第七十一話
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【八月十五日・木曜日・午後】
【生徒会室】
週の半ばの業務会議は、先週土曜ほど刺々しくはなかった。
それでも、空気の底にはまだ声にならない緊張が漂っている。
春野は上座に座っていた。
目の前には書類が山のように積まれ、背筋はきっちりと伸びている。
目の下に落ちた薄い青みがかった影だけが、蛍光灯の下では隠しようもなかった。
議題が半ばを過ぎ、来週から始まる業者の一括配送と現場設営の連携フローの話になったところで、緒山がちょうどいいタイミングで手を挙げる。
「会長、この部分なんですけど。作業をもう少し細かく分けて、私たちのほうで並行して進めて、最後に会長がまとめて確認する形にしたらどうでしょう。
そのほうが全体の効率も上がりますし、細かい漏れも減らせると思います」
彼女がそう話しているあいだに、石原は簡略化したフローチャートを、無言のままテーブルの中央へ滑らせた。
花野はタブレットに比較用のデータを表示し、簡潔に続ける。
「現行方式だと、確認が集中する時期の会長個人の作業比率は七〇パーセント。分担して並行処理に切り替えた場合、三五パーセント未満まで下がる見込み」
立花も横からうなずいて補足した。
「現場シミュレーションのほうも、私が事前に入っておきます。そうすれば、会長が最後に判断するときの情報も、もっと分かりやすくなると思います」
春野は、目の前で自分から手を挙げ、しかもきちんと考えたうえで提案してくる面々を見て、数秒黙り込んだ。
視線が石原の落ち着いた顔、緒山のまっすぐな目を順に追い、最後に今にも身を乗り出しそうな立花のところで止まる。
【春野陽明の感情:疲労37、躊躇23、その他40】
「……分かった。この方針で行こう」
そう言うと、春野はすぐに役割を振り分けていった。
「緒山、石原は資材関係の最終確認リストを担当。期限は明日の夜まで。
花野と立花はフロー整理とシミュレーション報告を金曜の昼までに。
ボランティア調整で出そうな質問の整理は――」
そこで、席の端に座りながら必死に“自分も戦力です”という顔をしていた杏へ目を向ける。
「初稿、もうまとめてあります!」
杏はすぐさまUSBメモリを掲げた。
「年度別と内容別で分けてありますし、簡単な検索タグも付けてます!」
春野は少しだけ首を傾け、笑みをこぼしながらそれを受け取った。
「いいね。じゃあ、この部分はみんなに任せる」
そう言って、それぞれに必要な書類のコピーを配っていく。
「何か不明点があったら、いつでも相談してくれ」
その一言で、場の空気がわずかに緩んだ。
皆、目に見えてほっと息をついた。
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【同日・会議後の夕方】
【春野の部屋】
夕陽が部屋の中をくすんだ黄色に染めていた。
机の上、左側には、さっき届いたばかりの夏祭り用広報物の印刷最終確認メールが開かれたままになっていた。
マットPPにするか、グロスPPにするか。
右側には、開きっぱなしの数学模試の答案。
赤でつけられた丸とバツが、やけに目についた。
スマホの画面もまだ明るかった。
一時間ほど前に届いた母からのメッセージが表示されていた。
「陽明、この前話してた塾の先生の連絡先、送っておいたよ。夏休みは追い込みの大事な時期なんだから、気を抜かないでね」
春野は椅子の背にもたれ、目を閉じた。
指先で、熱を持ったこめかみを強く押す。
広報物の確認自体は、本来なら大した作業ではなかった。
けれど今は、答案用紙の赤い訂正、母の期待がにじむ文面、それに頭の中でまだ完成していないシフト表までが全部絡まり合って、胸を圧迫してきた。
全部、ちゃんとやらなければいけない。
夏祭りは成功させなければならない。
成績も上げなければならない。
――失敗は、できない。
まとまりのない思考の渦の中で、ふと、午後の会議のことが浮かんだ。
あれほど自然に、仕事の一部を皆へ振り分けられたあの場面。
(みんながあそこまでやってくれてるんだ。だったら、俺は絶対にミスできない)
視線が、広報物確認のメールへ落ちた。
二つの印刷会社。
仕様の違いはわずかで、価格差もほとんどなかった。
どちらを選ぶべきか。
普通なら、色の再現性や手触りで判断する。
だがそのとき、もっと強い考えが、唐突に彼の意識をつかんだ。
――自分の見落としている危険が、どこかにあるんじゃないか。
春野は深く息を吸った。
何か見えないものに引かれるように、試験や母親のことを頭の隅へ押しやり、意識を「グロスPPを選ぶ」という一点へ無理やり絞っていった。
集中する。
さらに集中する。
その広報物が実際に配られ、手に取られる場面を思い描く。
最初は、ただ暗かった。
だが次の瞬間、何の前触れもなく――
数コマだけの、曖昧なのに妙に鮮烈な映像が、いきなり脳裏へ突き刺さった。
夏祭り当日。
真上から照りつける強い日差し。
一人の子どもがチラシを手にしている。
その紙面に、ある角度で光が当たり、ぎらりと強い反射が走った。
子どもは思わず目を閉じ、顔をそむけた。
手にしていたたこ焼きが、危うく地面に落ちそうになった。
すぐそばで、母親らしき女性の小さな不満げな声が響いた。
「ちょっと、この紙まぶしすぎない……?」
そこで映像は途切れた。
春野は勢いよく目を開ける。
呼吸が少し荒かった。背中にはうっすらと汗がにじんでいた。
想像、なのか。
いや。
あの眩しさも、聞こえた声の細部も、ただの想像にしては生々しすぎた。
春野はすぐに意識を「マットPPを選ぶ」ほうへ切り替えた。
今度は、何も見えなかった。
胸の奥で、心臓が重たく打った。
ほとんど迷わず、彼は返信メールに結論を打ち込んだ。
「マットPP加工でお願いします。ご確認ください」
送信を押した瞬間、不思議なくらい気持ちが落ち着く。
春野は頭を軽く振り、再び視線をあの冴えない模試の答案へ戻した。
重圧が消えたわけではなかった。
ただ、形を変えてまだ胸の奥に残っているだけだ。
それでも、少なくとも夏祭りという一点に限れば、彼はようやく――
自分の足場になりそうなものを、ほんのわずかに掴みかけていたのかもしれない。
【翌日】
広報物の見本が届いた。
マットPPは照明の下でやわらかく光り、目に痛い反射はまるでなかった。
受け取った緒山が、何気なく口にした。
「この光沢の感じ、いいですね。お祭りっぽい雰囲気がちゃんと出てます」
すぐそばに立っていた春野は、ただ小さくうなずいただけだった。
何も言わなかった。




