殺して背後へ回り込んだ。
そして、ぱっと手を伸ばし、肩を叩こうとした――その瞬間。
「緒山。あなたの足音は、三・五メートル手前で群衆ノイズの遮蔽を失っていた」
振り向きもせず、花野が淡々と言う。
緒山の手が空中で止まり、そのまましゅんと下がった。
「うぅ……真汐ちゃん、相変わらず可愛くない……ちょっとくらい隙を見せてくれてもいいのに」
花野はゆっくりと顔を向け、眼鏡の位置を指で押し上げた。
「騒がしい環境で基本的な警戒を維持するのは合理的行動。用件は?」
「なにそれ。もちろん一緒に回ろうって誘いに来たに決まってるでしょ!」
緒山は腰に手を当て、わざとらしく頬を膨らませた。
「仕事終わったんだから、そんなところで一人で座ってないでさ」
「人混みと社交には興味がない」
即答だった。
視線が、わずかに緒山の背後――石原のほうへ流れる。
「それに、余剰なユニットになるつもりもない」
石原は意味を完全には飲み込めなかったが、“余剰なユニット”という言い方に、何か含みがあるような気はした。
一方、緒山は一瞬固まり、次の瞬間、顔を真っ赤にする。
「な、なによ余剰なユニットって……真汐ちゃん、変なこと言わないでよ……もう……なんでそうなるの……」
花野はそれ以上は何も言わなかった。
代わりに、小さなバッグから細長い未開封の箱を取り出し、緒山へ差し出す。
「補給用。今の環境下での消耗を考えると、必要になる可能性が高い」
緒山は反射的に受け取り、手元を見た。
洒落た箱に入ったチョコレート菓子――ポッキーだった。
一気に顔が熱を帯びる。
「え、あ、ありがとう……でも、なんでポッキー……」
「糖分と炭水化物の配分が適切。持ち運びやすく、分けやすい」
花野はすでに視線を外し、再び遠くの灯りへ向き直っていた。
これ以上話すつもりはない、という態度だ。
「良い観測を」
緒山はポッキーの箱を握ったまま、まだ状況を飲み込みきれていない石原の腕を引き、その場を離れた。
ほとんど逃げるようにサービスステーションを後にする。
しばらく歩き、人混みに紛れたところでようやく足を緩めた。
頬の赤みはまだ消えていなかった。
「花野さん……さっき、なんか含みのある言い方してなかったか?」
石原が遅れて口にした。
「な、なんでもないってば! あの人はいつもああなの!」
緒山は慌てて否定した。
ポッキーの箱を握る指先に、わずかに力がこもる。
その反応が、むしろ余計に気になった。
石原は彼女の横顔を見る。
赤くなった頬と、どこか落ち着かない様子。
ポッキーの意味までは分からなかった。
だが――彼女が困っていることだけは、はっきりと伝わってきた。
(……何かしないと。少しでも、落ち着かせたほうがいい)
視線が、彼女の手元へ落ちる。
少し迷ってから、手を伸ばした。
「……それ、食べるか」
「え?」
緒山が驚いたように顔を上げた。
石原は箱を受け取り、不器用な手つきで開けて、細い一本を取り出す。
そして、そのまま緒山の前へ差し出した。
「……補給」
花野の言葉を、そのままなぞるみたいに言った。
緒山は、差し出されたポッキーと、石原の少しぎこちないのに真面目な顔を交互に見た。
さっきまでの気まずさも、照れも、いつの間にか薄れている。
けれど今度は、何を突っ込めばいいのか分からなくなった。
思わず、ぷっと吹き出す。
「ふふっ……ありがとうございます、先輩」
ポッキーを受け取り、小さく笑った。
「ほんと、バカですね」
最後の一言は、ほとんど吐息みたいに小さくて、かすかな甘さを含んでいた。
(……なんでバカなんだ)
石原は、それ以上は深く聞かなかった。




