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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第十三章 心の糸――ぎりぎりと、音を立てる
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第六十二話

---


【八月九日・金曜日・午後】


二時十分。ファミリーレストラン『フォレストテラス』二階の個室。


冷房は音もなく回り、窓の外の蝉の声と八月の焼けつくような空気を遮っていた。けれどそのぶん、個室の空気はどこか重たくよどんでいるようにも感じられる。


長テーブルの縁には、運ばれてきたばかりのアイスレモンティーの跡らしく、細かな水滴がびっしりと浮いていた。


石原は窓際の席に座り、無意識にグラスの側面を指先でなぞる。


窓の外では、通りが熱気の向こうでゆらゆらと歪んで見え、行き交う人影もまばらだ。

石原は十分前に着いていて、ほかの面々が順にやって来るのを眺めていた。


花野が席に着くなり、立花が飛び込んできた。


「暑い暑い! もう死にそうですよ!」


そう言いながら、バッグから冷えたレモンキャンディの小袋をいくつか取り出し、 テーブルに置いた。


「ほらほら、糖分補給! 夏祭り決戦前のエネルギー補給です!」


石原と花野はそれを受け取り、小さな声で礼を言った。


立花の今日の格好は、普段よりずっとシンプルだった。淡い色の半袖Tシャツにデニムのショートパンツというラフな装いで、すっきりとしていながら活発な印象だ。


彼女の頭上には、明るい【興奮】と【期待】のタグが浮かんでいた。


「ありがとう」


向かいから、花野の静かな声がした。

彼女目の前にはタブレットを立てていた。画面には、複雑な表が映っているようだ。

今日はアイボリー寄りの半袖シャツを着ていて、ボタンは一番上まできっちり留めていた。表情はいつも通り淡々としている。


【花野真汐の感情:平静100】


個室の扉が再び開いた。


春野が入ってくる。


きちんとアイロンのかかった薄いグレーのシャツを着て、袖は肘までまくっていた。手には分厚いファイルと、印刷した資料の束を持っている。

足取りはいつも通りしっかりしていて、顔には見慣れた穏やかな笑みが浮かんでいた。軽く全員に会釈する。


「みんな揃ってるか? 悪い、資料の印刷に少し時間がかかった」


だが、石原の視線は春野の頭上で止まった。


【春野陽明の感情:焦り24、疲労46、重圧30】


その感情タグは薄い靄のように、春野の頭上を覆って見える。


「会長、こっちです」


立花が隣の空いた席を軽く叩いた。


春野は長テーブルの上座に腰を下ろし、ファイルを開く。

それから手首を持ち上げ、一度だけ腕時計に目をやった。

会議の開始予定は二時。今は二時十二分だった。


「じゃあ、さっそく始めよう」


春野が口を開いた。声は落ち着いていたが、いつもよりわずかに話すテンポが速かった。


「夏休みに入って最初の正式な会議だ。議題は、二週間後に控えた夏祭りについて。学校側は今年も複数のテーマブースの運営を担当し、さらに生徒ボランティア二十名を出して、祭り実行委員会の案内や後方業務を補助することになっている」


そう言いながら、印刷した資料を一人ひとりに配っていった。

紙にはまだ、プリンターを通したばかりのかすかな温もりが残っている。


石原も自分の分を受け取った。

A4用紙が五枚、きっちり綴じられている。


一枚目は全体スケジュール表だった。

今日から祭り終了までの毎日が細かく区切られ、具体的な作業内容、担当者、締切、必要な物資、確認基準までびっしり書き込まれていた。隙間がほとんどないほど、びっしりと。


「時間はかなり厳しい」


春野はペン先で、スケジュール表の最上部にある太字の見出しを軽く叩いた。


「祭りが始まるまで、まともに使える丸一日の作業日は二週間も残っていない。

物資リスト、予算確認、ボランティア募集、内容企画――そうした基礎作業は、来週火曜、つまり八月十三日までに初版を仕上げる必要がある。来週木曜からは細部の調整と、ボランティア研修に入る」


彼の視線が一人ひとりを順に追い、石原の顔でほんの半秒だけ止まって、また離れていった。


「質問があれば今のうちに聞いてくれて構わない。

ただ、できれば先に手元の分担表にざっと目を通して、自分の担当範囲と進行日程を確認してほしい」


個室には、紙をめくる乾いた音だけが静かに広がる。


石原は二枚目をめくり、自分と緒山の担当欄を見つけた。


購買・連絡担当。


必要な物品の一覧は二ページにわたっていて、屋台用の木材の骨組みや装飾用のカラーフラッグ、照明器具から、使い捨て食器、救急用品、ちょっとした記念品まで――一つひとつに規格、予定数、予算の上限、さらに候補に挙がっている三社分の連絡先まで書き込まれていた。


