第六十七話
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【八月十二日・月曜日・夕方】
【市立図書館】
調査は、思っていた以上に時間がかかった。
石原と緒山が手元の資料をどうにか整理し、ようやく少し糸口が見えてきたころには、窓の外の日差しはもう金色がかった赤へと褪せていた。
館内には、やわらかな明かりが灯っていた。
「ピアノの音の報告、やっぱり時間帯に規則性がありますね……」
緒山はノートを閉じ、腕を上げて肩を軽く伸ばした。
「夏祭りの前後で、時間帯は深夜。それに……ほとんどが気圧の低い、蒸し暑い夜に集中してます。昨夜とか、今夜みたいな日ですね」
そう言って、彼女は窓の外へ視線を向けた。
暮れかけた空の西には、重たい雲が垂れこめている。
空気は淀み、風はまるでなかった。
「何かこう……特定の“雰囲気”が揃わないと現れないもの、って感じがします」
石原は小さくうなずき、借りていた資料をまとめた。
だが意識の一部は、まだ昨日の生徒会室で見たあの一瞬に引っかかったままだ。
窓の外に満ちるこの重く湿った空気も、何かを孕んでいるようで、胸の奥に薄い不安を残していた。
「今日はここまでにするか」
「うん」
二人は荷物を片付け、図書館を出た。
外へ出た瞬間、まとわりつくような熱気が一気に押し寄せる。
館内にいるときより、むしろ息苦しさを覚えるほどだった。
蝉の声は張り裂けるように響いていて、夜にはひと雨来そうな気配がある。
「私、本屋で新しく出た参考書を見てくるけど、先輩は?」
分かれ道で、緒山が尋ねた。
「そのまま帰る」
「じゃあ、また明日。あの件、夜にもう一回考えてみます。何か見落としてることがあるかもしれませんし」
緒山は手をひらひらと振り、そのまま別の道へと歩いていった。
石原は一人、家の方向へ歩き出す。
途中でコンビニの前を通りかかり、何となく中をのぞいたとき――足が止まった。
立花が、冷蔵ケースの前に立っている。
手にはプリンを一つ、ぼんやりと持っていた。
だが視線は商品ではなく、ガラス扉に映った影をぼんやりと見つめている。
今日はシンプルなTシャツにショートパンツ姿で、髪も無造作にまとめていた。
どこか……落ち着かないように見える。
石原は少しだけ迷い、それでも扉を押して中へ入った。
自動ドアが「ピンポン」と鳴る。
立花はびくっと肩を震わせ、はっと我に返った。
手にしていたプリンを落としかけ、慌てて掴み直す。
顔を上げ、石原に気づくと――一瞬、視線を逸らした。
だがすぐに、無理やり明るい笑顔を作る。
「せ、先輩! すごい偶然ですね!」
「……ああ」
石原は軽くうなずき、そのまま飲み物売り場へ向かった。
「先輩も買い物ですか?
あ、私は明日のお弁当の材料を買いに来てて……その、ついでにお菓子もちょっと!」
言葉がやけに早い。
視線も落ち着かず、石原とまともに目を合わせようとしなかった。
石原はちらりと彼女を見る。
頭上の感情タグは、どこか乱れていた。
【緊張】【後ろめたさ】【動揺】、そして少し不自然な【明るさ】。
(最近、確かに様子がおかしいな……生徒会の仕事が忙しいせいか?)
「仕事の進み具合はどうだ?」
「えっ、あ、はい! 問題の“趣味寄り”の部分はもう整理できてて、夜に真汐ちゃんへ送る予定です!」
立花の声は、さっきより少し落ち着いていた。
「会長が言ってた締切、火曜までですよね? 大丈夫です!」
「そうか」
石原はそのままレジへ向かった。
立花もほっとしたように後に続き、会計を済ませる。
二人は一緒に店を出た。
「じゃあ、先輩、また!」
立花はそそくさと別れを告げ、そのまま足早に去っていく。
石原は、立花の背中が角を曲がって見えなくなるまで見ていた。
胸に残る違和感は消えなかったが、深く追うことはしない。
そのまま家へ向かった。
だが、途中の小さな公園を通りかかったとき、ふと足を止めた。
ブランコに座って、ゆっくり揺れている緒山の姿が目に入った。
手には、小さな袋を提げている。
視線はどこか遠く、空の端に残った最後の夕焼けをぼんやりと眺めていた。
(緒山さん……買い物終わったばかりなのに。どうして帰ってないんだろう。)
石原はそのまま近づいた。
足音に気づいたのか、緒山が振り向いた。
石原の姿を認めると、ふっと笑う。
「先輩、遠回りしたんですか?」
「……ああ」
隣のブランコに腰を下ろした。
鎖がかすかにきしむ音を立てる。
辺りはすでに薄暗く、公園の街灯はまだ点いていなかった。
世界は、どこか輪郭のぼやけた灰青色に沈んでいる。
遠くの住宅の窓には、ぽつぽつと暖かな灯りがともっていた。
しばらく、言葉はなかった。
耳に届くのは、木の葉を揺らすかすかな風の音と、さらに遠くを走る車の気配だけ。
「先輩」
緒山がふいに小さな声で言った。
つま先を地面につけて、ブランコの揺れを止める。
そのまま振り向いて、石原を見た。
口元には、少しだけからかうような笑みが浮かんでいた。
「最近……ちゃんと眠れてます?」
「まあまあ」
