第六十四話
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「購買リストの最終比較表、もう提出してあるはずだな?」
先に石原へ視線を向けた。
言葉はゆっくりだったが、一つ一つが狙いを定めた槍みたいに、正確に突き刺さってくる。
「それから、緒山」
視線が彼女へ移った。
手にしていた団子の箱に一瞬だけ目が止まる。
「仮払申請書の押印確認済みデータだが、今日の業務終了までにアップロードするようメールで伝えていたはずだ。この時間なら……もう処理は終わっているな?」
声を荒げていたわけではない。怒気も露骨には見せていなかった。
だが理性で押さえ込まれた苛立ちが、わずかな隙間から冷たく滲み出ている。
空気が、すっと抜け落ちたみたいだった。
緒山の笑顔が固まった。
ぱちぱちと瞬きをした。あまりに突然で、状況をうまく飲み込めていないようだった。
「か、会長? 比較表は……先輩と午前中に確認して、お昼前には提出しました。仮払申請書も……押印してもらってすぐスキャンしてアップロードしましたし、たしか……二時半ごろには? メールにも返信して確認していますけど……」
彼女の言葉ははっきりしていた。
その声には、戸惑いと、少しだけ理不尽な疑いを向けられたみたいな悔しさが混じっている。
春野の視線は緒山の顔から外れ、再び石原へと戻った。
すぐには口を開かなかった。ただ、眉間の皺はさらに深くなり、口元に貼りついていた笑みも少しだけ崩れた。
「昼前に提出……二時半に確認……」
低く繰り返す。その声は、頭の中の確認事項をなぞっているみたいだった。
だが、そこに安堵はない。むしろ、余計に焦りが増していくばかりだった。
不意に顔を上げた。
その視線が鋭く石原を射抜いた。
「最終比較表の建材部分、三社の見積もりの差額は予算の範囲内に収まっているか? 『小林材木店』の板材の規格は図面と一致しているな? それから、『佐藤文具』の振込先情報は申請書の添付に更新してあるか?」
問いは具体的で、途切れることなく重なっていった。
「この時間だ……」
腕時計を見た。その動きは、ほとんど反射みたいに速かった。
「一つでも確認が甘ければ、月曜の調整会議までに修正が間に合わない。……本当に、全部見直しきってるのか? “たぶん”も“おそらく”もなしだぞ」
石原は、その焦りを宿した目をまっすぐ見返した。
一歩、前に出た。
「建材の差額は予算内です。赤字で注記してあります。
小林材木店の規格は、午後に緒山と倉庫で現物確認しました。図面と完全に一致していて、倉庫管理者の署名入り確認書も取ってあります。スキャンしてメールにも添付済みです。
佐藤文具の新しい口座情報も、緒山が電話で確認して更新しました。メール添付と紙の申請書、両方とも差し替えてあります」
一つひとつ、はっきりと告げた。
「春野が気にしていた点は全部、今日の四時十七分に送った最終確認メールにまとめてあります。……今、見ますか?」
「四時十七分……最終確認……」
春野の顔から、張りつめていた力が抜けていく。
ポケットのスマホに手を伸ばしかけたまま、動きを止めた。
頭上にあった濃い【疑念】は、陽の中で霧がほどけるみたいに、みるみる薄れていった。
代わりにせり上がってきたのは【気まずさ】と、その奥に沈んだ【疲労】だった。
「……俺は……」
声が急にかすれた。
先ほどまでの圧迫感は、跡形もなく消えている。
「そのメール……見ていなかった。外に出ていて……」
言葉が途切れた。
額を押さえる手に、力がこもる。
「……悪かった」
視線は落ちたまま、足元のわずかに汚れた靴先を見つめていた。
「ちゃんとやってくれてたんだな。俺が……」
そこまで言って、言葉を飲み込んだ。
「……お疲れさま」
視線が、ほんの一瞬だけ緒山へ向けられた。
無理に表情を整え、ぎこちない笑みを浮かべる。
「浴衣、似合ってるよ、緒山。……その、俺は邪魔しないから。祭りの空気、楽しんでくれ」
言い終えると、すぐに背を向けた。
「春野!」
石原が呼び止めた。
春野の背中がわずかに強張った。だが振り返らない。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫だ。ただ、少し疲れてるだけだ。ありがとう」
低い声。最後がわずかに揺れていた。
そのまま人混みに紛れ、店の影の中へと消えていく。
残されたのは、息苦しいほどの静けさだった。
石原は胸の奥に重さを感じる。
さっき、春野が去る直前――石原には、それがはっきりと見えた。
彼の頭上にあった【焦り】【疲労】【気まずさ】のタグが、最後の「ありがとう」と同時に、一瞬だけおかしな変化を起こしたのだ。
激しく明滅して、ぶるりと揺れ、そのまま崩れるみたいに、判別のつかない歪んだ線へと変わったかと思うと、すぐ元に戻った。
その一瞬の“文字化け”に、石原の心臓がぎゅっと縮む。
「先輩……」
緒山が静かに声をかけた。
石原は顔を上げる。
その目にあった光は、先ほどよりもずっと弱まっていた。
「会長……あんな様子、初めて見ました」
「……ああ」
「私たち……このまま続けますか?」
緒山は小さく問うた。
手の中の、まだ手つかずの団子の箱へ視線を落とす。
それから、ノートの「小倉屋」の欄――まだ印のついていない空白へと目を移した。
きれいに締めくくるはずだった今日の計画は、途中で断ち切られたままになっている。
石原は少し黙った。
最後の一項目は、閉じきれない円のように残っている。
緒山の瞳の奥で、期待がゆっくりと薄れていった。
「……帰ろう。続けても、味が変わる」
「……うん」
団子の箱は開かれなかった。
緒山はそれを静かに袋にしまい、ノートの「小倉屋」の横に、小さな、途切れた点みたいな印をつけてから、ノートを閉じる。
帰り道、二人は並んで歩いたが、言葉はなかった。
祭りの喧騒は背後へ遠ざかり、街は少しずつ静けさを取り戻す。
街灯の光が、二人の影を長く伸ばし、また縮め、もう一度伸ばしていった。
やがて、マンションの手前の交差点で緒山が足を止めた。
振り返り、石原をまっすぐ見る。
夜の中で、その瞳はひどく澄んでいて、それだけに真剣さがよく分かった。
「先輩。会長のこと……放っておけませんよね」
石原はうなずいた。
「でも、直接聞いても、きっと話してくれません」
緒山は眉を寄せ、袖口を指でいじった。
「あんなにプライドの高い人ですし……さっきみたいな姿、本人が一番つらいはずです。
私たち、どうしたら力になれるでしょう」
「まずは様子を見る」
「……うん」
緒山は小さくうなずいた。
その短い言葉の中に、何かを掴んだようだった。
少し迷ったあと、彼女はそっと手を伸ばし、石原の手首を軽く引いた。
「じゃあ……明日、もう少し会長のこと見てみましょう。何か手伝えることがあったら……一緒に」
「分かった」
石原はその視線を受け止め、静かに応じた。
不思議と、胸の奥が少し落ち着いた気がした。
「……じゃあ、先輩。また明日。今日は……ありがとうございました」
「おやすみ、緒山さん」
彼女が家へ入っていく背中を見送りながら、石原は街灯の下でしばらく立ち尽くしていた。




