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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第十五章 見過ごした代償――それでも、寄り添い合う
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第七十三話

---


夏祭りの準備は、表向きには変わらず順調に進んでいた。

メンバーはそれぞれの持ち場をこなしながら、組み直したあとの計画を、呼吸を合わせるように進めていく。


だが、会長が最後の判断を下すべき要所では、誰もがはっきりとした違和感を覚えていた。


たとえば、ある参加型ゲームの景品に使う素材のことだった。


これまでの春野なら、この担当である立花の意見を聞いたうえで、調達側に追加のサンプルを出させ、じっくり比較することもあった。


けれど、今回は違った。

立花が、環境配慮型のコルクと従来型のアクリル――その二種類の素材について、それぞれの長所と短所を説明し終える。


春野はただ黙って聞いていた。指先は無意識に机を軽く叩いていたが、視線はサンプルにも報告書にも落ちず、ただ窓の外へ向いている。


数秒後、彼は視線を戻し、静かな口調で告げた。

反論の差し挟まる余地は、まるでない。


「環境配慮型のコルクにしよう。質感がよりやわらかいし、テーマにも合っている」


立花は一瞬だけ面食らった。彼女自身は本音では、もっと色味の映えるアクリル案のほうを推していたからだ。


それでも、会長への信頼からすぐにうなずき、その決定に伴って必要になる後続の調整も、自分の作業の中へ組み込んでいった。


取引先の変更。

価格の微調整。

納品時期の再確認――


立花はきゅっと唇を引き結んだが、何も言わなかった。


似たような場面は、その後の数日間にも繰り返された。


夜間照明の色温度。

臨時救護所をどこに置くか。

ある区間に敷く仮設の滑り止めマットの範囲――


春野は報告を聞く時間こそ短くなっていたのに、判断を下すその瞬間だけは、以前にも増して強い“確信”を帯びるようになっていた。


「みんなはどう思う?」と意見を募ることは、目に見えて減った。

その代わり、短い沈黙のあとには、明確な指示を口にする。


しかも、その指示はたいてい筋が通っていた。合理的で、ときには先を見越しているとすら思える内容だったせいで、最初に抱いた反対や疑問のほうが、かえって小さく見えてしまった。


チームは――とくに表立って実行を担う立花と、全体を取りまとめる緒山は――少しずつそのテンポに慣れていった。

だが同時に、それは皆の推測を裏づけてもいた。春野の異能力は、おそらく“判断”に関わるものなのだと。


花野のデータは、いちばん冷たくて、いちばん分かりやすかった。

「観測開始以降、会長の単独判断率は七八パーセント上昇。平均判断時間は五二パーセント短縮」


一方で、石原の観察はもっと“その瞬間”に向いていた。

「“文字化け”は判断の瞬間、感情タグ全体を埋め尽くす。あれは異能力が発動している時の反応だ」


緒山は、もっと柔らかいやり方で踏み込もうとしたこともあった。


ある日、広報物の配布手順についての話し合いが終わったあと。

資料を片づけるついでを装うようにして、彼女は何気ない口調で切り出した。


「会長、最近こういう細かい判断、すごく早いですよね〜。前よりずっと余裕がある感じというか。何か特別なやり方でも見つけたんですか? たとえば……判断用の図みたいなものとか?」


その笑顔は明るく、好奇心をにじませていた。


書類を整えていた春野の手が、ぴたりと止まる。

彼は顔を上げ、緒山を見た。


「ただ……リスクって、考えれば考えるほど複雑になるだろ。だったら、決めるところは決めて、確実に対処すべき問題に意識を向けたほうがいいと思ってる」


そこで一度言葉を切り、さらに続けた。


「それに、みんなが基本の作業をかなり分担してくれてるからな。そのぶん、俺はこういう要点に集中できてる。感謝してる」


緒山はそれ以上追及しなかった。

ただ、「会長もお疲れさまです」と笑って返す。


けれど、胸の奥にある不安の輪郭は、ますますはっきりしていった。


---


皆が本当に気にしていたのは、決定そのものではなく、そのあとに伸びていく入り組んだ実務の流れだった。


「森の露」の飲料水変更によって発生した、景品リストのズレ――それは、ほんの小さな前触れにすぎなかった。


そのあとすぐ、景品に環境配慮型のコルクを採用すると決まったせいで、立花は新たに環境認証を満たした業者を当たることになった。

見積もりを取り直し、製造基準を確認し、さらに連動して使う宣伝用カードのデザインまで調整する羽目になった。

新しい素材では、印刷の乗り方がこれまでと違っていたからだ。


また、ある照明の色温度を暖白から、より明るい白寄りの色へ急きょ変更したことで、電気調整を担当していた生徒は、既存配線の一部の負荷を計算し直す必要に気づき、別規格の予備電球を急いで申請することになった。