石原は短く答え、静かな目で彼女を見返した。
「ふうん?」
緒山はぱちりと瞬きをした。
その口調は、あくまで軽かった。
「私はちょっと……昼間にあれこれ考えすぎちゃうせいか、夜になるとね、妙に“画が浮かぶ”夢ばっかり見るんですよ」
「たとえば?」
石原は、それに乗るように問い返す。
声は落ち着いていたが、ブランコの鎖を握る手には、わずかに力がこもっていた。
「たとえば……」
緒山は顔を上げ、雲に飲み込まれかけた最後の夕焼けを見つめる。
記憶を探るような仕草だった。
「すごく高くて、てっぺんの見えない階段をひたすら登ってる夢とか。ずっと登って、ずっと登って、足がちぎれそうなくらいなのに、なんで登ってるのかも、その先に何があるのかも分からないままで」
「ほかには?」
「あと……」
一度、言葉を切った。
顔を戻して石原を見るが、すぐに視線を落とす。
「大事にしてたものを、うっかり割っちゃう夢とか。繋ぎ合わせようとしても、どうしても欠片が全部は見つからなくて……」
小さく息をついた。
「そのまま、散らばったままのそれを見てるしかなくて。すごく……無力なんです」
語り口はあくまで淡々としていた。
まるで、少し物悲しいだけの、取るに足らない寝る前の小話みたいに。
(悪夢、か……)
石原は、数日前の深夜のことを思い出す。
自分もあのとき、悪夢から引きずり上げられるように目を覚ましたばかりだった。
「ストレスが溜まってると、夢も変になる」
「ですよね……」
緒山は小さく息を吐いた。
「たぶん、最近ずっと気を張りっぱなしだからだと思います。会長のこともあるし、旧校舎の謎のことも……」
そこまで言って、続きを飲み込むように笑う。
会話は、そこでふっと途切れた。
「そろそろ戻りましょうか。今にも降りそうですし」
緒山はブランコから軽く飛び降り、手についた埃を払う。
「……ああ」
二人は並んで公園を出て、マンションで別れた。
それは、いつもの何気ない夕方と何も変わらなかった。
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家に戻ると、石原は机の前に座ったまま、明かりをつけなかった。
窓の外では、雲がさらに厚みを増している。
ときおり、音もなく稲光が走り、そのたびに彼の横顔を白く照らした。
あの夢の断片が、また勝手に浮かび上がってくる。
真っ白な部屋。
機械の音。
強く握られた、震える手。
それに、輪郭の曖昧なまま耳に残っている、あの言葉。
どれも、妙に現実味を帯びていた。
冷たい手触りまで伴って、いやに鮮明だった。
(ただ、気疲れが溜まってるだけだ……たぶん)
理屈ではそう思っても、胸の奥に残るわずかな寒気は消えなかった。
それ以上に気になっていたのは、夕食後の、杏との短いやり取りだ。
食器を片付けているとき、杏が台所の入口にもたれかかり、何気ない様子で言った。
「お兄ちゃん、最近ちゃんと眠れてないでしょ?」
石原の手が一瞬止まった。
「なんで分かる」
「クマできてるし。それに、昼間たまにぼーっとしてるときあるし」
腕を組みながら、視線をそらした。
「それに……変な夢見たんだ」
石原の胸が、わずかに締めつけられた。
流れる水音だけがやけに耳に残る。
「変な夢?」
「うん。お兄ちゃんがね、だんだん透けていくの。幽霊みたいに」
杏は指先をいじりながら続けた。
「呼んでも、掴んでも、全然気づいてないみたいで……最後はそのまま、ふっと散っちゃうの」
視線を落としたまま、小さく言った。
「目が覚めたあと、なんか……胸のあたりが空っぽになったみたいで。ちょっと気持ち悪かった」
それから顔を上げて、石原を見た。
「こんな夢、意味分かんないじゃん。だからさ……もしかして、お兄ちゃんのほうで何か変なことが起きてて、それに私まで巻き込まれてるのかなって思って」
あのとき石原は、曖昧に答えるしかなかった。
「最近、みんな疲れてるだけじゃないか」
話を切り上げると、杏もそれ以上は聞かなかった。
「とにかく無理しないでよ」とだけ小さく言って、部屋へ戻っていった。
――だが。
今こうして一人になると、その会話が何度も頭の中で繰り返された。
(杏まで……)
自然と、一つの考えが浮かんできた。
この異様な空気が生んでいる“悪夢”は、自分が思っているよりずっと広い範囲に及んでいるんじゃないか――そんな考えだ。
……深く考えたくはない。
なのに、頭の中では勝手に断片同士が繋がっていった。
自分と緒山が見た、あの妙に鮮明な夢。
杏が語った、はっきりと自分を指していた夢。
それに、春野に起きていたあの不自然なタグの乱れ。
全部がただの不幸な偶然の重なりで、張りつめすぎた神経がそれを勝手に膨らませているだけなのか。
そんな考えが頭をよぎった。
寒気だけを残して、肝心の裏づけは何ひとつない。
窓の外で、ついに雨が落ち始めた。
最初はぽつりぽつりと落ちていた大粒の雨が、すぐに激しい雨脚へと変わり、ガラス窓をざあざあと絶え間なく叩きはじめる。
石原は、その音の中で、静かに目を閉じた。




