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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第十六章 花火の夜に――もう、何も見失わない
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第七十八話

---


診療所での率直で、けれど痛みを伴う対峙が、危うい循環を強引に断ち切った。


春野は自ら、あらゆる中核的な判断の最終決定から退いた。

その役目は、石原と緒山、花野の三人で構成された「実行委員会」で協議のうえ決める形に改められた。


その代わり、彼は自分に割り振られた具体的な実行業務に集中するようになった。

データの照合、現場の巡回、担当同士の明確な連携調整――そうした、実際に手を動かして進める仕事だ。


最初の適応期間は、決して楽ではなかった。


石原は見ていた。

最初の何度かの作業会議では、議論が重要な分岐点に差しかかるたび、春野は無意識に背を強張らせ、指先で机を小さく叩いていた。

まるで、“覗き見る”衝動に耐えているかのようだった。


そういうときは決まって、彼の頭上に浮かぶタグの文字化けも、落ち着きなく揺れ始める。


それでも、春野は抑え込んだ。

毎回、深く息を吸ってから、視線をもう一度、議論している仲間たちへ戻した。

そして静かに、彼らの結論を待った。


その結論が、自分の一瞬の“感覚”と食い違っていても、彼は黙って受け入れ、実行の場では全力でそれに従った。


緒山はときどき、手間はかかるけれど大事な照合作業を彼が終えたあと、冷えた飲み物を差し出して、笑ってこう言った。

「会長、お疲れさまです。このデータ、すごく助かりましたよ」


石原と花野も、他のチームの進捗を自然な形で共有していた。

“問題報告”という形ではなく、不安を煽りかねない言い方を避けて、平易な説明に置き換えて伝えていた。


立花のほうはというと、毎日グループに自分の回復具合を報告し、ときどきは遠隔で資料整理まで手伝っていた。もっとも、それもこっそりと、ではあったが。


なぜなら――


「美里ちゃん! ちゃんと休んで! 余計なこと考えなくていいから!」


緒山に見つかったら、しっかり叱られるからだ。


「あと杏ちゃんも! こっそり美里ちゃんに資料送るの禁止!」


杏まできっちり巻き込まれていた。


普段はあんなに優しい緒山なのに、こういうときだけ妙に押しが強かい。

それでも立花はしょんぼりすることもなく、ただ笑って、その気遣いを素直に受け取っていた。


春野の変化は、ゆっくりと、けれど確かなものだった。


眉間に残っていた強張りは、日を追うごとに薄れていった。

本人いわく、睡眠の調子もだいぶ良くなったらしい。


チームには、久しく失われていた、確かな手応えが戻ってきていた。

信頼は、より冷静に、より強く、息の合った連携の中で編み直されていく。


そして、八月三十一日の朝が来るころには――


そうして積み重ねてきた安定が、もう新しい“当たり前”になっていた。


夏祭りは、当初の想定とはまるで違う、けれどもしかしたらより健全な空気の中で、ついに幕を開けようとしていた。


---


【八月三十一日・土曜日・朝】


連日続いた張り詰めた準備と、昨夜のひんやりした雨のおかげで、夏の暑気もいくぶん鋭さを失っていた。

空気には湿った土の匂いが混じり、商店街のほうからは、祭り前らしい甘ったるい香りもかすかに流れてきている。


空は澄んだ淡い青で、晴れた夏祭りの一日を予感させた。


泉方新高の校内は、夏の日らしい静けさに包まれている。

けれど、生徒会室だけは別だった。人の出入りは絶えず、夏祭りの準備に追われる慌ただしい空気で満ちていた。


石原は、最後の確認を終えた業者連絡表をファイルに収める。


そのまま視線を室内へ巡らせた。


緒山はホワイトボードの前に立ち、色分けしたマグネットで各エリア責任者の到着状況を随時示している。

スマホ越しに何人かのリーダーとやり取りしながら、澄んだ落ち着いた声で最後の確認を重ねていた。

差し込む朝日が、すっきりとまとめた髪と、淡い色の夏用シャツにやわらかな金色を落としている。


花野は部屋の隅に座り、目の前に二台のタブレットを並べていた。

画面には、各入口の人流予測、物資消費のペース、緊急対応班の現在位置といったデータがリアルタイムで流れていく。

彼女はときおり指先を走らせ、ほんの小さな異常を拾い上げては印をつけ、該当する担当者へ送っていた。

その一連の動きは静かで正確で、まるで精密機器を扱っているかのようだ。


杏は、刷り上がったばかりの進行ガイドを抱え、一つひとつ仕分けしながら物資袋へ詰めていた。

手際よく作業を進めながら、ときどきホワイトボードを見上げ、また花野の画面にもちらりと目をやっている。自分が仕分けている中身が、最新の配置とずれていないかを確かめているのだ。


