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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第十三章 心の糸――ぎりぎりと、音を立てる
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第六十三話

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【八月十日・土曜日・夜】


夕暮れのやわらかな光が、商店街東口のアーチを淡く染めている。

夏祭り前の浮き立つような空気は、もうこのあたりにじわじわと広がっていた。


連なる紙提灯が、かすかな風に揺れている。まだ灯りは入っていなかったが、夜になればあたたかな橙色の光が広がる光景が、自然と目に浮かんだ。

空気には、焼き団子の香ばしさやりんご飴の甘ったるい匂い、それにかき氷機が回るたびに立つ、ひやりとした氷の気配が混じっている。


石原は待ち合わせの街灯の下に立ち、人の流れの中から軽やかに抜け出してくる緒山の姿を見つけた。


彼女は浴衣風のワンピースを着ていた。

淡いピンクの地に、細かな白い桔梗柄が散っている。帯は簡単な蝶結びで、長い髪は飾り気のないかんざしでまとめられ、白いうなじがのぞいていた。


手には、あの“秘密行動”の予定がびっしり書き込まれたノートを持っている。

顔には、仕事を終えたあとの明るい解放感が、そのまま浮かんでいた。


「先輩! お待たせしました。待ちました?」


小走りで近づいてくる。裾が夕暮れの中でやわらかく揺れた。


「今来たところだ」


石原は首を振った。


本当は、十分ほど前には着いていた。

午後、最後の確認メールを業者に送ってから、会議から張り詰めていた神経がようやく緩んだ。その感覚が、まだ体の奥に残っている。

目の前の彼女も、昨日の会議のときよりずっと軽やかに見えた。頭上には明るい【期待】のタグが浮かんでいる。


「はい、これ!」


緒山はノートを開き、嬉しそうに一ページを見せてきた。


そこには、手描きの簡易な商店街マップが貼られていた。

カラーペンで十か所に丸がつけられ、横には店名とおすすめの甘味が丁寧に書き込まれている。

ページの上には、色ペンで描かれた可愛いアイスのイラストと――


『第一弾・商店街 夏の甘味ベスト10制覇作戦!』


というタイトルがついていた。


「作戦、か」


石原はその大げさな見出しに目をやった。


「ふふん!」


緒山はノートを閉じ、目を三日月のように細める。


「お仕事モードは終了です。ここからは“秘密行動モード”!

第一目標は、あっちの角にある『金時屋』。今年の限定、“ミントチョコかき氷”らしいですよ!」


二人は、次第に賑わいを増していく人の流れに紛れていった。

通りの両側では仮設の屋台がすでに営業を始め、呼び込みの声や笑い声、鉄板の上で食べ物が焼ける音が重なって、夏の夜特有の賑わいをつくっている。

提灯の灯りが、人々の顔をやわらかな暖色に染めていた。


「金時屋」は昔ながらの甘味処で、店の前には長すぎもしない、ほどほどの列ができていた。

順番を待つ間も、緒山は楽しそうにノートの印を指さしていく。


「二軒目は『笑福堂』の水信玄餅、三軒目は『万年堂』の高麗餅……あ、でも全部食べ切らなくても大丈夫ですよ? 一つを分け合って、味見するくらいでいいですし」


目がきらきらと輝いている。ちょっとした冒険を計画しているみたいだった。


やがて順番が回ってきた。

緒山は看板のミントチョコかき氷を注文する。


きらきらした削り氷が小さな山みたいに盛られ、鮮やかな緑のミントシロップがたっぷりとかかっていた。そこに濃い茶色のチョコチップが散らされ、てっぺんには真っ赤なさくらんぼが一つ乗っている。

