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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第十五章 見過ごした代償――それでも、寄り添い合う
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第七十七話

---


診療所の灯りは冷たい白色で、空気には薄く消毒液の匂いが漂っていた。


立花の右足首は、すでに医師による応急処置と固定を終え、包帯が巻かれたままベッドの上で高く上げられていた。

身じゅうの擦り傷も、ひと通り洗浄と消毒が済んでいる。


診断は中度の捻挫。靭帯にもいくらか傷みがあり、少なくとも一週間は安静、足に体重をかけるのは避けるようにと言われた。


――夏祭り当日。

立花はもう、当事者ではなく、見守る側としてしかそこにいられない。


その結果が、立花を沈ませていた。


枕にもたれたままの顔色は、まだ白かい。

けれど、痛みそのものは少し落ち着いてきたようだった。


緒山はベッド脇に腰を下ろし、綿棒で腕の少し深い擦り傷へ慎重に薬を塗っていた。


石原と花野は窓際に立ち、声を潜めて言葉を交わしていた。

杏も駆けつけていて、部屋の隅の椅子に小さく座り、不安そうに立花を見つめている。


そのとき、診療所のドアがやや慌ただしく開いた。


立っていたのは春野だった。髪は少し乱れ、呼吸も浅く速かった。走ってきたのが一目で分かった。

きちんとしていたはずのシャツの袖はまくり上げられ、露出した前腕には、まだインクの汚れが少し残っている。


彼の視線は真っ先にベッドの上の立花へ釘づけになった。

包帯の巻かれた足首。露出した皮膚に残る擦り傷。

それを見た瞬間、春野の瞳がはっきりと揺れた。


「立花……! 大丈夫か? 医者は何て言った?

