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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二章 出会い――彼女の感情だけが、読めない(2)
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第六話

---


【教室の中】


午後の陽射しが窓から斜めに差し込み、机の上に明るい光の帯を落としている。


石原は机に突っ伏したまま、うとうとと眠っていた。


夢の中は、見慣れた薄暗さだった。


彼はリビングに立っていた。

冷蔵庫には、びっしりと付箋が貼られている。

彼はそれを一枚ずつ目で追っていった。


「久ちゃん、お弁当は冷蔵庫に入ってるよ。ママ、あと数日で帰るから」


「久ちゃん、ママはしばらく出かけます。ちゃんと自分のことを大事にしてね」


「久ちゃん、ママはしばらく帰れません。生活リズムに気をつけて、妹とパパのこともちゃんと見てあげてね。ママはあなたを愛してる」


最後の一枚は、いちばん丁寧な字で、わざときれいに書いたようだった。

母親がこれを書いていたときの横顔を、彼は覚えている。


それから彼は振り向き、ソファのほうを見た。

ソファには父親が座っていた。


「パパ、ママはまだ帰ってないの?」


父親は新聞を置き、こちらへ歩いてきた。身をかがめて、彼の頭をそっと撫でる。その手つきはやさしかった。

だが、その手はわずかに震えていた。


「帰ってくるよ、久希」


少年は父の頭上に浮かぶ数字を見上げた。あの頃の彼には、まだその力が未熟で、その数字の意味も分からなかった。

ただ、父の目だけは覚えていた。


「パパ……あれ、本当にママが残したの?」


父の手が、空中で止まる。


「……僕のせい?」


父は答えなかった。ただ、ゆっくりと身を起こした。付箋を一度だけ見て、それから息子へ視線を戻す。

最後にかすかなため息をつき、父はそのまま寝室へ戻っていった。


数日後、父もいなくなった。


---


「おい、石原。授業終わったぞ」


誰かに軽く肩を押された。


石原ははっと目を開ける。


午後の光が少し眩しかった。

教室はほとんど空で、荷物をまとめている生徒が数人いるだけだ。

窓の外から、体育の笛の音が聞こえてくる。


石原は体を起こし、顔をこすった。

夢の残像がまだ頭に残っていて、胸の奥にはあの重たい感覚が残っている。


腕時計を見た。もうすぐ授業が終わる。


そのとき、ふとあることに気づいた。

弁当のことだ。


石原は鞄を開け、中をのぞいた。

空だった。

朝、急いで家を出たせいで、妹が用意してくれた弁当を持ってくるのを忘れたのだ。


石原はため息をつき、再び腕の中に顔をうずめた。


腹が減ること自体は、別にどうでもいい。

問題は、これを妹に知られたときだった。きっとあの「やっぱりね」とでも言いたげな目で見てきて、「バカなお兄ちゃん」とでもぶつぶつ言うに違いなかった。


(……金もない……でも、さすがに何も食わないわけにもいかない)


石原はスマホを取り出し、妹にメッセージを送った。


「弁当忘れた。助けて」


三秒後、返信が来た。


「……お兄ちゃん、本気???」


さらに十秒後。


「階段のとこで待ってて!!!!」


石原はもう一度ため息をつき、席を立った。そのまま階段口へ向かう。


一分もしないうちに、曲がり角から妹が飛び出してきた。

手にはパンが二袋握られていて、そのまま石原の胸に放り込んだ。


「バカなお兄ちゃん! 夜になったらちゃんと説教だからね!」


じろっと睨むと、髪をひるがえし、そのまま教室へ走っていった。


石原は腕の中のパンを見下ろす。

まだ、ほんのり温かかった。


---


自分の教室がある階に戻り、窓際を通りかかったそのときだ。


ふと視界の端に中庭が映った。

そこに、見覚えのある姿があった。


ふわりとした黒い長髪の緒山が、中庭のベンチに一人で座っていた。

陽射しを浴びるその姿は、静かすぎてどこか現実味がなかった。


――あれは、緒山……?


石原は一瞬、足を止めた。

反射的に壁の時計を見る。授業開始まで、あと一分だった。


もう一度、中庭を見た。

緒山はまだ同じ姿勢のままだった。まったく動く気配がい。


(おいおい……)


石原は、そのままいつ動くのか確かめるように見つめていた。


十秒。

二十秒。

三十秒。


それでも、彼女は動かない。まるで、誰かに一時停止されたみたいだった。


そのとき、橋の上での出来事がふいに頭をよぎる。

彼女が消えた瞬間のことと、何事もなかったように歩き去った人々のことが。


ある考えがふっと頭に浮かんだ。


――もし、

その考えがまとまりかけた次の瞬間、緒山の姿が消えた。


立ち上がったわけでもなく、振り向いて立ち去ったわけでもなかった。

ついさっきまでそこにいたのに、次の瞬間にはベンチが空になっていた。その間の動きが、まったくなかった。


石原の呼吸が一瞬止まる。


すぐに、あの感覚が押し寄せた。

強いめまいがして、胸を掴まれるような動悸が走る。視界がゆらゆらと揺れ、耳の奥で低い唸りが響く。舌の先に、あの鉄の味が広がった。


石原は窓枠に手をつき、荒く息を吐いた。

やがて、視界の揺れが収まる。


石原は反射的に顔を上げ、B組の入口のほうを見た。


そこには、見慣れた姿があった。

緒山が、何事もないように教室へ入っていくところだった。


そして、ふと立ち止まり――こちらをちらりと振り返った。まるで、そこに石原がいると知っているみたいに。


石原は壁に背を預ける。力が抜け、そのままずるずると床に座り込んだ。

腕の中のパンは、握りつぶされて形が崩れていた。


(まただ)


橋の上での出来事。

さっきの「消え方」。

それから、いまだに読み取れない彼女の感情タグ。


(あいつ……何なんだよ)


チャイムが鳴った。


石原は壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がると、そのまま教室へ戻ろうとする。


B組の前を通るとき、思わず中をのぞいた。

緒山は席に座り、教科書を開いていた。

その表情は落ち着いていて、まるで何事もなかったかのようだ。


石原は自分の席に戻った。潰れたパンを机に置いた。


ふと、窓の外を見た。

中庭のベンチは空だった。そこには、さっきと同じ陽射しだけがあった。

まるで、全部幻でも見ていたみたいだ。


隣の席の甘露寺十花が、ちらっとこちらを見た。


「さっきトイレ長かったね。もう少しで遅刻だったよ。先生、ちょっと怒りかけてたよ」


石原はきょとんとした顔をした。

何も答えず、ただ窓の外を見ていた。


頭の中には、さっきの光景が焼きついていた。

――さっきまでいたのに、次の瞬間にはいなかった。


誰も気づいていなかった。誰も覚えていなかった。

橋のときと、同じだった。


石原はゆっくり視線を落とした。

舌の先に残る鉄の味は、まだ消えていなかった。

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― 新着の感想 ―
この作者、タイトルからしてめちゃくちゃ心込めてる感じがして、すごく趣向も凝ってるし、劇の流れも完璧にまとまってた。 これで立花のパートも一区切りついて、新しい目標持って進む姿見たらめちゃくちゃ感動した…
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