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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第十三章 心の糸――ぎりぎりと、音を立てる
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第六十五話

---


【Another View――春野陽明】


春野は、ほとんどよろめくようにして家のドアを開けた。


玄関のセンサーライトが点き、青白く疲れ切った彼の顔を照らし出す。


リビングの灯りはつけなかった。

そのまままっすぐ自室へ向かい、後ろ手にドアを閉めた。

そしてドアにもたれたまま、ゆっくりと床へ滑り落ちた。


暗闇の中、机の上の電子時計だけがかすかな赤い光を放っていた。

22:47。


時間。

また、時間だ。


彼は手を持ち上げ、高校進学のときに父から贈られた腕時計を見つめた。

秒針が一目盛りずつ進んでいった。規則正しく、冷たく、止まることなく。

なのに彼には、時間が何かおかしな速さで指の隙間からこぼれ落ちていくように思えてならなかった。


足りない。

どうやっても足りない。


机の上には、山積みの参考書と模試のプリントが、暗がりの中に重たい輪郭を浮かべていた。


いちばん上に広げられていたのは、早稲田大学商学部の募集要項だった。

その脇には、点数を上げる必要のある科目と目標点が、赤ペンでびっしり書き込まれていた。


先週、父に言われた言葉がまだ耳に残っていた。


「陽明、お前の成績は安定している。だが最難関の学部を狙うなら、この夏休みが本当に勝負だ」


机の反対側には、生徒会の夏祭り用ファイルが置かれていた。


本来なら今日のうちに、ボランティアのシフト初稿と予算の最終確認を終えているはずだった。

だが実際には、建材の規格確認や屋台の電源調整に走り回っていた。

どれも誰かに任せられた仕事だったのに、任せきれなかった。

その結果、一日かけてようやく物品リストの照合を終えるのが精一杯だった。


それに、あのメール。

石原が言っていた、あの最終確認メール。


彼は手探りでポケットからスマホを取り出す。

バッテリー残量が少ないせいで、画面は自動的にいちばん暗くなっていた。


震える指でロックを外す。

メールアプリのアイコン右上に浮かんだ赤い「47」が、まるで自分を嘲笑っているみたいだった。


下へスクロールした。

見つけたのは、『夏祭り物品調達 最終確認(添付一式あり)』という件名のメールだ。

送信時刻は16:17。


既読状況には、花野、立花、それに顧問教師の名前まで並んでいた。

全員、二時間以内には確認を終えている。


未読のままだったのは、自分だけだった。


冷たい自己嫌悪が、心臓をきつく掴んだ。


今日の午後、自分は何をしていた?