そして自宅にいる立花も、“さんざんお願いした末に”ようやく緒山の許しをもらい、電子機器の管理権限の確認を手伝っていた。


場の空気には、それまでとはまるで違う“秩序”が満ちていた。


頭上にぶら下がり、いつ落ちてくるかも分からないような張り詰めた感覚は、もうなかった。

その代わりにあったのは、役割分担の明確さと、それぞれが自分の持ち場を滞りなく回しているという滑らかさだ。

誰もが自分のやるべきことを分かっていて、同時に、仲間が自分の持ち場をきちんと果たしてくれると信じていた。


そんな慌ただしい光景の片隅に、春野もいる。


彼が任されていたのは、「臨時保管エリア」の最終設営と物資の再確認だった。

細かさと体力は要るが、重い判断を迫られる場面は比較的少ない仕事だ。


床にしゃがみ込み、リストと見比べながら、預かり用のロックや識別タグの数をひとつずつ数えていた。

朝の光の中、その横顔は少しだけ痩せて見える。

それでも彼は動きを止めず、ただ目の前の作業に集中していた。


石原の視線は、癖のように春野の頭上へ落ちる。

感情タグははっきり見えていた。そして――そこには、はっきりとした変化がある。


かつて頑固に居座っていた文字化けは、いまでは薄れつつあるように見えた。


そのとき、後方支援班の生徒が一人、慌ただしく駆け寄ってきた。案内板のひとつを、予備案Bに従って配置すべきかどうか、確認に来たのだ。


石原は見た。

春野の頭上に、かろうじて残っていた文字化けの名残が、かすかに揺れるのを。


春野は話を聞き終えても、すぐには答えなかった。


指先がわずかに丸まり、手にしたクリップボードをぎゅっと握る。

視線もほんの一瞬だけ宙をさまよった。まるで、何かを“感じ取ろう”としているかのように。


だが、すぐに一度まばたきをして、深く息を吸った。

それから、視線をもう一度その生徒へ戻す。

声は落ち着いていた。


「予備案Bで進めてくれ。あの場所の人流シミュレーションは確認済みだし、B案のほうが合理的だ。気になるなら、花野のところの最新の誘導図ももう一度確認してくれ」


彼は“直感”には頼らなかった。

判断を下すと、ようやく握り込んでいた指をほどき、そのまま手元のチェックリストへ目を落とす。


石原は黙ったままだった。

春野の自制が、彼には見えていた。


「会長」


ホワイトボードのほうから緒山の声が届き、短い沈黙を破った。


「ステージ音響班の子たちから、機材の調整は全部終わったって連絡がありました。これ、最終確認票です。サインをいただいて、そのまま保管に回します」


彼女は書類を手に、こちらへ歩いてくる。

顔には、仕事中らしいきびきびとした笑みが浮かんでいた。


「わかった」


春野はペンを受け取り、ざっと目を通してから名前を書き入れる。

その動作は自然で、よどみがなかった。


「お疲れさま」


「みんなのほうが大変ですよ」


緒山はそう言って笑い、書類を引き取った。

振り返る瞬間、その視線が石原とぶつかる。


二人は言葉を交わさないまま、目だけで通じ合った。

春野の状態は、確かにいいほうへ落ち着きつつある。


ちょうどそのとき、緒山のスマホが震えた。

グループチャットの通知だ。


彼女は画面を開くと、ぱっと顔を明るくして、そのまま皆に見えるようスマホを向けた。


「見てください。美里ちゃんからです」


画面には、立花から送られてきた写真が映っていた。


自宅のソファに座った彼女は、怪我をした足首の下にクッションを当て、目の前にはノートパソコンと広げた資料がいくつも並んでいた。


添えられていたメッセージは――


「前線指揮部より祝電です! 電子系フローの管理権限は、もう一度ぜんぶ確認しておきました! 異常なしです! 遠隔待機中なので、いつでも支援できます!

ps:(ちょっとだけ、お祭りの焼きそばの味が恋しいです……)」


文の最後には、よだれを垂らした可愛い顔の絵文字が添えられていた。


張りつめていた空気が、その写真と明るい文面に少しだけほぐれる。


最初に笑い出したのは杏だった。

「美里ちゃん、やっぱり元気だね!」


「焼きそばならいくらでも用意しとくって伝えとけ。戻ってきたら、そのぶん食えばいい」


石原の口元にも、わずかに笑みが浮かんだ。


春野は画面の中の写真と文章を見つめ、立花の笑顔と、その傍らに広げられた資料へしばらく視線を留めていた。

それから静かに微笑む。


「うん。ちゃんと休むように伝えてくれ」


準備作業は、着実に終わりへと近づいている。


窓の外からは、祭りのざわめきがかすかに聞こえてきていた。


春野は最後のチェックリストをファイルに収め、ゆっくりと身を起こす。

そして、窓の外に広がる、少しずつ賑わいを増していく通りへ目を向けた。


陽射しが、彼の身体を照らしている。

その瞳に残っていたのは、ただ、目の前の忙しい光景を映した澄んだ光だけだった。


「それじゃあ」


春野は振り返り、室内の仲間たちを見た。

声ははっきりしていて、穏やかだった。


「夏祭りを始めよう」

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