第七十二話
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【数日後・八月十九日・月曜日・午前】
介入計画が始まって数日、チームのあいだにはどこか微妙な“静けさ”が漂い始めていた。
いちばん分かりやすかったのは、それまで皆を悩ませていた、胸がざわつくほど生々しい“集団悪夢”が、ぱたりと止んだことだ。
悪夢が止んだことは、まるで強い安定剤みたいに皆をほっとさせた。そのおかげで、“ストレス分散”という方針はやはり正しかったのだと、誰もがいっそう信じるようになっていた。
ただ、石原の胸の奥に残ったわずかな疑念だけは、そんな空気に溶けずに残っている。
穏やかな表面の下で、それは蔓の先みたいに、ひそかに伸び続けていた。
ここ数日見てきた限り、春野の状態が確かに上向いているのは間違いない。
頻繁に時計を見ることはなくなり、話すテンポもいつもの落ち着きを取り戻していた。報告を受けるときの焦りも、目に見えて減っていた。
それまで出ていた、まるで信号不良みたいな一瞬の“文字化け”も、ここ数日の会議では一度も現れていない。
――やはり、ストレスが軽くなれば異能力も消える。
そう考えていた皆の推測を、裏づけるように見えた。
だが――それは、今日の午後までの話だった。
石原は、会長の署名が必要な施設利用許可書を届けるため、生徒会室を訪れた。
扉はわずかに開いていた。
軽くノックしたが、返事はない。
そのまま扉を押し開けると、春野が窓際に立っていた。入口に背を向けたまま、窓の外を見ていた。
午後の陽射しが、その真っ直ぐな背中をくっきりと縁取っている。
片手はズボンのポケットに突っ込み、もう片方の手でこめかみを揉んでいた。
すぐには振り向かず、何かを考え込んでいるようだった。
石原の視線は、半ば癖のようにその頭上へ向かう。
【春野陽明の感情:疲労41#@&…】
石原の胸が、すっと冷えた。
――これはもう、“可能性”でも“前兆”でもない。
春野はすでに、はっきりした形を持つ異能力を手にしていた。
石原の足がわずかに止まる。
その気配に気づいたのか、春野が振り返った。
顔色は数日前よりも良い。目の下の隈も、いくらか薄れていた。
「石原? 許可書か?」
その声は落ち着いている。春野は歩み寄って書類を受け取ると、素早く目を通し、その場で署名を済ませた。
「ご苦労」
書類を返しながら、春野の視線はもう机の上に積まれた資料へ戻っていた。
「購入案はB案で決まった。細かいところは、お前と緒山で詰めてくれ」
「……了解」
石原は書類を受け取りながら、もう一度、あの文字化けだらけのタグを視界の端で捉えた。
生徒会室を出たあと、廊下の角で足を止める。
指先が、じわりと冷えていた。
その夜。
石原は自室で、スマホの画面を前にして長いことためらっていた。
そして最後に、グループチャットへ一文を打ち込んだ。
「感情タグに継続的な文字化けを確認した。春野は異能力に目覚めたと思う」
送信してから、数秒ほどチャットは静まり返った。
次の瞬間、立て続けに「?」が並び、その直後には杏が事情を聞こうと部屋へ飛び込んできた。
その後の議論は途切れ途切れに続いた。
誰もが慎重に言葉を選んでいたが、実質的な進展はない。
そんな中、ずっと発言していなかった花野が、一枚のグラフを送ってきた。
彼女がデータを洗っていく中で、ひとつ妙な点が見つかったのだ。
――八月十六日以降、春野はすでに決まっていた重要な判断に対して、二十六回も“最適化”をかけていた。
しかも、そのすべてが成功し、評価も高かった。
「そんなに勘が当たるものなの?」
立花が問う。
「会長はもともと慎重な人です。この一年一緒に仕事をしてきましたが、これほど頻繁に決定事項へ手を入れる姿は見たことがありません」
花野は淡々と続けた。
「それに――全部正しい。論理的ではありません」
誰もが、何かに気づきかけていた。
だが、誰もそれを言葉にしようとはしない。
石原はスマホの画面を見つめたまま、眉をひそめた。
脳裏には、あの解読不能な文字列が何度も浮かんでは消えていた。
「……リスク予知、とか?」
沈黙を破ったのは緒山だった。
「それか、“未来改変”とか?」
立花がすぐに続いたが、次の瞬間には自分でその案を否定した。
「いや、それはさすがに大げさすぎるか……今のナシで」
「朋奈さんの考え、方向性としてはアリだと思う」
杏が応じた。
少し間を置いてから、石原が最後に打ち込む。
「ひとまず、このまま観察を続ける」
「春野に気づかれないように。花野さんは引き続きデータを追って、ほかは実務の中でおかしな点がないか見てくれ」
全員、それに異論はなかった。
画面が暗くなる。
石原は長く息を吐き、天井を見上げた。
ここ数日、皆が積み重ねてきたものを、頭の中で静かにたどる。
(ずっと、方向を間違えてたのか……なんでだ)
石原は分かっていた。春野は昔から、そういうところで意地を張る男だ。
人に見せたくないものほど、胸の奥に押し込めて、意地でも出そうとしない。
ふと、あの頼れる顔が脳裏に浮かんだ。
(まったく……あの人は)




