第七十五話
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【八月二十六日・月曜日】
【オンライン会議】
臨時で開かれたオンライン会議で、春野はほとんど言い切るような口調で、ルートBの採用を告げた。
そのうえで、「安全は絶対に最優先であるべきで、どんな潜在的リスクも残してはならない」と、反論の余地を与えない調子で言い切る。
その瞬間、画面の向こうにいる面々のあいだに、短い沈黙が落ちた。
石原は、画面越しに映る春野の冷えた顔を見つめ、それから隣の画面の緒山がわずかに眉を寄せたのを横目で捉えた。
――今回は、違う。
そんな感覚が、はっきりあった。
沈黙を破ったのは緒山だった。できるだけ穏やかに、でも現実的に聞こえるように言葉を選んだ。
「会長、ルートAのほうが人の集まり方としてはやっぱり強いですし、昔からの祭りっぽい流れにも合ってると思います。
狭い区間の不安についても、誘導ボランティアを増やしたり、事前に路面をよく点検したり、大きな台車が入る時間帯を絞ったりすれば、ある程度は抑えられるんじゃないでしょうか。
そうすれば、雰囲気を残しつつリスクも抑えられると思います」
理にかなっていて、十分に現実味のある折衷案だった。
緒山の隣で参加していた立花も、力を込めてうなずく。
だが、春野はほとんど間を置かずにそれを退けた。しかも、いつもより明らかに早い口調で。
「現場での誘導管理っていうのは、結局その場の判断と来場者の協力に頼ることになる。変数が多すぎる。
必要なのは、起こりうる要因そのものを最初から潰すことだ。
ルートBなら幅も十分あるし、路面も安定してる。物理的な窮屈さそのものを消せる。これが一番徹底したやり方だ。
雰囲気は、照明や装飾、それに沿道の催しで補えばいい」
画面越しでも、その強い断定に圧があった。
そのとき、花野の落ち着いた声が静かに差し込んだ。
彼女は簡潔な比較データを共有する。
「シミュレーション上、ルートAのピーク時混雑確率は八・五パーセント。重度混雑は一・二パーセント未満。
ルートBは物理的リスクこそほぼゼロですが、人流は一五から二〇パーセント分散すると予測されます。加えて――」
花野の視線が、立花のほうをかすめた。
「緊急案内表示に必要な作業量は、後方支援班の余力の上限を超える可能性があります。
総合評価では、ルートAのほうが上です」
春野は一瞬だけ黙った。眉がわずかに動く。
それでも、結論は変わらなかった。
「たとえ小さな事故でも、受ける印象は数字以上に大きくなる。
安全と体験の両方を守るなら、一番厳しい基準を取るべきだ。
“確率”に賭けるような判断はしない。そういう余地は残したくない」
立花は下唇を噛んだ。
共有されたデータにある「緊急対応」の項目を見て、自分の肩にまた重みが増したような気がした。何か言おうとして口を開きかけたが、画面越しに映る春野の、反論を許さない目と、ここ最近ずっと張りつめていた様子が頭をよぎる。
自分の大変さについて口にしかけた言葉は、結局そのまま飲み込まれた。
残ったのは、ほとんど聞こえないほど小さなため息だけだった。
その立花の表情を見た緒山の目には、うっすらと涙の光が浮かんだ。
そこへ、杏の声が控えめに差し込んだ。
彼女は石原のそばで、同じ端末から会議に入っている。
「えっと……会長。昨日、体育部の荷物運びを手伝ってたときに、三年の先輩たちが話してるのを聞いたんです。
今年も、あのルートAの灯籠の通りで、昔ながらの景色を背景に写真を撮れるのを楽しみにしてるって……“毎年の恒例”だからって」
杏はそこで少し言葉を切った。
「もしBルートに変わったら……ちょっと、いつもと違う感じになっちゃうのかなって」
春野の表情が、一瞬だけ柔らいだ。
杏へと視線を向けた。
「杏ちゃん、情報ありがとう。
伝統は大事だ。でも、その前提になるのは安全だ。
新しいルートでも、より良い装飾や企画で、新しい思い出は作れる」
石原は、立花の一瞬のためらいも、緒山の不安が濃くなっていくのも見逃さなかった。
数秒黙ってから、口を開く。
「春野。ルートBにすると、後方支援の負担はかなり重くなる。特に案内表示の緊急増設は、人手も時間も相当食う」
「そこは確かにかなりきつくなる。
緒山、石原。今手元でそこまで急ぎじゃない作業があるなら、一時的に立花のほうを手伝ってくれないか?」
緒山はすぐに返した。
「大丈夫です、会長。先輩と一緒に、美里ちゃんのところを全力で手伝います。そっちの作業は私たちで引き取って、ちゃんと終わらせます」
石原も頷いた。
「了解。優先順位はこっちで組み替える」
花野はそれ以上何も言わなかった。
ただ共有ドキュメントの資源配分メモを更新し、黙ってログへ記録を残していく。
春野は、わずかに息をついたようだった。張りつめていた顔の線が、ほんの少しだけ和らぐ。
「これで決定する。みんな、ありがとう。特に立花。
細かい分担と期限は、このあと詰めよう」
会議は終了し、画面が暗くなった。
緒山はすぐに立花のほうへ向き直り、その手をぎゅっと握った。
「美里ちゃん、心配しないで。案内表示のほうは私たちがやるから。
美里ちゃんは、いちばん大事な資材リストとデザインの条件だけ先に整理して。力仕事とか、走り回る調整は、私と先輩でやるから」
立花の目が熱を帯び、強くうなずいた。
「うん……ありがとう、朋奈ちゃん。先輩も……。
できるだけ早く必要なものを整理するね。倉庫の板材と合金の支柱も、今日の午後にちゃんと数を確認してくる」
「じゃあ、倉庫は私も一緒に行く!」
緒山はほとんど有無を言わせずにそう決めた。
「確認が終わったら、そのまま切り出し寸法まで決めちゃおう」
立花は一度は断ろうとしたが、緒山の真っ直ぐな視線に言葉を飲み込み、胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。
だが、誰かが手を貸したからといって、作業量そのものが消えるわけではない。
ルートBの採用が決まったことで、重い負担はそのまま実行を担う数人の肩にのしかかった。
案内表示の設計、確認、制作、運搬、設置。
残された時間は、もう一週間もない。
春野は分担計画表を見つめた。
“車輪が引っかかる”あの光景に結びついた胸の石は、ひとまずどいたように思えた。
だがその代わりに、別の、もっと重い石が新しく落ちてきた。
メンバーたちの隠しきれない疲れ。
杏が口にした、「伝統が崩れるかもしれない」という惜しむ思い。
それに、緒山と石原が自分たちの休む時間を削ってまで埋めようとしていることへの、薄い罪悪感。
それでも――
これは必要な代償なんだと、春野は自分に言い聞かせた。




