第七十六話
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【八月二十六日・月曜日・午後】
旧校舎の倉庫には、積み上げられた資材が山のように並び、薄暗い照明の下で幾重もの影を落としていた。
空気には、埃と古びた木の匂いが濃く漂っている。
立花は深く息を吸い込み、頭の奥で鳴り続ける耳鳴りのような響きと、視界の端にちらつく黒ずみを追い払おうとした。
連日の高負荷な作業に加え、ルート変更で一気に増えた負担。
体力はもう、とっくに限界すれすれだった。
それでも歯を食いしばってリストを見直し、ぐらつく簡易の脚立へ足をかけた。
高い棚に置かれた、案内表示を支えるための軽量な合金棒の束へ、手を伸ばす。
下では、緒山が数え終えた板材を整えながらも、ずっと脚立の上の立花を気にしていた。
わずかに震えるふくらはぎ。薄暗い光の中でいっそう白く見える、疲れきった横顔。
その様子を見ているうちに、冷たい予感が胸へ絡みついてきた。
「美里ちゃん、その束、重すぎない? 一回降りて、別のやり方考えよ?」
緒山が見上げて声をかけた。広い倉庫の中で、その声はやけにくっきり響いた。
「大丈夫です、朋奈ちゃん……もう少しで終わりますから」
立花はできるだけ明るく聞こえるように答え、合金棒の束を引きずり出そうと力を込めた。
だが、思った以上に重いうえ、棚の縁に引っかかっていた。
体を前へ乗り出し、さらに力を入れる。
――その瞬間。
合金棒の束が外れた。
同時に、力を入れすぎた反動と、疲労でふっと浮いた足元が重なって、体勢が崩れる。
「きゃっ――!」
金属が床へ叩きつけられる甲高い音と悲鳴が、同時に倉庫へ弾けた。
足首に鋭い痛みが走り、体が大きく後ろへ傾いた。二メートル近くはある脚立の上から、そのまま落ちる――そう思った瞬間、時間が引き伸ばされたみたいだった。
視界がぐるりと回る。失重の恐怖が喉を締めつけ、足首の激痛と、迫ってくる冷たい床の気配がひとつに混ざって、頭の中が真っ白になる。
「……っ!」
激しい衝撃が来る――はずだった。
だが、床へ叩きつけられるような破壊的な衝撃は来なかった。
代わりに、温かくてしっかりした腕が、落ちていく自分の体を丸ごと受け止めた。
勢いのまま二人の体は大きくよろめき、そのまま背中から後ろの金属棚へぶつかる。鈍い音が倉庫に響いた。
立花は、眩暈と痛みの中でどうにか目を開けた。
すぐ目の前にあったのは、心配でいっぱいになった緒山の顔だった。息は少し乱れ、額には細かな汗がにじんでいた。それでも腕はしっかりと立花を抱きとめたまま、崩れないよう支えている。
そのほとんど同時に、合金棒の束が遅れて床へ激しく落ちた。
耳をつんざくような音が、がらんとした倉庫の中へ長く反響した。
「美里ちゃん! 大丈夫!? どこ痛いの!? 教えて!」
緒山の声が耳元で震えた。
彼女はすぐに体勢を立て直し、立花を支えながら、近くの使っていない木箱へそっと座らせた。
「わ、私……だいじょうぶ……ありがとう、朋奈ちゃん……」
声はもう泣き声まじりで、顔色は紙みたいに白かった。
右足をほんの少し動かした瞬間、鋭い痛みが走って、思わず息を呑んだ。
こらえきれず涙があふれる。
足首は見る見るうちに赤く腫れ始めていた。
膝と肘の布地も擦り切れ、その下から滲んだ血が皮膚を赤く汚していた。
「動かないで。右足は絶対に動かしちゃだめ」
緒山はしゃがみ込み、傷の具合を確かめた。
表情がすぐに引き締まった。
捻挫――しかも軽くはない。
擦り傷も、すぐ消毒して手当てしなければならない。
胸の鼓動はまだ速かった。さっきの一瞬の動きへの反動と、目の前で仲間が本当に怪我をしている現実が、まだうまく重なりきっていなかった。
「左足で立てる? 私が支えるから。ここを出て、すぐ手当てしよう」
緒山がほとんど全体重を支えるようにして、立花を立たせた。
だが、左足だけで立っていても、少し動くだけで傷めた足首に激痛が走った。
恐怖と後悔が、波みたいに押し寄せてくる。
「ごめんなさい……朋奈ちゃん……」
「今はそれ言ってる場面じゃないよ」
緒山は短く言った。
「私の責任。もっとちゃんと止めるべきだったし、代わりにやるべきだった」
視線が床に散らばった合金棒と、頼りない脚立へ向き、それから立花の青ざめた顔へ戻った。
一度目を閉じ、長く息を吸ってから、ゆっくり吐き出す。握っていた拳の力を抜いた。
「ほら、ちゃんと掴まって。ゆっくり出よう」
立花の腕を自分の肩へ回させ、緒山は半ば抱えるようにして歩き出した。
一歩動くたびに、立花は痛みで呼吸を乱し、下唇をきつく噛む。
それでも、緒山の支えは温かく、しっかりしていて、今の彼女にとってはそれだけが頼れる力だった。
肩に身を預けながら、立花はその体温と、まだわずかに残る震え、それから完全には落ち着いていない鼓動を感じ取る。
ぼんやりした疑問が、痛みと混乱で霞んだ頭をかすめた。
(……さっき、どうやって……?)
