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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第十四章 繋がる悪夢――もう一つの世界、もう一つの未来
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第六十六話

---


【八月十一日・日曜日・午後】


【生徒会室】


部屋の中で絶えず鳴っているのは、エアコンの低い唸りだけだった。

窓の外では、八月の陽射しがじりじりと照りつけている。

その熱のざわめきを、エアコンの低い唸りがどうにか押さえつけようとしているようだった。


石原が生徒会室の扉を開けると、古い紙と微かな埃の匂いがふっと鼻をつく。


春野はもう来ていた。

長机の端に座り、窓を背にしている。


午後の陽射しがブラインド越しに差し込み、彼の前に広げられた分厚い書類の束を照らしていた。


春野は赤ペンを手に、ある数字の上でしばらくペン先を止め、それからこつんと落とす。

もう一度、さらにもう一度。

ただ、そうして手を動かしていないと落ち着かない――そんなふうにも見えた。


「春野」

石原が声をかけた。


春野は顔を上げた。

「石原、来たか」

目の下の隈は濃かったが、声は落ち着いている。


石原の視線は、春野の頭上にぴたりと張りついていた。

感情タグははっきり見えている。

だが、その数値は思わず息をのむようなものだった。


【重圧】、【疲労】……。

その奥に、かすかに明滅する【集中】と【責任感】も混じっている。

細い支えが、どうにかその重たい全体を持ちこたえさせている――そんなふうに見えた。


「失礼します」

石原は机の前まで歩み寄り、物品の確認表を差し出した。

昨日メッセージで触れた「口実」の書類だったが、実際に引き継ぎが必要な仕事でもあった。


「確認表です。確認は終わっています」


「お疲れ」


春野は確認表を受け取り、いくつかの重要な数字に素早く目を通してから、小さくうなずく。

それから赤ペンを置き、椅子の背にもたれ、こめかみを揉んだ。


「このあと、ボランティアの研修と流れの確認も急いで詰めないとな。タイムテーブルはあとでグループに流すから、先に会場を――」


その「このあと」という言葉が唇からこぼれた瞬間――

石原の瞳孔が、すっと縮んだ。


春野の頭上に浮かんでいた感情タグは、重たくはあっても、さっきまではまだ安定していた。

それが次の瞬間、縁のほうから前触れもなく弾けるように崩れる。


細かく揺れていた感情値は、一瞬で無数の文字化けに覆い尽くされた。

それらは激しく明滅していた。


続いたのは、およそ〇・八秒。

ほんの短い一瞬だった。だが、あまりにも鮮明で、明らかに異常だった。


石原は、うなじのあたりの毛がかすかに逆立つのを感じた。


感情タグがこんなふうに乱れるのを見るのは、これが初めてじゃない。

朝日守の能力が感情の暴走を起こしたときに見せた、激しい数値の揺れ。

緒山の頭上に、ずっと残り続けていた欠けた文字化け。

それに、立花美里が内側で激しく揺れていたときに見えた、あの不安定に明滅するタグ――。


どれも石原がこれまで目にしてきた、“強い執着”と深く結びついた異常の兆候だった。


文字化けは、何の前触れもなく収まった。

現れたときと同じくらい、唐突に。


春野自身は、まったく気づいていないようだった。

ただ一瞬だけ言葉を切り、さっきの“乱れ”に思考の流れを引っかけられたような間を置いてから、すぐに話を続けた。


「……大まかな流れはそんな感じだ。何かあれば、いつでも言ってくれ」


彼は手元の引き出しを開け、青い硬質ファイルを取り出して、石原の前に滑らせた。


「それから、夏休み中に生徒会へ寄せられた報告が三件ある。まずはざっと目を通して、一次的に振り分ける必要がある」


その指先が、いちばん上に載っていた報告書を軽く叩いた。


「これだ。『旧校舎のピアノの音』。優先度は一番高い。去年の夏祭り前後にも似たような報告があって、そのときも調べたが、はっきりした原因は掴めなかった。ここ一週間で、また二件、新しい報告が来ている。目撃というより、“聞こえた”という内容だ。どちらも時間帯は深夜だった」


春野の指先が、「旧校舎」と「ピアノの音」の文字をとん、と叩く。

その眉間には、わずかに皺が寄っていた。


「残り二件はこっちだ」


下の二枚を引き抜いた。


「一件は、図書館東区の書架で『気づくと本の位置がずれている』っていう、前からある話だ。もう一件は、中庭の古い桜の木の下で、夜中に『誰かが小声で話しているように聞こえる』という報告だ。どれも断続的に出てくるもので、資料もかなり散発的だ」


彼は手を上げ、眉間を強く揉んだ。


「こっちは今週中に、予算の最終案と学校側に出す段階報告の資料をまとめないといけない。この三件の一次選別と資料整理は、石原と緒山に任せたい。特にこのピアノの件は、報告の時間帯の傾向と記述の細部をよく見てくれ。見落としている手がかりがあるかもしれないからな」


ちょうどそのとき、生徒会室の扉が軽く二度ノックされ、そのまま開く。


緒山がひょこっと身をのぞかせた。その顔には、いつものように明るくて元気な笑みが浮かんでいる。

「会長、先輩! 私、遅れてませんよね?」


その視線が石原のほうをさっとかすめ、すぐに春野へ向いた。


「ちょうどいい」

春野は机の上の青いファイルを示した。

「報告の選別の件は、今ちょうど石原にも説明したところだ。二人で進めてくれ」


緒山は机の前まで来ると、ファイルを手に取り、いちばん上の『旧校舎のピアノの音』の報告書を開いた。

その視線が文字を追っていく。表情は真剣だった。


「分かりました、会長」


そう言ってファイルを閉じ、胸の前に抱えた。


春野は必要な指示を終えると、すぐにまた目の前の数字と書類の山へ意識を戻した。

石原と緒山は一度だけ目を合わせる。どちらからともなく余計なことは言わず、そのまま前後して生徒会室を出た。


扉が背後で静かに閉まり、春野だけが部屋の中に残った。


廊下に出ると、冷房の届かない蒸し暑さがじわりと肌にまとわりついた。

足音が、がらんとした廊下に反響する。


しばらく歩いたところで、緒山が少しだけ歩調を緩め、石原と肩を並べた。抱えた青いファイルには、少し力がこもっているように見えた。


「会長……昨日より、もっと疲れてるように見えましたね」


「……ああ」


石原は短く返し、廊下の先をまっすぐ見たまま歩く。


その頭の中では、さっきの一瞬の文字化けが何度も再生されていた。


あれは何だったのか。

ただ、疲労と重圧が限界に近づいたことで起きた、一時的な乱れにすぎないのか。

それとも――

もっと異質な何かが、あの頼れる生徒会長の身に、静かに起こり始めているのか。


石原には答えが出ない。

いや、違う。

石原は、その答えを信じたくなかった。

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