さらに、ある区間の滑り止めマットの設置範囲を広げるという判断もあった。

理由は、「このエリアは想定以上に人が集中する可能性がある」というものだ。


そのせいで、後方支援班は追加の人手と資材を回さざるを得なくなり、別の装飾作業にかける時間まで削ることになった。

その結果、そちらの装飾は最終的に、当初の案より少し簡素な仕上がりになった。


どれも大きな問題というほどではない。

たいていはその場で処理され、最終報告では軽く流される程度で済んでいた。


それらは「実行の中で生じた適応的な調整」としてまとめられ、大きな催しの準備では避けられない“ノイズ”として処理されていた。


だが、花野のレポートの中では、その“ノイズ”は一つひとつ記録され、分類され、関連づけられていく。


そして、一本のはっきりとした曲線が浮かび上がっていった。


「会長の“最適化判断”の頻度と、各段階における“予定外の調整作業量”、“資源の臨時再配置回数”、および“二次的タスク変更率”の上昇傾向には、有意な正の相関が認められる」


これは、もはや仮説ではなかった。

データは淡々と、“代償”らしきものの輪郭を示している。


石原は花野のデータを見つめながら、胸の中にあった推測が少しずつ輪郭を帯びていくのを感じていた。


(もし異能力が“リスクの予知”なんだとしたら……その代償そのものが、“リスク”なんじゃないか……)


立花は、その影響を最も強く受けていた一人だった。


彼女が受け持っていた後方支援と物資調整は、多くの判断変更が最後に流れ着く先だったからだ。


彼女は不満を口にしなかった。

ただ黙って、増えていく用件を持ち歩いている手帳に書き込み、終えるたびに一つずつ線で消していく。


ときおり生徒会室で慌ただしくすれ違うたび、石原の目には、彼女の青い隈の落ちた目元と、きゅっと結ばれた唇が映った。


それでも彼女は何も言わなかった。

グループチャットでは、各変更依頼の発生源、内容、そして対応に要した追加時間を、淡々と記録し続けていた。


あるとき、二人きりになったとき――

緒山はそっと、立花の手の甲を押さえた。


「美里ちゃん、最近ちょっと無理してない? もし調整がきついって思ったら、ちゃんと遠慮せず言っていいんだからね」


立花は首を横に振り、無理に笑顔を作った。


「大丈夫です、朋奈ちゃん。どれも小さなことですし、ちゃんと対応できます」

「会長は……きっと会長なりに考えて決めているんだと思いますし、私たちはできるだけ物事がうまく回るようにするだけです」


少し間を置き、声を落とした。


「それに……前に自分のことでいっぱいいっぱいだった頃に比べたら、今はみんなのために、夏祭りのために、ちゃんと手を動かせているって思えて……そのほうが、ずっと気持ちが落ち着くんです」


その成長ぶりは、見ていて胸が痛くなるほどだった。

同時に、事情を知る者たちにとっては、そのぶんだけ自分たちの責任の重さを突きつけるものでもあった。


“代償”は、気づかれないまま、じわじわとチームの余裕とメンバーの気力を削っていく。


そして、その代償を払いながらも気づいていない“受益者”は、それを生み出している源へと、さらに深く依存していった。


石原は、報告の中で増え続けていった項目を見つめ、会議のたびに以前より落ち着きを増し、それでいて以前より独断的になっていった春野の横顔を思い浮かべる。

胸の奥では、警鐘がますます強く鳴っていた――


――依存は進んでいる。

――代償は積み重なっている。


彼が選び続けていたその“岐路”は、一つひとつの窪みを避けているようでいて、実際には、チーム全体をますます複雑で、見えない棘だらけの林へと導いていく。


必要なのは、もっと決定的な証拠だった。

春野自身にも無視できないほどはっきりした形で、“代償”が姿を現す瞬間が必要だった。


それまでは、観察を続けるしかなかった。記録し続けるしかなかった。

“最適解”でできたこの霧の中を、慎重に進むしかなかった。


夏祭りは、日を追うごとに近づいていく。


準備は何もかも順調に見えた。

むしろ、“効率がいい”とすら言われるほどに。

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