あの距離で。あの速さで。
けれど、激しい痛みと一気に押し寄せる疲労がそれ以上の思考を許さず、立花はただ本能のまま、緒山にしがみつく力を強めた。
緒山は立花を支えたまま、空いた手で素早くスマホを取り出す。
石原へ、短いメッセージを送った。
「旧校舎倉庫。美里ちゃん、脚立から転落。今連れ出してる。救急箱必要。診療所の可能性あり。真汐ちゃんにも伝えて。予定変更」
送信し終えると、一度だけ目を閉じた。
胸の奥で荒れ狂う感情を、無理やり押し込める。
これはもう――
紙の上で増えた数字でも、予定表に書き足された作業でもない。
温度を持って、痛みを伴って、同じ仲間の体にはっきり刻まれた“代償”だった。
倉庫の外では、夕日が重たく沈みかけ、空を痛いほど鮮やかな橙と赤に染めている。
その色は、倉庫の中にこもる冷たく薄暗い空気と、あまりにも対照的だった。
緒山は怪我をした立花を支えたまま、身を寄せ合うようにして、一歩ずつ、ゆっくりと外へ進んでいった。
その足取りは遅くても、確かだった。二人はそのまま、最後の残照の中へと出ていった。
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倉庫の外では、夕陽の最後の残光が、二人の影を長く引き伸ばしていた。
二人は、すぐ近くのベンチが置かれた木陰へ向かって、一歩ずつゆっくり体を運んでいった。
そのたびに、立花の喉の奥で押し殺したような息が漏れ、額からは冷や汗がこぼれ落ちる。
「もう少しだけ頑張って、美里ちゃん。すぐそこだから」
立花をベンチへ慎重に座らせると、緒山はすぐスマホを確認した。
石原からは、もう返信が来ていた。
「了解。救急箱と氷嚢、三分以内に持っていく。花野さんにも伝達済み。今、関連も見てる。会長への連絡は?」
緒山は素早く打ち返した。
「まだしてない。まず手当てを優先。状態を見てから決める」
スマホをしまうと、緒山はその場にしゃがみ込み、立花の足首を慎重に確かめた。
赤く腫れ上がり方もひどく、ほんの少し触れただけでも、立花の体がびくりと縮こまる。
「捻挫、かなりひどい。まず冷やして固定しないと。できれば診療所で、靭帯まで傷めてないか診てもらったほうがいい……擦り傷も消毒しなきゃ」
立花は涙をこらえながらうなずく。声はもう詰まり気味だった。
「ごめんなさい……朋奈ちゃん……みんなに迷惑かけて……もうすぐ夏祭りなのに、私……」
「“迷惑”なんて言わないで」
緒山はきっぱり遮った。
持っていた個包装のウェットティッシュを破り、肘の傷のまわりについた埃を、できるだけそっと拭っていく。
「美里ちゃんは、誰より頑張ってる。
守れなかったのは……私たちのほうだよ」
そのとき、駆けてくる足音が近づいた。
石原が常備の救急箱を提げて走ってきた。額には汗がにじんでいる。
その少し後ろから、花野もタブレットを手に歩いてきた。相変わらず表情は薄いままだが、足取りはいつもより明らかに速かった。
「状態は?」
石原はしゃがみ込み、立花の傷を素早くひと通り確かめた。眉間がきつく寄った。
彼の目には、立花の頭上に強い【罪悪感】と【自己嫌悪】が浮かんでいるのが見えた。
「足首は捻挫。まず冷やして固定。それから診てもらう必要がある。擦り傷も何か所かある」
緒山は受け取った氷嚢を清潔なタオルで包み、腫れ上がった足首へそっと当てた。
冷たさに立花の体がびくりと震える。
けれど、その直後には、腫れた箇所にこもっていた熱がほんの少しだけ抑え込まれるようだった。
「近くの診療所には連絡してある。歩いて十分くらいだ。今から行くぞ」
石原が緒山と立花を見た。
「わ、私……歩けます……」
立花がまだ言い張ろうとした、そのとき――
「背負う」
石原がきっぱり言った。そこに相談の余地はなかった。
そのまま背を向けてしゃがみ込んだ。
「時間が惜しい。悪化もさせたくない」
立花は緒山を見た。
緒山は静かにうなずく。
支えられながら、石原の背へと身を預けた。
石原はゆっくりと立ち上がり、負担がかからないよう位置を調整した。
「真汐ちゃん……」
緒山が低く呼んだ。
花野はタブレットから目を上げ、石原に背負われた立花のほうを静かに見た。
「もう伝えてある」
短い返答だった。
緒山は大きく息を吸い込み、肩を強く張る。
「もう……このまま“観察”してるだけじゃ駄目だよ」
石原は立花を背負ったまま、背中越しに小さくうなずいた。
「診療所で立花を落ち着かせたら、そのあと春野と話す。俺たちだけで」
「了解」
花野はそう答えながら、指先でタブレットを素早く操作する。
今回の件を踏まえた“異常リスク警告”の要約をまとめ、そのまま春野へ送った。
文面そのものはあくまで客観的だった。
だが、並んだ事実と数字は、それだけで十分鋭かった。
夕陽は完全に沈み、あたりにはゆっくりと暮色が降りてきている。
石原が立花を背負い、その両側を緒山と花野がついて歩いた。
四人はそのまま、診療所へ向かっていく。
旧校舎の倉庫で起きた、あの大事には至らなかった転落は――
まるで、“代償”という名の鍵穴に、ようやく鍵が差し込まれたみたいだった。
夜は静かに広がりながら、彼らの背中をやわらかく呑み込んでいく。
同時にそれは、校内の別の場所でまだ続いているものも、そっと覆い隠していた。
そのことをまだ知らない生徒会長は、積み上がった書類と、“完璧な明日”への焦りの中で――
また一度、腕を上げて時刻を確かめていた。




