第七十九話
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【八月三十一日・土曜日・夜】
夕暮れが落ち、祭りの灯りがひとつ、またひとつと灯っていく。
泉方区の通りは、流れるようなあたたかな金色の光の川に染まっていた。
人々のざわめき、音楽、食べ物の匂い、そして夏の夜のひんやりした風。
それらが入り混じって、夏祭りだけの喧騒と高揚に満ちた鼓動を形づくっていた。
実行委員会の面々は、それぞれ要所に散り、インカムとグループチャットで密に、かつ簡潔に連絡を取り合う。
石原はメインストリートの中ほどを巡回し、人の流れと屋台の秩序に目を配っていた。
ふと視線を向けた先では――
少し離れた場所で、春野がボランティア二人と一緒に、「金魚すくい」の屋台前にできた長い列の整理に当たっていた。
動きはきびきびしていて、ボランティアへの声かけも落ち着いている。
目の前の具体的な仕事に、しっかり意識が向いていた。
すべては、順調に回っているように見えた。
やがて、伝統の神輿巡行の列が、あの狭い通りへゆっくりと差しかかった。
そこは、かつて春野が必死に避けようとしていた、ルートAの中核区画のひとつだった。
豪華に飾られた木製の神輿が、祭り半纏を着た壮年の男たち数十人の肩に担がれ、揃った掛け声に合わせて揺れながら進んでいた。
そのまわりには歓声を上げる人々と揺れる灯りがひしめき、場の熱気は頂点に達していく。
そのとき、石原のインカムに、その場を担当している生徒のやや切羽詰まった声が入った。
「神輿、まもなく狭い区間を通ります。両側の人流圧が上がってます。こちらで誘導を続けます」
ほぼ同時に、石原の視線が春野を捉えた。
神輿の木の基角が、人波と担ぎ手の肩替えの動きに合わせてわずかに傾き、通り沿いの菓子店が張り出した大きな日除けの縁を、ぎりぎりで掠めた――
ぎいっ――
木と布が擦れる音がして、日除けが大きくぐらりと揺れた。
上に吊るされていた飾りの小さな風鈴が、ちりん、ちりんと鳴る。
人混みの中から、小さなどよめきが上がった。
その瞬間、十数メートル先にいた春野の身体が、ぴたりと固まった。
石原には想像がついた。
かつて“見てしまった”あの光景――車輪が引っかかるイメージの断片が、今この揺れる日除けと、頭の中で禍々しく重なっているのだと。
春野の手が、反射的に持ち上がった。
制止か、介入か。そんな合図を出そうとしたかのように。
――時間が、ほんの一秒だけ引き延ばされたようだった。
だが、その手は最後まで振り下ろされず、インカムを押すこともなかった。
彼は無理やり視線を日除けから引き剥がし、勢いよく横へ向ける。
そして次の瞬間、弾かれたように前へ踏み出した。
「左、しっかり支えて! 担ぎ手さん、もう半歩だけ右へ! そう、そのままゆっくり!」
声はよく通り、動きに迷いはなかった。
神輿の角度を微調整させながら、自分でも日除けの支柱を押さえ、少し怯えた店主にも素早く声をかける。
「大丈夫です、擦っただけです! もう安定してます!」
その声に続いて、担ぎ手の側からも声が上がり、人々のざわつきはすぐに鎮まっていった。
ほんの五、六秒の出来事だ。
神輿はわずかに角度を変え、そのまま問題なく通り抜けた。
日除けの揺れも止まり、上がっていたどよめきは、安堵混じりの笑いへ変わっていく。
巡行はそのまま続いていった。
まるで、少しひやりとする小さな一幕が挟まっただけだったかのように。
石原は、息を荒くした春野をじっと見ていた。
その場が無事に収まった、まさにその瞬間――
春野の頭上に残っていた、最後のわずかな文字化けの名残が、風にさらわれるみたいに、音もなく消えた。
代わりに浮かび上がったのは、これまでになく鮮明で、安定したタグだった――
【春野陽明の感情:安堵24、疲労26、その他50】
そこに【恐れ】も【不安】もない。
そして、その【安堵】の数値は、はっきりと、確かなものとしてそこにあった。
春野はその場に立ったまま、遠ざかっていく神輿と、何事もなかったように賑わいを取り戻した通りを見つめている。
強張っていた肩が、少しずつ、少しずつ緩んでいった。
やがて彼は手を上げ、どこか戸惑うように、自分の胸元へそっと手を当てる。
ひとつ、瞬きをした。
視界いっぱいに広がる祭りの灯りが、さっきよりも明るく、あたたかく見えた。
喧騒も、笑い声も、食べ物の匂いも――現実そのものの輪郭を取り戻したみたいに、はっきりと押し寄せてくる。
彼は胸元から手を下ろし、向きを変えた。
再び「金魚すくい」の列へ向き直り、落ち着いた声で人々を誘導した。
「押さないでください。順番にお願いします。すぐ案内できますので」
石原は視線を外し、小さく息を吐く。
インカム越しに、緒山の声が届いた。少しだけ心配そうだった。
「さっき狭い通り、ちょっとバタついてませんでした? 大丈夫ですか?」
「問題ない」
石原は、人混みの中でいつも通りに動く春野の背中を一瞥しながら答えた。
「もう収まった。大事にはならなかった」
それに、もしかしたら、今のはちょうどいいタイミングで訪れた“驚き”だったのかもしれない。
人の流れは再び動き出し、祭りの楽しげな熱気はそのまま前へ前へと流れていく。
狭い通りで起きた小さな一幕も、ほどなくもっと大きな喧騒の中へ呑まれ、ほとんど跡を残さないまま消えていった。