三件目の建材業者と、突然の五パーセント値上げについて延々と交渉していた。

旧校舎の倉庫で、去年の資材に傷みが出ていないか不安になり、自分で板材の寸法を測っていた。

頭の中では、ボランティアのシフトの組み合わせを何度も並べ替えて、“完璧な”案を探し続けていた――


時間を無駄にした。

優先順位を取り違えた。

しかも、きちんと仕事を終えてくれていた後輩たちに対して、あんなふうに疑いに満ちた、見苦しい顔を向けてしまった。


「あ……」


喉の奥から、押し殺したような息が漏れた。


重圧は、一つの場所からだけ来ているわけではなかった。


勉強は、最初から分かっていた大きな山だ。

生徒会の責任は、自分で選んで背負ったものだった。後悔したことはない。むしろやりがいさえ感じていた。

――高三の時計が、容赦なく刻み始めるまでは。


そのうえ心の奥には、自分でもあまり触れたくない空白が一つ残っていた。

先月、彼は正式にバスケ部を辞めた。


本当に、時間が足りなくなったからだ。


最後の練習のあと、部員たちは強く肩を叩いてこう言ってくれた。


「生徒会のほうが今は必要なんだろ。分かってるよ」


けれど、その目の奥にあった惜しさも、少しの距離も、春野にはちゃんと分かっていた。


二年以上打ち込んできた部活だった。

汗を流し、声を張り上げ、仲間と同じ目標に向かって全力で走ってきた場所だった。


それが今は、ただの「元キャプテン」だ。


一つずつ切り離して見れば、どの問題にも対処できる自信はあった。

だが、それらが四方八方から波のように押し寄せ、どれもこれも「最高」を要求してきて、一つも落とせないとなったとき――

「まだ余裕がある」と信じていた心の弦は、ついに悲鳴を上げ始めていた。


今日、石原と緒山に向けてしまったあの態度。

あれが、そのひび割れだった。


仕事が終わったなら休むべきだと、そんなことは当然分かっている。

石原と緒山が、楽しそうに一緒に過ごしているのを見て嬉しく思う気持ちだって、確かにあった。


それでも彼の感覚では、仕事に「終わり」はない。

あるのはせいぜい「ひとまず基準を満たした」という状態と、「まだ改善の余地がある」という現実だけだった。


そしてもっと彼を冷えさせていたのは、最近、自分が「未来」に対して奇妙な空虚さと歪んだ切迫感を覚えるようになっていたことだった。


机の前に座り、志望資料や作業表を広げているとき、本来なら――

一つひとつの進路も選択肢も、目の前に整理された道として見えるはずだった。

なのに今は、それらがすべて底の見えない渦のように歪んで見える。


必死に計画を立てようとした。

確かな「見取り図」を掴もうとした。

だが思考は霧の中を空回りするばかりで、焦れば焦るほど手応えは遠のいていく。


未来は、これから敷いていく一本のレールではなかった。

いつ自分を呑み込んでもおかしくない、濃い霧の広がりだった。


その「先」が見えない感覚は、時間が失われていくこと以上に、彼を怖がらせていた。


次の一歩さえ見定められず、確かな形にもできない人間が、どうして人生の舵を握り、今ある責任を背負いきれるというのか。


スマホの画面が、とうとう完全に暗くなった。

バッテリーが切れたのだ。


暗闇が、彼を丸ごと飲み込んだ。


自分の状態がおかしいことは分かっていた。

一度立ち止まって見直すべきことも。

助けを求めるべきことも。

仲間を信じるべきことも。


全部、頭では分かっていた。


だが「分かっている」と「できる」の間には、彼自身にもまだ正体を見切れない、

“執念”という名の深い断絶が横たわっていた。


---


【石原家】


石原は机の前に座っていた。

スタンドライトの明かりが、目の前に開かれたノートを照らしている。


そこに文字はなかった。

あるのは、指先が無意識になぞった乱れた線だけだ。


春野が最後に見せた、異常な断片を交えた混乱した感情タグが――

それが、警鐘みたいに頭の中で何度も鳴り続けていた。


石原はスマホを手に取り、春野とのチャット画面を開く。

入力欄でカーソルが点滅していた。


「大丈夫ですか」とそのまま聞いても、おそらく今夜と同じように「問題ない」とかわされるだけだ。

呼び出して話す?

今の春野の状態と性格を考えれば、断られる可能性のほうが高い。


石原はしばらく指を止め、それから打ち始めた。


「夏祭りのボランティア配置について、一つ案があります。

簡単な希望確認をもう一段階入れれば、あとからの調整負担を減らせるかもしれない。

明日の午後、緒山さんと一緒に学校で資料整理をする予定だ。よければ、そのときこの流れを直接確認したい。ついでに旧校舎倉庫の物品確認表も持っていく。

三時、生徒会室でどうですか」


送信した。


スマホを置き、石原は窓の外の深い夜を見る。


これで春野の問題の核心に触れられるのかは分からない。

そもそも返信が来るかどうかも、怪しかった。


それでも、やってみるしかなかった。


夜はさらに深くなり、石原は疲労の底へ沈むように眠りへ落ちていった。


---


【八月十日/十一日・未明】


そして、彼は“見た”。


それは一つながりの夢ではなかった。

焼けつくように熱を持った、砕けた断片だった。


耳をつんざくブレーキ音。

激しく反転する自分の視界。

そのあとに来たのは、冷たく、自分の体ではないみたいな麻痺した感覚。


入り乱れる人の声。

救急車の回転灯の赤が、闇を切り裂く。


どこか真っ白で、息が詰まりそうな場所で、曖昧で焦った声が聞こえた。


「……適合した……助けられる……」


最後に見えたのは、涙で濡れて輪郭の滲んだ顔だった。


その目には、耐えきれないほど大きな悲しみが満ちていた。

彼は、その目を知っていた。


叫ぼうとした。

だが、声は出なかった。


次の瞬間、彼はベッドの上で勢いよく身を起こした。

寝間着は冷や汗でぐっしょり濡れ、心臓が胸の中で狂ったように打っていた。


窓の外はまだ真っ暗だった。

午前三時。


ただの悪夢だ。


そう自分に言い聞かせても、指先は勝手に胸元へ伸びる。

そこにはまだ、何か冷たく空っぽな幻痛の残像が貼りついている気がした。


言葉にしがたい不安が、

水に落ちたインクみたいに、胸の奥でゆっくりと滲み広がっていった。

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