第六十九話
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【八月十三日・火曜日・早朝】
【石原家】
朝の光がまだ夜の涼しさを追い払いきれていないころ、石原の部屋のドアが、こつんと遠慮がちに叩かれた。
「お兄ちゃん? 起きてる?」
ドアの向こうから届いた杏の声には、いつもより少しためらいが混じっていた。
石原はすでに目を覚ましていた。
――というより、ほとんど一睡もしていなかった。
夢の中に残っていた冷たさと、緒山との通話のあとに胸に残った重い結論が頭から離れず、何度も寝返りを打っていた。
石原は上体を起こした。
「入っていいぞ」
杏はドアを開けたものの、いつものようにずかずか入ってくることはなかった。
入口に立ったまま、無意識に寝間着の裾を指先でいじっていた。
顔色は少し青白く、目の下にはうっすらと影が落ちていた。
「……また夢、見たの」
声は小さく、視線もどこか落ち着かなかった。
「お兄ちゃんが出てくる夢で……でも、今回はもっと変で」
石原の胸の奥が、わずかに重くなった。
「座って、ゆっくり話せ」
杏はベッドの端に寄って腰を下ろし、石原の枕を抱き寄せると、その上に顎を乗せた。
「夢の中でね、お兄ちゃん、どこか遠くに行こうとしてて……
旅行とかじゃなくて……もう、そのまま帰ってこないような感じで」
言葉を探すように、少し間を置いた。
「玄関で私に『さよなら』って言ってて、笑ってたんだけど……ただコンビニに行くときみたいな、いつも通りの顔で。
でも、なんか違うって分かってて、必死に止めようとして、どこ行くのって聞こうとしたのに……」
杏の声が少し震えた。
「そのまま背を向けて行っちゃって、ドアが閉まって……いくら開けようとしても開かなくて」
一度、言葉が途切れた。
「起きたら……枕、ちょっと濡れてて……」
ぽつりと続けた。
「……お兄ちゃんに、いなくなってほしくない」
部屋の中に、短い沈黙が流れる。
妹の表情を見て、石原はもう隠さずに話すことにした。
「……杏」
言葉を選びながら、口を開いた。
「前の夢も、今回のも……ただの偶然じゃない可能性がある」
「俺と……緒山さんも、最近ずっと、妙にリアルで、あまり気分のいい内容じゃない夢を見てる」
杏ははっと顔を上げた。
「そっちも……?」
石原はうなずき、緒山と話した内容と、自分たちが考えていることを杏に手短に伝えた。
杏は息を詰めたまま、それを聞いていた。
「会長の……“異能力”……?」
杏はその言葉を、小さく繰り返す。
その一言だけで、朝の部屋の空気が少し重くなった気がした。
「本人は、気づいてないの?」
「たぶん、気づいてない」
石原は首を横に振った。
「かなり危険だ。あいつにとっても、周りにとっても」
「会長のストレス……そこまで来てるの……?」
杏の呼吸がわずかに乱れた。
「じゃあ……美里ちゃんも、真汐ちゃんも……もしかして」
「それを確かめる必要がある」
石原は立ち上がり、着替えを始めた。
「今日は彼女たちに話を聞いてみる。特に花野先輩は観察力が高い。俺たちが見落としてることにも気づいてるかもしれない」
「私も一緒に行く!」
そのとき、ベッド脇に置いてあったスマホの画面が光った。
緒山からのメッセージだった。
「先輩、美里ちゃんからさっき連絡があって、お昼休みに学校の近くで甘いものでも食べようって誘われました。『困ってることがあるから相談したい』って。
たぶん夢のことだと思います。先に会ってきますね。何か分かったらすぐ伝えます」
石原はスマホを杏に見せた。
「やっぱり美里ちゃんもか……」
杏は小さく息を吐いた。
「じゃあ、私たちは先に真汐ちゃんのところに行こう!」
石原はうなずき、花野に短くメールを送った。
返事は相変わらず早く、簡潔だった。
「可。住所は以下。外部には漏らさないで」
そのあとに、住宅街の一角を示す住所が添えられていた。




