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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第十四章 繋がる悪夢――もう一つの世界、もう一つの未来
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第六十八話

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【八月十二日・十三日・未明】


【石原の部屋】


意識は、胸の奥にのしかかる生々しい圧迫感に、無理やり現実へ引き戻された。


石原は弾かれたように上半身を起こし、荒く息をつく。

まるで溺れていた者が、ようやく水面へ浮かび上がったみたいだった。


カーテンの隙間の向こうには、重たく淀んだ闇が広がっている。

外では、雨音が辺りを埋め尽くすように降り続いていた。


石原は自分の胸元に手をやる。

寝間着の胸もとは冷や汗でぐっしょりと濡れていた。

皮膚の下では心臓が狂ったように打ち続け、その鼓動が悪夢の余韻を何度も叩き返していた。


ぼやけた印象なんかじゃない。

まるでその場にいたみたいな、生々しい断片だった。


目を閉じても、あの光景は頑なに浮かび上がってくる。


――視界は低かった。

まるで、まったく身動きの取れない何かの身体に閉じ込められているようだった。


視界の上には、単調で、息が詰まりそうなほど真っ白な天井がある。

身体の感覚は奇妙だった。ひどく重いのに、同時に、今にもふっと散ってしまいそうでもあった。

呼吸ひとつするだけで、ひどく力がいる。

そのたびに、目に見えない痛みが身体のどこかを引き攣らせた。


耳元では、規則的で冷たい機械音が鳴っていた。


――ピッ……ピッ……


そして、視界の端に、彼女が現れた。


そこにいたのは、緒山だった。


彼女はすぐそばに座り、石原の手を握っていた。強く、離すまいとするみたいに。

指先には、かすかな震えと、冷えきった体温がはっきり伝わってきた。


彼女の顔は、まるで涙の膜を一枚隔てたみたいにぼやけている。

それでも、きつく噛まれた下唇だけははっきり見えた。


少し離れた場所から、抑えた声の、ひどく事務的な会話の断片が漂ってきた。


「損傷がひどすぎる……」

「……ご家族の同意は取れています」

「角膜と腎臓……少なくとも三人は救える」

「まだ若いのに……」


次の瞬間。


緒山の声が重なった。押し殺した、今にも崩れそうな声だった。


「ダメ……私たち、約束したのに……こんなの、ダメ……」

「先輩、約束してくれたのに……こんなの、嫌だよ……」


そのあとに訪れたのは、果てのない暗闇だった。


意識が高いところから一気に落ちていくような、はっきりとした失重感だけが残る。


「……はあ、っ……はあ……」


石原は額を強く押さえた。

指先は冷えきっていた。


――あの夢。


あまりにも鮮明すぎた。

夢というより、無理やり頭の中に押し込まれた記憶みたいだった。


前の動悸の余韻すらまだ消えきっていないのに、今度はそれ以上の強さで襲ってきた。


そのとき、枕元のスマホがふいに光った。

暗闇の中で、その明かりだけがやけに強く浮かび上がった。


短い通知音が鳴る。

LINEだった。


石原は手を伸ばし、スマホを掴んだ。

画面の冷たい光に、思わず目を細める。


差出人――「朋奈」

時刻――03:15


「先輩、起きてますか? こんな時間にごめんなさい……また、あの夢を見ました。今回は……あまりにもはっきりしていました」


最後の一文が、氷の塊みたいに、まだ収まりきっていない動悸の中へ落ちる。


石原は一瞬も迷わなかった。


親指を滑らせ、そのまま発信ボタンを押した。


呼び出し音が鳴った。

外の雨音と混ざり合い、鼓膜を叩く。


二度鳴ったところで、すぐに通話は繋がった。


「……先輩?」


通話の向こうから、緒山の声が聞こえてきた。いつもより少し低く、起きたばかりのようにかすれている。息の切れ間には、かすかな震えも混じっていた。

向こうからも、こちらと同じように細かな雨音が聞こえていた。


「俺も今、起きたとこだ」


