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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二章 出会い――彼女の感情だけが、読めない(2)
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第七話

---


【五月七日・火曜日・昼】


石原は木陰のベンチに座り、潰れたパンを黙々とかじっていた。

隣にいた緒山は、その様子を見てくすっと笑った。


「先輩って、ダイエット中なんですか?」


「……まあ、そんなところだ」


そう言ったあと、緒山は自分の服をつまみ、ちらっと体を見下ろした。


「私も少し痩せたほうがいいのかな」


小さくため息をつく。

石原は曖昧に笑ったが、どこか上の空だった。


「本当は、お弁当忘れただけじゃないんですか?」


緒山はぱちぱちと瞬きをしながら、どこかからかうように石原を見た。

石原は小さく息を吐く。否定はしなかった。


けれど頭の中は、まだ午前中の出来事でいっぱいだった。


(……いっそ、直接聞くか)


石原は深く息を吸い、午前中のことを話そうとした。


そのときだった。

緒山が急に声をひそめ、わくわくした顔で横を指さした。


「先輩、見てください! あの小鳥、ヒナに餌をあげてます!」


【緒山朋奈の感情:喜び24?*$¥@】


石原は、指さされた方を見た。

木の枝の上で、小さな鳥が巣のヒナに餌をあげている。


石原の言葉は、喉の奥で止まった。

もう一度、意識を集中させる。あの文字化けの奥を、なんとか読み取ろうとした。


【緒山朋奈の感情:喜び34?$:¥¥】


(……やっぱり無理か)


その瞬間、ふわっと軽いめまいがして、胸が一瞬だけ強く脈打った。午前中とまったく同じ感覚だ。

石原は額を押さえる。


(またか……)


だがその不快感はすぐに消え、数秒もすれば何もなかったようになった。


石原はひとまず追及をやめた。


「この林、けっこういい場所ですねここに住むのも悪くないかもですね……あ、でもそんなことしたらお父さんとお母さんが心配しちゃうか。せいぜいキャンプくらいですね」


「小鳥だって、あんまり邪魔されたくないかもしれないし。他の動物もそうだろ。遠くから見てるくらいがちょうどいい」


なぜだか、その言葉を口にしたあと、石原はふと自分のことを重ねていた。

それを聞いた緒山は、ぱっと目を輝かせた。


「先輩、なんか大人っぽい! 今の言い方、ちょっとカッコよかったです!」


「……別に、そんなでもない」


そのときだった。

緒山の視線が石原の手元のパンにじっと向く。

石原は急に落ち着かなくなった。


「……一口、食べるか?」


「いえいえ、ただ、こういうときって普通は友達にご飯を分けてもらう展開じゃないかなって思って」


緒山は首を横に振った。


「どこの漫画だよ、それ。現実でやられたら普通に鬱陶しいだろ」


「えっ、そうなんですか?!」


緒山が目を丸くした。


「なんでそんなに驚くんだ……」


そう言うと、緒山は自分の弁当箱を石原の前に差し出してくる。


「先輩が言ってくれたら、いくらでも分けますよ?」


石原は弁当を見た。

綺麗に詰められた、手の込んだいかにも美味しそうな弁当だった。


それから緒山の顔を見る。まっすぐな目だった。

石原はごくりと唾を飲み、自分の頬をぱしっと叩くと、次の瞬間にはパンを一気に口へ押し込んだ。

もぐもぐと飲み込み、「……食べ終わった」と言った。


「そっか」


緒山は小さく笑った。

そしてそのまま弁当を食べ始めた。


石原は隣に座ったまま、弁当をちらちらと横目で見ていた。何でもない顔をしていたが、どこか落ち着かない。


(普通、あまり知らない男に弁当分けようとする女子なんているか……? おかしいの、俺の方か?俺が意識しすぎなのか?)


しばらく沈黙が続いた。

やがて、緒山がふいに石原の方を見る。


「さっきのこと、先輩も見てましたよね?」


石原は、向こうからその話を持ち出されるとは思っていなかった。


「……ああ」


「あー……その顔見る限り、しっかり見られてたみたいですね」


「そういう言い方するなよ……。緒山さんの異能力が気になっただけだ」


緒山は少し黙って、それから、静かに言った。


「……先輩になら、隠さなくてもいいかな」


「え?」


緒山は弁当を脇に置いた。小さく息を吸う。

何かを決めたような表情だった。


夏の陽射しが葉の隙間からこぼれ、木漏れ日が揺れていた。

風が吹くたび、花びらがひらひらと舞い、二人の周りを漂っていた。

蝉の声が遠くで響いている。


緒山は立ち上がり、石原に手を差し出した。


【緒山朋奈の感情:緊張43#¥&*@#】


「先輩」


石原はぽかんと緒山を見た。

次の瞬間、緒山は石原の手首をぎゅっと掴んだ。


次の瞬間、世界がしんと静まり返る。


蝉の声が消え、風も止んだ。木の葉が空中で静止していた。

二人の目の前をひらひら舞っていた花びらも、空中でぴたりと止まっていた。


緒山はぱっと手を離した。そして、そのまま楽しそうに走り出す。

足元のアリをしゃがんで覗き込み、そのままひょいひょいと木に登って鳥の巣を覗いた。

顔には、隠しようのない興奮が浮かんでいた。


「どうですか、すごいでしょう! これが私の異能力――時間停止です!」


石原はその場に立ったまま、周囲を見回した。

半信半疑のまま、目の前の花びらを指先でつまみ、そっと手を離した。すると、花びらは空中に浮いたままだった。


……本当に止まっている。

だが、心の奥にかすかな違和感が残った。


(もし本当に世界が止まっているなら……)

(俺たち、どこにいるんだ?)


