第七十四話
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【Another View――春野陽明】
深夜、部屋の明かりはデスクライトだけだった。
机に向かう春野の影は長く引き伸ばされ、書類で埋まった壁に釘づけにされたみたいに貼りついている。
左手には、ついさっき整理し終えたばかりのリストがあった。
自分が照明案の変更にこだわったせいで増えた、追加の回路確認項目だ。
明日、電気工事側とすり合わせて確認しなければならない。
右手には、開いたままの数学の模試の問題用紙。
本来なら解けているはずの関数問題の横には、目に刺さるような赤いバツがついていた。
その脇には、自分で書いた、少し乱れた解き直しの手順が並んでいた――
それでも、まだどこかで手が止まっている。
スマホの画面が、音もなく一瞬だけ光った。母親からのメッセージだった。内容は簡潔だった。
「補習塾の体験授業は来週水曜の夜に決まった。夏祭りの最終リハーサルとは重ならない。必ず参加しなさい。貴重な機会です」
――貴重な機会。
その一文字一文字が、小石みたいに、もうとっくに限界まで張りつめていた心の底へ沈んでいく。
夏祭りを“完璧”に仕上げることは、自分が両方の責任を両立できると示すための答えだった。
一方で成績は、両親にとっても、そして自分自身にとっても、認められる“未来図”へ進むための切符だった。
どちらも落とせない。
どちらも、“文句のつけようがない”形にしなければならない。
視線が、再び模試の赤いバツに落ちた。
その瞬間、疲労と焦燥と、そして自己嫌悪が一気にせり上がってくる。
(どうして、こうも想定外が出るんだ)
(どれだけ綿密に詰めても、また新しい細部が顔を出してきて、処理を求めてくる)
(どうして時間は、指のあいだからこぼれる砂みたいに、掴もうとするほど早く失われていくんだ)
そのとき――
馬鹿げているのに、どうしようもなく惹かれる考えが、暗がりで伸びる蔓みたいに、静かに思考へ絡みついてきた。
もし――あの、“活動準備の中にある細かなリスクが見える”ような曖昧な感覚を、別のことにも使えたら?
たとえば、この問題の落とし穴。
たとえば、次の試験の難所。
その発想が浮かんだ瞬間、春野は強く目を閉じた。
額に冷たい汗がにじんだ。
(……何を考えてるんだ、俺は)
手にしたペンを、強く握り締めた。
得体の知れない“直感”に頼って活動を回しているだけでも、もうずっと気が休まらない。
それを、さらに別の場面にまで持ち込もうとしている自分――
深い自己嫌悪が、一気に押し寄せてきた。
しばらくして、彼はゆっくりと顔を上げる。
視線の先には、夏祭りの最終版ルート計画図が広げられていた。
Aルートは、従来の主動線。人は集まりやすいが、一部の区間が狭い。
Bルートは、新たに広げた後方通路を使う案だ。広さは十分だが、やや人の気配が薄く、そのぶん案内表示を大幅に増やす必要がある。
これが最後の、そして最も重要な未決事項だった。
Aを選べば、賑わいは出るがリスクが残る。
Bを選べば、安全性は高いが、雰囲気には影響が出る。
リスク評価の報告書は、すでに出揃っていた。
利点も欠点も、整理し尽くされていた。
数日前までの自分なら、ここでもう一度、小さな打ち合わせを開いていたはずだ。
だが――
春野は目を閉じ、頭の中の雑音を追い払うようにして、意識をAルートへ集中させた。
すると、ほとんど一瞬で、これまでのどのときよりもはっきりと、しかも切迫した映像の断片が頭の中へ流れ込んできた――
狭い区間。人の流れは途切れない。
たこ焼きの材料を満載した業者の手押し台車。その車輪が、路面に走った目立たない古い亀裂に引っかかり、がくんと止まった。
台車を押していた年配の男がよろめき、荷台のソース容器が傾いた。濃い色のソースがこぼれ、すぐそばにいた来場者の浴衣の裾へと跳ねた。
悲鳴。謝罪。小さな混乱と滞留。
慌ててスタッフが駆け寄っていく――
まるで本当にそこにいるみたいな、生々しさだった。
甘ったるいソースの匂いまで感じられそうで、その瞬間の気まずさと慌ただしさまで肌に触れるようだった。
春野は弾かれたように目を開けた。
息が荒くなり、心臓が激しく脈打っていた。
(ダメだ。これは絶対にダメだ)
視線が、Bルートへと釘づけになった。
広い。平坦だ。人の流れも制御しやすい。
あの亀裂もない。台車が引っかかる光景も、そこにはない。
確かに、案内表示を大量に増やす必要はある。
だが、それはただ“手間が増える”だけだ。対処できる問題であって、起こるかもしれない不測の事態とは違う。
「安全を最優先にする」
低く、言い聞かせるように繰り返す。
それは、自分自身に下す、反論を許さない命令みたいだった。
「雰囲気は後からでも作れる。誘導だって強められる」
「でも、安全と流れの円滑さだけは、絶対に譲れない」
春野はパソコンを開き、Bルート採用を強く主張する説明メールを書き始めた。
その文面は、これまでになく強く、理由も断定的で、反論の余地を残さないものだ。
エンターキーを打った瞬間、その言い回しの強さに、春野自身ですらわずかなよそよそしさを覚えた。
だが――
その奥にある恐怖が、すべての迷いを押し流していた。