見ているだけで、思わず一口食べたくなった。


彼女はそれを受け取り、店の外に置かれた簡易ベンチへと運んだ。


「はい、先輩どうぞ!」


付属の小さなスプーンで、いちばん上のチョコが混ざったところをすくい、そのまま石原の口元へ差し出した。

その動きは、息をするみたいにあまりにも自然だす。


石原は一瞬、動きを止める。

反射的にスプーンを受け取ろうと手を上げかけたが、その途中で彼女の目と合った。


その視線はまっすぐで、迷いも遠慮もない。

それどころか、少しだけいたずらっぽくきらめいていて――まるで「だめですよ、先輩。このまま食べてくださいね」とでも言いたげだった。


上げかけた手が、そのまま宙で止まる。


周囲の喧騒が、ふっと遠のいた気がした。

提灯のあたたかな光だけが、二人の間のわずかな距離を包む。


結局、負けを認めたみたいに小さく息をつくと、彼はスプーンを受け取るのを諦め、わずかに身を乗り出した。

少しぎこちないまま、口元まで運ばれたそのひとさじを口に含む。


ミントの清涼感が一気に広がり、そのあとにチョコのほろ苦さと氷の細やかな食感が続いた。

甘さも、ちょうどよく抑えられている。


けれど、その味よりも強く意識を奪ったのは、すぐ目の前にあった彼女の指先と、してやったりとでも言いたげに少しだけ深くなった笑みのほうだった。


「どうですか?」


緒山は尋ねながら、自分でも一口食べ、満足そうに目を細めた。


「……うん。ミントがすごく爽やかで、チョコと合わせても意外とくどくないです」


「……うん、悪くない」


石原はうなずいた。

ひんやりした感覚が、夏の夜の蒸し暑さを和らげる。だが、その冷たさでは、頬に残る熱までは消しきれなかった。


「でしょ!」


緒山は楽しそうに足を軽く揺らした。

もう一口すくったが、すぐには口に運ばず、ゆっくりと溶けていく氷を見つめる。


「こういう味って……ちゃんと覚えておきたいんです。

夏限定で、先輩と一緒に食べた、最初の甘味ですから」


まるで何気ないひと言みたいだった。

けれど、その言葉に石原の胸はふっと揺れる。


彼は何も言わず、ただ小さくうなずいた。


気まずさがほんの一瞬よぎったあと、場の空気はまたすぐに軽やかで心地よいものへと戻っていった。


二人はかき氷を分け合って食べ終えた。

緒山はノートの「金時屋」の横に、きちんと小さなチェックを入れた。さらに余白に短い感想を書き添える。


『ミント強め! チョコのかけらがいい感じ!』


その横には、小さな笑顔のマークまで描かれていた。


次に向かったのは「笑福堂」の水信玄餅だった。

水晶みたいに透き通ったゼリー状の菓子が、竹の葉を編んだ小皿に盛られていた。黒蜜をかけ、別添えのきな粉を添えて食べるらしい。

口当たりはひんやりとなめらかで、甘いのにくどさがなかった。


今回は緒山もさすがに“食べさせる”ようなことはせず、小皿をそのまま石原の前へと押しやって、笑って言った。


「これは自分で混ぜて食べるのが楽しいんですよ」


石原は内心ほっとした。

けれどその一方で、胸のどこかに、わずかな物足りなさが引っかかる。


緒山は食べることにひどく集中していた。

一口一口を確かめるように味わっている。


食べ終えると、またノートを開いて書き込んだ。


『ひんやりした夏の夜空をひとかけら、そのまま食べたみたい。黒蜜が決め手』


石原はその様子を黙って見ていたが、ふと気になった。

あのノートは、彼女にとって単なる計画用のノートではないのかもしれない。

ただ機械みたいに印をつけているんじゃなかった。ひとつひとつの時間を、ちゃんと集めて、残そうとしているように見えた。


一軒、また一軒と回るうちに、緒山と過ごす時間は思っていたよりずっと早く過ぎていった。


「次で最後ですよー!」


緒山はノートを閉じ、軽やかな声で少し先を指さした。暖簾のかかった「小倉屋」だ。


「目標は看板のきな粉団子! これを食べたら、今日の“甘味作戦”は無事達成です!」


最後の一軒は「小倉屋」の団子だった。

列は少し長く、二人は最後尾に並ぶ。


周囲は人の声であふれ返り、遠くからは祭りの音楽が流れてきていた。

緒山はすっかり気が緩んだ様子で、ときどき屋台の飾りや通りすがりの浴衣を指さしては、石原に小声で話しかけてくる。


やがて、団子を受け取る直前――


石原の視線は、緒山の肩越しに、斜め向かいにある装飾資材の問屋の店先へ向かった。


そこに、見覚えのある姿があった。


春野だ。


少し皺の寄った薄いグレーのTシャツに、濃い色の長ズボンを穿いていた。

髪はいつものようにきっちり整えられておらず、汗ばんだ額には数本の髪が張り付いている。


店主に向かって、どこか切迫した様子で話していた。

片手にノートを持ち、もう一方の手で身振りを交えている。

店先には色とりどりの旗や提灯、木材が束になって積まれ、雑然としていた。


石原の胸がわずかに沈んだ。


春野の頭上に浮かんでいた感情タグは、強く目を引く。

【焦り】【苛立ち】【疲労】――そのタグは、今にも彼自身を飲み込んでしまいそうなくらい濃かった。


眉は深く寄せられ、話す速度も速かい。ときおり腕時計に視線を落としていた。


そのとき、不意に春野が顔を上げた。


その視線が人混みを抜け、まっすぐ石原を捉える。


そしてそのまま、石原の隣にいた緒山へと移った。

彼女はつま先立ちになって、ショーケースの団子を覗き込もうとしていた。


ほんの一瞬、春野の表情が固まる。


次の瞬間、彼は手にしていたノートを閉じ、目を閉じて深く息を吐いた。

そのまま足早に人混みをかき分け、まっすぐこちらへ向かってくる。


周囲の喧騒が、ほんの少しだけ勝手に音量を下げたみたいだった。

石原の視界では、春野の【苛立ち】の数値が一気に【85】まで跳ね上がっている。


「石原、緒山」


春野は二人の前で足を止める。


声は普段より低く、落ち着いていた。口元にはかろうじて笑みの形も残っている。

だがその作られた平静さが、逆にその奥にある冷たさを際立たせていた。

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