「これ……細かすぎないですか?」


立花は自分の担当ページを開き、口元を押さえながら小さく声を上げた。

「予備案Aに予備案Bまで書いてあるし……」


「細かくしてあるのは、あとで手戻りが出ないようにするためだ」


春野が続けた。顔は上げないまま、別の資料にペンを走らせて何かを書き込んでいる。


「こっちには試行錯誤してる時間がない。最初の判断の段階で、できるだけ正確に決めておく必要がある」


口調はあくまで淡々としている。

だが石原には、彼の頭上に浮かぶ【焦り】の数値がわずかに跳ね、67まで上がったのが見えた。


そのとき、個室の扉がそっと開いた。


緒山が顔を覗かせ、申し訳なさそうに笑った。


「すみませんすみません、ちょっと遅れました! 途中で近所のおばさんに会っちゃって、つかまってずっと話し込まれちゃって……」


今日は淡いブルーの半袖シャツに、白いプリーツスカートを合わせていた。

うっすら汗ばんだ額には、短い髪の毛が数本張りついている。

彼女は素早く室内を見回し、視線を石原の顔で一瞬だけ止めると、口元にほんのかすかな笑みを浮かべ、そのまま春野の左隣の空席に腰を下ろした。


「ちょうどいい」


春野は資料をひとまとめ、彼女の前に滑らせた。


「これは石原と緒山が担当する購買関係の資料だ。緒山、今日は仮払申請書を書き上げて、明日の午前中までに判をもらってきてくれ。石原は物品の規格確認を手伝って、漏れや間違いがないか見てほしい」


「分かりました」


緒山は資料を受け取り、そのまま開いて目を通した。


「よし、続けよう」


春野のペン先が、立花の担当欄を軽く叩く。


「展示ブースの内容だが、現時点での案は『泉方新高・歴史クイズ』と『限定記念バッジ収集』の組み合わせだ。

目を引けるし、運営もしやすい。トラブルにも強い。

立花は花野と組んで、日曜までに初稿をまとめてくれ」


「分かりました」


花野は静かな声で応じ、その時にはもう指先がタブレットの上を動き始めていた。


「えっ――?」


だが立花は手を上げ、目をきらきらさせる。


「会長! ブース内容なんですけど、新しい案があります! 『泉方新高の歴史ミニ劇場』とかどうですか? 簡単な人形と背景パネルを使って、学校ができたころの話を再現するんです!

たとえば初代校長がどうやって場所を決めたのかとか、初代生徒会長がどうやって選ばれたのかとか……。

もっとにぎやかにするなら、学校の伝説っぽい話を入れてもいいですし!」


話せば話すほど、彼女の声は弾んでいき、身も乗り出していた。


「脚本は私が書けます! 人形とか背景パネルも、みんなで作れますし! ただのクイズより絶対目を引くし、写真映えもしますし、それに……」


「却下だ」


春野はほとんど間を置かずに口を挟んだ。顔も上げず、ペン先で「展示内容」の欄に丸をつけた。


「予算が足りないし、人手も足りない。ああいう形の劇をやるなら、最低でも三人は固定で回せる人員が必要になるし、脚本も道具も稽古もいる。

ボランティア研修の時間もかなり削られるし、上演ミスや機材トラブルのリスクもある。

失敗したときの立て直しが利きにくい。今の段階で優先すべきなのは、『効率よく、確実に回せること』だ」


その迷いのない断定に、立花は口を開いたまま固まる。続きの言葉は喉の奥で止まってしまった。


石原には、立花の頭上にあった明るい【興奮】と【期待】が、穴を開けられた風船みたいにみるみるしぼんでいくのが見えた。


立花は髪をかき、小さくつぶやく。


「……そっか。たしかに、ちょっと複雑すぎるかも」


「元の案で進める」


春野は紙の上に「歴史クイズ+記念バッジ配布」と書き込み、ペン先に力を込めた。


「重視するのは参加感と記念性であって、演出の精度じゃない。花野、問題の難易度は段階分けして、面白さと知識の両立を意識してくれ。立花は素材の提供を頼む」


「は、はい」


立花はうなずき、ペンを取って自分の資料に書き込み始めた。


会議はそのまま続く。

議論のほとんどは、春野が主導していた。


花野が、ある備品の調達には予算より五パーセントほど多めの予備費が必要かもしれないと指摘したときも、春野はすぐスマホの電卓を開き、数回素早く打ち込んでから言った。


「体験用の景品の予算から回す。予定していた三百個を二百八十個に減らして、単価の上限を十円上げる。総予算はそのままにする」


緒山が、ボランティア募集はまずクラスのグループチャットで希望調査を回してもいいのではないかと尋ねたときも、春野は首を横に振った。


「まとめて集めると情報が混ざりやすいし、重複応募も出やすい。去年の祭りのボランティアデータと、今学期の各部活の活動日程はもう手元にある。俺が直接初版を組んだほうが早い。特別な時間の都合がある人だけ、今日の解散前に個別で言ってくれ」


スマホは手元に置かれていて、何度か新着メッセージで画面が光る。

そのたびに春野は、ほんの一瞬だけそちらに目をやった。


「最後に、ボランティアのシフトについてだ」


春野はExcelの表を呼び出し、個室の壁に投影した。


「二十人を午前、午後、夜間の三班に分ける。各班最低六人。案内、販売対応、緊急支援の役割をそれぞれ含める必要がある。

シフトを組む際は、各自の夏休み中の予定と通学時間も考慮し、できるだけ偏りが出ないよう調整する。この部分は……」


そこで彼は少し言葉を切り、指先でこめかみを押さえた。


「この部分は俺が初版を作る。遅くとも明日の夜までにはグループに共有して確認を取る。時間の都合に特別な事情がある人は、今のうちに言ってくれ」


「会長……」


緒山が小さな声で口を開いた。その指先は、無意識に資料の端をなぞっていた。


「シフト作成って、かなり作業量ありますよね? 少し分担しませんか?

