第六話
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【教室の中】
午後の陽射しが窓から斜めに差し込み、机の上に明るい光の帯を落としている。
石原は机に突っ伏したまま、うとうとと眠っていた。
夢の中は、見慣れた薄暗さだった。
彼はリビングに立っていた。
冷蔵庫には、びっしりと付箋が貼られている。
彼はそれを一枚ずつ目で追っていった。
「久ちゃん、お弁当は冷蔵庫に入ってるよ。ママ、あと数日で帰るから」
「久ちゃん、ママはしばらく出かけます。ちゃんと自分のことを大事にしてね」
「久ちゃん、ママはしばらく帰れません。生活リズムに気をつけて、妹とパパのこともちゃんと見てあげてね。ママはあなたを愛してる」
最後の一枚は、いちばん丁寧な字で、わざときれいに書いたようだった。
母親がこれを書いていたときの横顔を、彼は覚えている。
それから彼は振り向き、ソファのほうを見た。
ソファには父親が座っていた。
「パパ、ママはまだ帰ってないの?」
父親は新聞を置き、こちらへ歩いてきた。身をかがめて、彼の頭をそっと撫でる。その手つきはやさしかった。
だが、その手はわずかに震えていた。
「帰ってくるよ、久希」
少年は父の頭上に浮かぶ数字を見上げた。あの頃の彼には、まだその力が未熟で、その数字の意味も分からなかった。
ただ、父の目だけは覚えていた。
「パパ……あれ、本当にママが残したの?」
父の手が、空中で止まる。
「……僕のせい?」
父は答えなかった。ただ、ゆっくりと身を起こした。付箋を一度だけ見て、それから息子へ視線を戻す。
最後にかすかなため息をつき、父はそのまま寝室へ戻っていった。
数日後、父もいなくなった。
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「おい、石原。授業終わったぞ」
誰かに軽く肩を押された。
石原ははっと目を開ける。
午後の光が少し眩しかった。
教室はほとんど空で、荷物をまとめている生徒が数人いるだけだ。
窓の外から、体育の笛の音が聞こえてくる。
石原は体を起こし、顔をこすった。
夢の残像がまだ頭に残っていて、胸の奥にはあの重たい感覚が残っている。
腕時計を見た。もうすぐ授業が終わる。
そのとき、ふとあることに気づいた。
弁当のことだ。
石原は鞄を開け、中をのぞいた。
空だった。
朝、急いで家を出たせいで、妹が用意してくれた弁当を持ってくるのを忘れたのだ。
石原はため息をつき、再び腕の中に顔をうずめた。
腹が減ること自体は、別にどうでもいい。
問題は、これを妹に知られたときだった。きっとあの「やっぱりね」とでも言いたげな目で見てきて、「バカなお兄ちゃん」とでもぶつぶつ言うに違いなかった。
(……金もない……でも、さすがに何も食わないわけにもいかない)
石原はスマホを取り出し、妹にメッセージを送った。
「弁当忘れた。助けて」
三秒後、返信が来た。
「……お兄ちゃん、本気???」
さらに十秒後。
「階段のとこで待ってて!!!!」
石原はもう一度ため息をつき、席を立った。そのまま階段口へ向かう。
一分もしないうちに、曲がり角から妹が飛び出してきた。
手にはパンが二袋握られていて、そのまま石原の胸に放り込んだ。
「バカなお兄ちゃん! 夜になったらちゃんと説教だからね!」
じろっと睨むと、髪をひるがえし、そのまま教室へ走っていった。
石原は腕の中のパンを見下ろす。
まだ、ほんのり温かかった。
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自分の教室がある階に戻り、窓際を通りかかったそのときだ。
ふと視界の端に中庭が映った。
そこに、見覚えのある姿があった。
ふわりとした黒い長髪の緒山が、中庭のベンチに一人で座っていた。
陽射しを浴びるその姿は、静かすぎてどこか現実味がなかった。
――あれは、緒山……?
石原は一瞬、足を止めた。
反射的に壁の時計を見る。授業開始まで、あと一分だった。
もう一度、中庭を見た。
緒山はまだ同じ姿勢のままだった。まったく動く気配がい。
(おいおい……)
石原は、そのままいつ動くのか確かめるように見つめていた。
十秒。
二十秒。
三十秒。
それでも、彼女は動かない。まるで、誰かに一時停止されたみたいだった。
そのとき、橋の上での出来事がふいに頭をよぎる。
彼女が消えた瞬間のことと、何事もなかったように歩き去った人々のことが。
ある考えがふっと頭に浮かんだ。
――もし、
その考えがまとまりかけた次の瞬間、緒山の姿が消えた。
立ち上がったわけでもなく、振り向いて立ち去ったわけでもなかった。
ついさっきまでそこにいたのに、次の瞬間にはベンチが空になっていた。その間の動きが、まったくなかった。
石原の呼吸が一瞬止まる。
すぐに、あの感覚が押し寄せた。
強いめまいがして、胸を掴まれるような動悸が走る。視界がゆらゆらと揺れ、耳の奥で低い唸りが響く。舌の先に、あの鉄の味が広がった。
石原は窓枠に手をつき、荒く息を吐いた。
やがて、視界の揺れが収まる。
石原は反射的に顔を上げ、B組の入口のほうを見た。
そこには、見慣れた姿があった。
緒山が、何事もないように教室へ入っていくところだった。
そして、ふと立ち止まり――こちらをちらりと振り返った。まるで、そこに石原がいると知っているみたいに。
石原は壁に背を預ける。力が抜け、そのままずるずると床に座り込んだ。
腕の中のパンは、握りつぶされて形が崩れていた。
(まただ)
橋の上での出来事。
さっきの「消え方」。
それから、いまだに読み取れない彼女の感情タグ。
(あいつ……何なんだよ)
チャイムが鳴った。
石原は壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がると、そのまま教室へ戻ろうとする。
B組の前を通るとき、思わず中をのぞいた。
緒山は席に座り、教科書を開いていた。
その表情は落ち着いていて、まるで何事もなかったかのようだ。
石原は自分の席に戻った。潰れたパンを机に置いた。
ふと、窓の外を見た。
中庭のベンチは空だった。そこには、さっきと同じ陽射しだけがあった。
まるで、全部幻でも見ていたみたいだ。
隣の席の甘露寺十花が、ちらっとこちらを見た。
「さっきトイレ長かったね。もう少しで遅刻だったよ。先生、ちょっと怒りかけてたよ」
石原はきょとんとした顔をした。
何も答えず、ただ窓の外を見ていた。
頭の中には、さっきの光景が焼きついていた。
――さっきまでいたのに、次の瞬間にはいなかった。
誰も気づいていなかった。誰も覚えていなかった。
橋のときと、同じだった。
石原はゆっくり視線を落とした。
舌の先に残る鉄の味は、まだ消えていなかった。