石原はそこで、口を開く。自分の声も、少しかすれているのが分かった。


「また、悪い夢見た」


通話の向こうで、ほんの一瞬、沈黙が落ちた。

その代わり、わずかに荒くなった息づかいだけが耳に残る。


「……やっぱり、病院……ですか?」


「……ああ」


石原は短く答え、それから一拍置いて続けた。


「視点は……ベッドに寝かされてる側だった」


緒山が大きく息を吸い込んだ。その息は、かすかに震えながらこちらまで伝わってきた。


「私も……今回は、白い部屋で寝かされてる夢を見ました」


どこか現実味のない、ふわりとした声だった。


「窓の外は……ぼやけてて、でも冬みたいで……生気がなくて」


一度、言葉が途切れた。

呼吸が、少しだけ速くなった。


「体がすごく重くて、変な感じで……何かに押さえつけられてるみたいに、動けなくて。

それで……近くに人影が見えて……すごく疲れてるみたいで、ずっと付き添ってたような感じで……」


「声を出そうとしても、動こうとしても、何もできなくて……最後に残ってたのは、ずっと鳴り続ける単調な音だけで……それが、すごく不安で……」


そこで言葉が途切れた。

今度の沈黙は、少し長い。


石原には、彼女が呼吸を整えようとしている気配まで、はっきり感じ取れた。


「前の夢は……悪い知らせを聞いて、誰かに慰められてる場面だったんです」


声がさらに小さくなった。雨音に溶けてしまいそうだった。


「でも今回は……もっと先の場面に、いきなり飛んだみたいで……」


二人のあいだに、再び沈黙が流れた。


雨音がその隙間を埋めるように響き、互いに早まった鼓動さえ、どこかへ押し隠してしまう。


「ただの夢だ。緒山さん」


先に口を開いたのは石原だった。意識して、声を落ち着かせた。


「妙に生々しくて、気味も悪いだろうけど……夢は夢だ。

ストレスかもしれないし、昼間に旧校舎のこととか会長のこととか話しすぎて、気が張ってるだけかもしれない」


一度、言葉を切った。

杏が言っていたことが、ふと頭をよぎった。


――あいつも、もしかして……


「ただ……ここまで鮮明で、しかも少しつながってるような夢を、同じタイミングで見るってのは……さすがに普通じゃない」


電話の向こうで、緒山が息を呑む気配がした。


「この感じ……朝日や立花の件に関わってたときの、“違和感”に近い」


「単なる気分や偶然じゃない。もっとこう……」


「先輩、それって……」


緒山の声が一気に張り詰めた。


「会長の状態が……もう、“ああいう現象”を引き起こしてる可能性があるってことですか?」


「断定はできない。でも、あいつの状態が普通じゃないのは確かだ」


石原は低く言った。


「俺たちの夢も、その影響かもしれない……本人は気づいてないのかもしれない」


杏が話していた、“透明になって消える夢”。

それから、昼間に見た立花の、隠しきれない動揺。


もしこの“波紋”が、自分と緒山だけに留まらないとしたら――


「確認しましょう」


緒山の声が、少しだけいつもの調子を取り戻した。


「少なくとも……最近、他にも同じような変な夢を見てる人がいるのか、さりげなく確かめたいです。

もし本当に会長が関係してるなら……放っておけません。本人にとっても、周りにとっても」


「ああ。明るくなったら、まずは身近なところから。余計な不安を与えないように、気をつけてな」


「分かってます」


少し間が空いた。

さっきまでの緊張が、ほんのわずかに緩んだ。


「先輩……話を聞いてくれて、ありがとうございました。

それと……さっき、安心させてくれたことも。ありがとうございました」


「気にするな」


石原は短く返した。


「お互い様だ」


通話が切れた。

スマホの画面が、ふっと暗くなる。


石原はベッドの背もたれにもたれたまま、もう眠れそうになかった。


外の雨は、少しだけ弱まっている。


夢の中の冷たさは、まだ残っていた。だが、緒山とのやり取りで、それはもう“自分一人の恐怖”ではなくなっていた。


夜明けは近い。


――そして、調査は始めなければならない。

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