たとえば先に、クラスごととか部活ごとに空いてる時間帯を集めておいて、それを会長がまとめる形にしたらどうかなって……」


「必要ない」


春野は首を振る。

口調は相変わらず落ち着いていたが、その奥には口を挟ませない強さがにじんでいた。


「まとめて集めると、書き方も揃わないし、情報漏れも出る。去年のデータを基準にしたほうが調整は早い。俺のやり方で進める」


緒山はぱちぱちと瞬きをし、それ以上は食い下がらなかった。


【緒山朋奈の感情:心配15@#&/】


「ほかに質問はあるか?」


春野は室内をひと通り見回した。


短い沈黙が落ちる。


「それじゃあ、今日はここまでにする」


春野はノートを閉じた。その動きはきっぱりしていた。


「各自の担当はもう分かっているはずだ。進展でも問題でもあれば、その都度グループで共有してくれ。解散」


最後の二文字だけ、やけに速かった。これ以上一秒でも長引かせるのは無駄だとでも言いたげに。


面々は順に立ち上がる。

立花は花野のそばに寄り、問題に学校の裏山の「七不思議」を入れるかどうか、小声で話していた。

花野はそれを聞きながら、タブレットに淡々と記録していく。表情は相変わらず静かだった。


緒山は購買リストの資料をまとめ直し、個別に記入が必要な申請書だけを抜き出していく。

石原は自分のバッグを整えながら、ふと、まだ元の席に座っている春野へもう一度視線を向けた。


春野はもう一度ノートを開き、スマホに目を落として素早く文字を打ち込んでいた。眉はわずかに寄っていた。

プロジェクターはすでに切られていて、個室の天井灯の光が彼の体に落ちていた。足元には、輪郭のはっきりした長い影が伸びている。

頭上の【疲労】は、いつの間にか【70】まで上がっていた。


石原はバッグを手に取り、個室のドアへ向かう。

ドアをそっと閉めると、その光景は背後へ閉ざされた。


廊下に出ると、冷房の低い唸りがさっきよりはっきり聞こえる。

石原はひとつ息を吸い、胸のあたりが少し重たくなるのを感じた。


「先輩」


すぐ横から、緒山の声がした。

彼女はもう荷物をまとめ終えていて、分厚いファイルを抱えたまま隣に立っている。顔には心配がはっきり浮かんでいたが、それでも口元には笑みを残していた。


「購買リスト……思ってたより、ちょっと複雑ですね」


軽くぼやくような口調だった。


「早めに確認を始めたほうがよさそうです。先輩、明日の午前って空いてます? 図書館でやりませんか?」


「空いてる」


石原は短くうなずいた。


「じゃあ、決まりですね」


緒山は小さく笑った。だがその笑みはすぐに薄れる。

振り返って、閉まったままの個室のドアを一度だけ見ると、少し声を落とした。


「会長……今日は、なんだかすごく急いでる感じでしたよね?」


石原は一拍置いた。


「……ああ」


それだけを返す。


上がり続けていた【重圧】と【焦り】、それに消えない【疲労】が、重たい塊みたいに意識の奥に残っていた。


二人は並んで階段を下り、店の外へ出た。

午後三時の陽射しはまだ強く、路面の上にはぼんやりとした熱気が揺れている。

蝉の声が一気に耳へ流れ込み、冷房の効いた室内とは比べものにならないほど騒がしかった。


緒山は数歩進んだあと、何かを思い出したように振り返った。

さっきより、少しだけ笑みを引かせた表情だった。


「そうだ、先輩……昨夜話してた“秘密行動”のことなんですけど」


リュックのストラップに指を絡めた。


「今日こんなに仕事があるのを見たら、明日は購買リストと申請書で手いっぱいになりそうですよね。だから……」


少し言葉を切った。


「今夜はそれぞれちゃんと休んで、明日に備えましょう。

明日、全部終わらせて問題ないって確認できたら、夜に商店街へ行くっていうのはどうですか?」


石原をまっすぐ見つめた。澄んだ目だった。


「せっかくの初めての“秘密行動”ですし、やり残しがある状態で行くのは嫌なんです。先輩はどう思います?」


「いい。明日は先に仕事を終わらせる」


石原はうなずいた。


「はいっ、じゃあ決まりです!」


緒山は安心したように、ぱっと表情を明るくした。


「明日、頑張って一気に終わらせましょう! そしたら……夜は、ご褒美タイムです!」


熱風が頬をなでた。

遠くの商店街から、かすかに音楽が流れてきた――夏祭りに向けた宣伝放送だ。

祭りの空気は、この街のあちこちで、ゆっくりと熱を帯び始めていた。

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