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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第十二章 涙の理由――それでも、明日を願う
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第六十一話

---


【八月八日・木曜日・午前】


目を覚ますと、窓の外はすでに明るかった。

すぐに思い出した。昨夜、自分の中で決めたことを。それから、あの短い「おやすみ」のメッセージも。


胸の奥には、まだ重さが残っている。けれど、昨日みたいに散らばってはいなかった。

向かう先だけは、はっきりしている。


スマホを手に取った。トーク画面を開いた。

入力欄。カーソルが点滅していた。


……どう送ればいい。


「今日、少し話せるか?」


それでいいのか。急すぎるかもしれない。向こうに、余計な負担をかけるだけかもしれない。


指が止まった。


そのとき。スマホが震えた。

通知だった。――緒山。


『先輩、おはようございます!』

『あの……昨日は本当にすみませんでした!』

『その、お詫びも兼ねて……今日の午後、時間ありますか? 改めて、ちゃんとお家に来てほしくて!』

『あと、先輩に見せたいものがあって……その、夏休みのちょっとした計画、みたいな?』


そんなメッセージが続けて届いた。いつもの調子。軽いテンポ。

昨夜、あんなふうに泣いていたのが、まるで幻だったみたいに。


――考える間もなかった。


『分かった。午後の何時?』


すぐに返した。


『二時くらいでも大丈夫ですか? ちょうどパパとママ出かけるので! ゆっくり話せますし~(もちろん泣くほうじゃないやつです!)』


『了解』


それで決まった。スマホを置く。

胸の重さは、消えていなかった。むしろ、少し形を変えていた。


期待。それから、緊張。


……「夏休みの計画」。

何を見せるつもりなんだろうか。


---


午後一時五十分。緒山の家の前。

インターホンを押す。すぐに、ドアが開いた。


「先輩、時間ぴったりですね! どうぞどうぞ!」


緒山が顔を出す。明るい声だった。

体を横にずらして、石原を招き入れる。


「今日は『秘密作戦会議』ですからね!」


その軽さが、夏の風鈴みたいに耳に残った。


リビングには、やはり誰もいなかった。


「パパとママ、久しぶりに二人でお出かけなんです」


緒山はウインクして、石原を自分の部屋へと案内した。

ドアは開いていた。午後の光が、そのまま差し込んでいた。

光の中で、ひとつひとつがやけに鮮明に、やけににぎやかに見えた。


「好きなとこ座ってください!」


彼女は机の椅子を示しすと自分はベッドの端に腰を下ろす。

枕元からノートを一冊取り上げた。星空の表紙だった。

それを、壊れやすい宝物を抱くみたいに胸に抱えた。


「先輩、昨日言ってましたよね……私のために何かできることがあれば、って」


顔を上げた。笑っている。けれど、目の奥に少しだけ慎重さが混じっていた。


「……ああ」


石原はうなずきながら椅子に腰を下ろした。


「実は……ちょうど、頼れる『共犯者』が必要だったんです!」


ぱっと声の調子を上げた。ノートを膝の上で開いた。

カラフルな付箋の挟まったページだ。


「見てください! 『夏休み特別体験プラン』! 超――挑戦的だと思いません?」


ノートをこちらに向けた。

指でページを押さえていたから、上下のほうは見えな。

目に入ったのは、いくつかの項目だけ。


・信頼できる相棒と商店街の「夏スイーツ十選」制覇!

・海に行って、暗闇の向こうから生まれる朝日を見る!

・誰もいない舞台で、大声で叫ぶ


カラーペンの文字。小さな落書き。

弾んだ字だ。生活を楽しもうとしている誰かの願いみたいに見えた。


「一人だとちょっとつまらないこともあるし……その、少しだけ勇気がいることもあるから」


ぱたん、とノートを閉じた。

手を合わせた。少しだけ照れたような仕草だった。

でも、目は期待で光っていた。


「だから……先輩。よかったら、一緒にやりませんか? もちろん、先輩が空いてるときだけでいいので」


一息置いた。


「夏休みに、ちょっとだけ特別な味つけをする感じで。……それに」


少し声を落とした。


「これ、二人だけの『秘密行動』なんです。会長たちには内緒で。知られたら絶対笑われますし」


冗談みたいな言い方だった。少し子どもっぽいくらいの、軽い誘い方だ。

光が差していた。そのまま、彼女の輪郭を縁取っている。

石原はノートから視線を外した。彼女の顔を見る。明るい笑顔だった。


(……こんなことで、あいつの力になれるのか)


胸の中に、小さな引っかかりが残った。


それでも。


「……分かった」


短く答えた。


「緒山さんの都合がいいときに、呼んでくれ」


――ぱっと。

緒山の表情が変わった。目が、明るくなる。


「ほんとですか!」


勢いよくうなずくと、ノートを開き直した。

少し前のページへ。指で示す。


「じゃあ最初の『秘密行動』はここです! 明日の夜、商店街でちょっとした夏祭りのプレイベントがあるんです。老舗のお店も限定スイーツ出すみたいで!」


指がすっと動いてページが一瞬めくれた。


……別の文字が見える。少し幼い字だった。

「観覧車」と「雪」。


すぐに隠れた。


「さっと回って、さっと帰る感じで!」


「……ああ」


短く返した――ずいぶん手早い。

それも、何か理由があるように思えた。


「じゃあ決まりです!」


ぱたん、とノートを閉じると丁寧に枕元へ戻した。


「そうだ、先輩」


ふと思い出したように振り向いた。少しだけ言いにくそうな顔だ。


「その……もし、ですよ? ほんとにもしですけど」


視線が泳いだ。指が髪をいじった。


「秘密行動の途中で、春野会長とか美里ちゃんに見つかったら……一緒にごまかしてくださいね?」


頬が少し赤かった。


「……分かった」


石原は答えた――どうせすぐバレる。そう思いながらも。

緒山はほっとしたように笑った。


「じゃあ、明日六時! 商店街の東口で!」


「ああ」


「絶対ですよ! あ、私もママに言い訳考えないと……」


ぶつぶつ言いながら、考え始める。表情は、明るく、楽しそうだった。

石原はそれを見る。その横顔を。


まつげに光がかかっていた。昨夜の涙も、不安も、今は見えなかった。

……それでも。消えたわけじゃない。ただ、今は触れない。


その笑顔を、崩したくなかった。


---


【八月九日・金曜日・朝】


石原はスマホを開いた。

通知が一件あった。昨夜遅くに届いていたものだった。


『本日午後二時、夏祭り準備会議。「フォレストテラス」二階個室。全員参加。』


眉が寄った。

送信時刻は二時三十五分。

少し遅い。


だが、特に深くは考えず、そのまま画面を閉じた。

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