【緒山朋奈の感情:&(#¥……&)】


石原は眉をひそめる。

――彼女の感情タグ……


(やっぱり、緒山さんが能力を使うとこうなるのか……)


石原は緒山へ視線を向けた。


「じゃあ、昨日の朝とか今日の午前のも……緒山の能力だったのか?」


「そうですよ」


緒山はにこっと笑った。


「どう使ったかは、ご想像にお任せで〜」


「……だいたい想像はついた」


石原は何とも言えない顔をした。


(飛び込んだ瞬間に能力で岸に戻るとか……授業直前まで外にいて、そのまま能力で教室に戻るとか……)

(変な人だな、この人)


緒山はうなずいた。


「これで先輩の疑問、解決ですね〜」


そう言うと、緒山は駆け戻ってきて、また石原の手首を掴んだ。


「じゃ、戻りましょう!」


ぱん、と手を叩いた。


その瞬間、蝉の声が一気に戻った。

風が吹き、葉がざわっと揺れた。

止まっていた世界が、また動き出した。


石原の視界が、ふっと暗くなる。膝が地面にぶつかり、鈍い音が響いた。石原は手をつき、荒く息を吐いた。

心臓が胸を激しく打ち、今にも飛び出しそうだった。口の中には鉄の味が広がり、視界の端には見慣れた感情タグがふっと浮かび上がった。


「先輩! 先輩、大丈夫ですか?!」


頭の上から、緒山の声が降ってくる。


石原が顔を上げると、緒山が目の前にしゃがみこんでいた。

心配そうな顔だった。


「……低血糖」


石原はかすれた声で言った。


「昼、あんま食ってない」


緒山が一瞬固まる。目が少し赤くなっていた。

それから、ほっと息を吐いた。


「びっくりしました……私、てっきり……」


手を伸ばして、石原を支えようとする。

石原は軽く身を引き、自分で立ち上がった。足はまだ少し頼りない。


石原は緒山に視線を向けた。

彼女の顔には、まださっきの不安が残っていたが、口元には、もういつもの笑顔が戻っている。


「大丈夫そうでよかった……」


けれど、その手はまだかすかに震えていた。


石原は視線を外す。


「もう平気だ戻ろう」


「……はい!」


緒山が立ち上がり、隣に並んだ。


木漏れ日が地面に揺れ、風が葉を鳴らしていた。

すべて、いつも通りの昼休みだ。


それでも石原の体の奥には、まだ違和感が残っていた。


石原は歩く速度を少し落とし、緒山の半歩後ろを歩いた。

後ろから見ると、彼女の歩き方は軽かった。髪が歩くたびに揺れている。さっき、止まった世界を走り回っていたときと同じ背中だった。


(さっきの……)


橋の上での出来事。今朝、教室の窓から見たあの「瞬間移動」。

そしてさっきの、体の力を抜かれるようなめまい――

全部、同じタイミングだった。


――彼女が能力を使った直後だ。


石原は胸に手を当てる。心拍はもう落ち着いていた。

けれど、胸の奥に残る、何かに掴まれていたような感覚は消えなかった。


(もしかして……)


ぼんやりとした仮説が浮かんだ。


もし、この体調の異変が彼女の能力と関係しているとしたら?

もし彼女が「止める」たびに、自分も何か説明のつかないものに巻き込まれているとしたら――


石原は口を開きかけた。


「先輩?」


緒山が振り返り、視線が合った。首を少し傾け、いつもの笑顔を向けてくる。


「どうしました?」


石原はその顔を見つめた。


さっき止まった世界の中、彼女はこの表情で走り回っていた。

アリを覗き込んで、木に登って、鳥の巣を見て、「どう? すごいでしょ!」と笑っていた。

あんな無防備な顔を見たのは、初めてだった。


もし今ここで、

――お前が能力を使うたびに、俺は体調が悪くなる。

なんて言ったら、彼女はどんな顔をするんだろう。


彼女が本気で落ち込む顔は見たことがない。

……でも。なぜか、見たくないと思った。


「……いや」


石原は視線を外す。


「なんでもない」


それから少し歩調を速めた。


「急げ。遅れるぞ」


「えーっ! 先輩が遅刻を気にするなんて!」


緒山が笑いながら、小走りで追いついてきた。


いつも通り、にぎやかな声だ。


石原は何も言わなかった。ただ、舌の先に残る鉄の味を、そっと口の中で押さえた。

誰にも気づかれないように。

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