どうして脚立から落ちたんだ? 脚立に問題があったのか、それとも――」


「会長……わたし……」


立花が少しでも身を起こそうとした。

だが、緒山がそっと肩を押さえて止める。


「中度の捻挫です。しばらく安静が必要です」


代わりに緒山が答えた。

だが、春野へ向けるその目には、いつもの笑みの名残すらなかった。


「脚立そのものには問題ありません。

美里ちゃんが、疲れすぎてたんです。体力がもたなくて、バランスを崩しました」


春野の表情が、一瞬で固まる。


伏せられた立花の視線と、赤くなった目元を見た。


「……すまない。

作業を急がせすぎた。お前たちの負荷の限界を、ちゃんと見ていなかった……」


「それだけじゃない、春野」


石原の声が、窓際からはっきり割って入った。

振り返った石原の目は、まっすぐ春野を射抜いていた。


「今回の事故の根っこにあるのは、蓄積した疲労だ」


春野は言葉を詰まらせる。

石原を見たが、意味をすぐには飲み込めていないようだった。


「ルートBは……安全のために……」


「“絶対安全”のため、だよね」


花野が一歩前へ出た。

手にしたタブレットの画面には、簡潔で、それでも目に刺さるようなデータが並んでいた。


「あなたの判断変更によって、案内表示系の作業量は一気に跳ね上がった。

しかも、それがごく短い期間に圧縮されていた」


花野は感情を挟まず続けた。


「立花の直近二日間の推定作業負荷は、継続して許容量を超過。

この条件下で、操作ミスまたは体力低下による事故が起きる確率は――六五パーセント以上」


そう言って画面を春野へ向ける。


春野は息を詰めた。


「これは事故じゃないよ、会長」


緒山の声は低く、静かだった。

なのに、その一言一言は重く響く。


「これは“代償”だよ」


そこでほんの一拍だけ置いた。


「会長が“見て”避けたリスクの代わりに――

私たちが引き受けて支払うことになった代償」


“見て”という二文字だけが、妙にはっきりと耳に残るくらい強く響いた。


春野の顔から、一気に血の気が引く。


半歩、後ずさった。背中がそのまま冷たい壁へぶつかった。

緒山を見た。石原を見た。花野の無表情な顔を見た。

そして最後に、申し訳なさと痛みをこらえた立花の顔へ目が落ちた。


そのすべてをなぞるように視線が揺れ、最後には、自分の手へと止まる。

指先が、わずかに震えていた。


春野はそれを見つめたまま、しばらく動けずにいた。


「……お前たち、知ってたのか?」


春野は喉を鳴らし、ひどく乾いた声で言う。


「いや……違うんだ。俺はただ……ただ、もっと確実なほうを選びたかっただけで……」


「でも、避けたのは、“見えた”ひとつの窪みだけだ」


石原の声が、静かに続いた。


「その代わりに選んだ道が、本当に平らだったわけじゃない」


「立花がこうなったこと。

杏が言ってた、置き去りにされるかもしれない“伝統”。

花野のデータに出ていた、積み上がり続ける予定外の調整負担。

緒山が、ずっと神経を張りつめて皆の状態を見てたこと――」


石原は一つずつ挙げていった。

そのたびに、春野の顔は少しずつ白くなっていく。


「それが、能力の代償だ。

直接傷つかない。けど、その“完璧な直感”のために、俺たち一人ひとりが代わりにツケを払わされてる」


「それに……」


緒山が小さく続けた。顔は上げないまま。


「“直感”に寄りかかりすぎて、もう他の声が入らなくなってる」


それから、ようやく絞り出すように言った。


「会長……私たち、ずっと心配してるんです。

会長のことも。次に傷つくのが誰になるのかも」


診療所の中は、しんと静まり返っていた。

聞こえるのは、医療機器のかすかな作動音だけだ。


春野は冷たい壁に背をつけたまま、動けなかった。


頭の中には、あの瞬間ごとに見えていた断片が次々と蘇る。

ぎらつく反射。引っかかる車輪。こぼれるソース。

ひとつ避けるたびに覚えていた、あの短い安堵。


それが今、包帯の巻かれた立花の足首と、仲間たちの重くてすべてを見通したような目とぶつかり合って、頭の奥で大きく爆ぜた。


自分はずっと、全部を背負っているつもりだった。

暗闇の中で、皆のために一番安全な道を探っているのだと信じていた。


けれど、違ったのだ。

本当は、暗闇の中で恐怖に駆られたまま、手当たり次第に腕を振り回していただけだった。

気づかないうちに仲間を鋭い縁へ押しやっていたのは自分自身だったのだ。


冷たい白い灯りの下で、春野は壁へ背を押しつけたまま立ち尽くしていた。

それだけが、かろうじて自分を支えてくれているみたいだった。


沈黙はたっぷり一分近く続いた。

やがて春野は、ようやくゆっくり顔を上げる。顔色はまだ白く、目の奥には赤い血走りが残っていた。


まず見たのは、ベッドの上の立花だった。声はひどく掠れていた。


「……立花。すまない。

俺の判断が間違ってた。お前に無理をさせて、結果的に怪我をさせた。これは偶然じゃない。俺の責任だ」


そう言い終えると、また目を伏せた。立花の目をまともに見ることはできなかった。


「治療費も……それ以外の責任も、全部俺が負う」


それから春野の視線は石原と緒山へ移り、最後には花野の持つタブレットへ落ちる。


「……お前たち、ずっと俺を見てたのか。

いつからだ……あの夢が出始めた頃からか?」


「朝日兄妹が退院した日だ。春野の様子があの日から明らかにおかしかった」


石原は隠さなかった。


「最初は、ただ春野の抱えてる重圧が心配だった。

でも途中から――何かしらの能力に目覚めてる可能性を考えた」


「だから“介入”したのか」


春野は目元を押さえたまま、苦く笑った。


「雑事を引き取ってもらって……結果的に、俺はもっと“それ”に集中した。

代償がはっきり出るまで、気づきもしなかったわけだ」


短く息を吐いた。


「支えてもらえてると思ってた。

だから荷物を下ろした気になって、安心して……“覗き込めた”んだ。一番安全な道を。……皮肉だな」


「会長」


緒山の声が、そこでようやく少しだけやわらぐ。


「責めたいわけじゃないんです。

ただ……ずっと怖かった。助けたいのに、どうしたらいいのか分からなかったんです」


しばらく黙ったあとで、春野がようやく口を開いた。


「……俺が悪い。最近、余裕がなくて、頭の中が変な方向にばかり行ってた」


そう言ってから石原を見る。


「こういう力って……本当に厄介だな。気づいたら、もう中に沈んでる」


一度息を整え、それから続けた。


「これから夏祭りが終わるまで、残ってる重要な判断は……いや、人の配置も、資源の振り分けも、進行の変更も、そういう決定は全部――」


そこで一度言葉を切り、強く息を吸った。


「……俺の意見は、却下してくれ」


誰もすぐには口を挟まなかった。春野はそのまま続ける。


「お前たちが妥当だと思う形で、現実に回せるやり方を選んでくれ。

俺が“危ない”と思ったら口にはする。でも、それはあくまで参考でいい。

最後は、全員で決めてくれ」


石原は少しだけ間を置いてから口を開いた。


「能力そのものが元凶とは限らない。

春野が向き合うべきなのは、自分の恐怖だ」


それから、視線を仲間たちへ向けた。


「俺たちが向き合うべきなのは、残った時間で、春野の“予測”なしでも夏祭りを回し切ることだ。

それと同時に……春野の負担を、少しでも軽くしていくことだ」


春野は一瞬、言葉を失う。

返ってくるのは失望か、責める言葉だと思っていた。だが石原の言葉は、もっと奥――問題そのものと、そこに絡みついた執着へ向いていた。


しばらくして、春野はもう一度口を開く。張っていた顎の力が、ようやく少し抜けた。


「……分かった。じゃあ、これから具体的にどうする?夏祭りの仕上げとーー」


そう言って少し視線を落とし、自分の手を見て、小さく笑った。


「俺という“不安定要素”の扱いも含めて」


その言葉に、全員が思わず顔を見合わせる。


誰かが最初に、小さく息を吐いた。

大きな波を越えたあとのような疲れと、少しだけ困ったような笑いが混じった吐息だった。


その空気は、まるで移っていくみたいに、少しずつ皆へ広がっていく。

気づけば誰もが、ようやく肩の力を抜いたみたいに、ほっとした顔で小さく笑っていた。

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