第六十話
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数分後。
緒山の嗚咽は、少しずつ弱まっていった。
やがて、深く息を吸う音だけが、ときおり小さく響く。
石原の腰に回っていた腕が、ゆっくりとほどけた。
そのまま一歩だけ、後ろへ下がる。
――それでも、顔は上げなかった。
うつむいたまま、手の甲で乱雑に頬を拭った。
「……ごめんなさい、先輩」
声はかすれていた。
鼻声混じりのまま、それでもどうにか普段の調子に戻そうとしていた。
「私……なんか……急に……」
「……気にしなくていい」
石原の声も、低くくぐもっていた。
石原の腕は、まださっきのぎこちない形のままだ。
それを、少し遅れてゆっくり下ろした。
――静かになった。
部屋に残っていたのは、重たい沈黙と、泣いたあとの気だるい疲れだけだった。
机の上には、さっきの果物が手つかずのまま残っていた。
「……もう、帰るよ」
石原が言った。
ここに居続けるのは、かえって負担になる気がした。
「……うん」
緒山は小さくうなずいてようやく顔を上げた。
目元が赤い。
鼻先も少し赤かった。
頬には、涙の跡が残っている。
それでも、無理に笑おうとしていた。
「今日は……ありがとうございました。来てくれて……ご飯も、一緒に食べてくれて」
石原は首を振った。
何も言わないまま、背を向ける。
ドアを開けた。
開いたドアの向こうから、リビングの明かりが流れ込んでくる。
――リビングには、誰もいなかった。
たぶん、気を遣って席を外してくれたんだろう。
そのまま玄関へ向かい、靴を履いた。
ドアに手をかけたところで――
「石原くん」
背後から声がした。
振り向くと、母親がこちらへ歩いてきていた。
キッチンのほうから、少し早足で。
いつもの柔らかい笑顔だった。
「もう帰るのね。今日は本当にありがとう」
声は少し抑えられていた。
「いえ……お邪魔しました」
「そんなことないわ」
母親は軽く笑った。
それから、石原を少しだけ見つめる。
言葉を選ぶように。
「朋奈……さっき、何か変なこと言ってなかった?」
一度、視線が揺れた。
「その……困らせるようなこと、とか」
できるだけ軽い調子で聞いているようだった。
けれど、どこか落ち着かなさが残っている。
「……いえ」
石原は首を振った。
「ただ……少し、まとまってない話をしていただけです」
あの途切れ途切れの言葉が、まだ頭に残っていた。
どれも断片ばかりで、まだ答えにはなっていない。
母親は、小さく息を吐いた。
一瞬だけ、肩の力が抜ける。
それが、そのままため息に変わった。
「……そう」
口元には、少しだけ苦い笑みが浮かんだ。
慣れているような顔だった。
「……そう。だったら、それでいいのかもしれないわね」
視線が、奥へ向いた。
娘の部屋のほうへ。
それから、もう一度石原を見た。
声が、少しだけやわらいだ。
「……あの子ね、ときどき考え込みすぎるの。まだ答えの出ないこととか、自分じゃどうにもできないようなこととかを」
そこで、少し間を置いた。
「もしこれから……あの子が、石原くんに何か話すことがあったら」
言葉が、ゆっくりになる。
「うまくまとまってなくてもいいの。聞いてあげてくれるかしら」
小さく、頼むような口調で。
「何かしてあげなくていいの。ただ……聞いてくれるだけでいいから」
石原は、少しだけ目を伏せる。
胸の中で、何かが動いた。
――うなずいた。
「……はい」
母親の声が、少し震えた。
「ありがとう」
母親は小さく言った。
「気をつけて帰ってね……あ、そういえば石原くん、上の階だったわね」
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石原は自宅のドアを開けた。
手には、もうすっかり冷えた食材の入った袋がある。
リビングでは、杏がソファにあぐらをかいてテレビを見ていた。
物音に気づくと、すぐに振り向いた。
「おかえりー……って、え!? こんな時間!?」
杏は目を丸くした。
「もう冷やし麺の予定、完全にダメじゃん! 玄関に置いたって言ってたのに、何もなかったし……あれ?」
文句を言いかけて、ふと口をつぐむ。
石原の顔を見た。
明らかに疲れていて、目元が、少し赤かった。
そこで言葉が止まった。
【石原杏の感情:怒り15、困惑50、心配35】
杏は眉を寄せ、ソファから降りて、近づいてくる。
石原の顔をのぞき込んだ。
「何かあった? “用事できた”って言ってたけど……なんか、ひと騒動終えて帰ってきたみたいな顔してるよ」
「……別に」
視線を外した。
そのままキッチンへ向かい、食材を冷蔵庫に入れる。
「緒山さんの家で、晩飯を食べただけだ。少し話してただけだし」
「えぇー!?」
声が裏返った。
「朋奈さんの家!? しかもご飯!? それってさすがに、進みすぎじゃ――」
そこで、また言葉を止めた。
石原の顔を見る。
想像していたような反応がなかった。
照れも、気まずさもない。
杏は一度まばたきをして、言葉を飲み込んだ。
「……まあいいや。謎イベントってことで」
軽く肩をすくめた。
「私はもう適当に食べちゃったけど、お兄ちゃんは? 何か軽く作ろっか?」
「いらない。ありがとう」
石原は眉間を押さえた。
「ちょっと疲れた。先に部屋に戻る」
「……そっか」
杏はそれ以上聞かなかった。
ただ、その背中を見送る。
「……ほんと、お兄ちゃんって何でも一人で抱え込むんだから」
小さくつぶやいた。
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ベッドに横になる。
見慣れた天井だった。
暗くて、輪郭もぼやけている。
眠気はこなかった。
耳の奥で、さっきの出来事が何度も繰り返される。
緒山の泣き声が。
途切れ途切れの言葉が。
それから、母親のあのため息が。
頭の中で、何度もぶつかっては戻ってきた。
落ち着かなかった。
抜け出せなかった。
――もう、嫌だった。
このままは嫌だ。
ただ受け取るだけで終わるのは、嫌だった。
後から「大丈夫」と言うことしかできないのも、嫌だった。
……違う。
緒山さんが何を怖がってるのか、知りたい。
あの恐怖に、飲まれたままでいてほしくない。
緒山さんが言わなくてもいい。
それでも、何かできることはあるはずだった。
そう思ったとき――
枕元のスマホが光る。
暗闇の中で、やけに明るかった。
反射的に手が伸びた。
画面を見る。
LINEの通知だった。
相手は――「朋奈」。
開いた。
短い文章だけだった。
「今日は本当にごめんなさい。それと、ありがとうございました。おやすみなさい、先輩。」
絵文字はなかった。
あの独特の「〜」もなかった。
そっけないくらい短いのに、妙に重く感じられた。
「ごめんなさい」と「ありがとう」と「おやすみ」。
それだけが、残った。
石原はしばらく画面を見ていた。
指が、止まる。
やがて、石原も一文だけ返した。
「おやすみ」
送信した。
スマホを枕元に置く。
光が消えた。
部屋が、また暗くなった。
けれど。
さっきまでのざわつきは、少しずつ沈んでいく。
最後に残ったのは、ひとつの考えだけだった。
――明日。
目を閉じた。
決めた。
明日、ちゃんと話そう。
問い詰めるんじゃない。
ただ――
自分にできることがあるか、聞いてみようと思った。
どんなことでもいい。




