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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第十二章 涙の理由――それでも、明日を願う
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第六十話

---


数分後。


緒山の嗚咽は、少しずつ弱まっていった。

やがて、深く息を吸う音だけが、ときおり小さく響く。


石原の腰に回っていた腕が、ゆっくりとほどけた。

そのまま一歩だけ、後ろへ下がる。


――それでも、顔は上げなかった。


うつむいたまま、手の甲で乱雑に頬を拭った。


「……ごめんなさい、先輩」


声はかすれていた。

鼻声混じりのまま、それでもどうにか普段の調子に戻そうとしていた。


「私……なんか……急に……」


「……気にしなくていい」


石原の声も、低くくぐもっていた。


石原の腕は、まださっきのぎこちない形のままだ。

それを、少し遅れてゆっくり下ろした。


――静かになった。


部屋に残っていたのは、重たい沈黙と、泣いたあとの気だるい疲れだけだった。

机の上には、さっきの果物が手つかずのまま残っていた。


「……もう、帰るよ」


石原が言った。


ここに居続けるのは、かえって負担になる気がした。


「……うん」


緒山は小さくうなずいてようやく顔を上げた。


目元が赤い。

鼻先も少し赤かった。

頬には、涙の跡が残っている。


それでも、無理に笑おうとしていた。


「今日は……ありがとうございました。来てくれて……ご飯も、一緒に食べてくれて」


石原は首を振った。

何も言わないまま、背を向ける。


ドアを開けた。

開いたドアの向こうから、リビングの明かりが流れ込んでくる。


――リビングには、誰もいなかった。


たぶん、気を遣って席を外してくれたんだろう。


そのまま玄関へ向かい、靴を履いた。


ドアに手をかけたところで――


「石原くん」


背後から声がした。


振り向くと、母親がこちらへ歩いてきていた。

キッチンのほうから、少し早足で。

いつもの柔らかい笑顔だった。


「もう帰るのね。今日は本当にありがとう」


声は少し抑えられていた。


「いえ……お邪魔しました」


「そんなことないわ」


母親は軽く笑った。

それから、石原を少しだけ見つめる。

言葉を選ぶように。


「朋奈……さっき、何か変なこと言ってなかった?」


一度、視線が揺れた。


「その……困らせるようなこと、とか」


できるだけ軽い調子で聞いているようだった。

けれど、どこか落ち着かなさが残っている。


「……いえ」


石原は首を振った。


「ただ……少し、まとまってない話をしていただけです」


あの途切れ途切れの言葉が、まだ頭に残っていた。

どれも断片ばかりで、まだ答えにはなっていない。


母親は、小さく息を吐いた。

一瞬だけ、肩の力が抜ける。

それが、そのままため息に変わった。


「……そう」


口元には、少しだけ苦い笑みが浮かんだ。

慣れているような顔だった。


「……そう。だったら、それでいいのかもしれないわね」


視線が、奥へ向いた。

娘の部屋のほうへ。


それから、もう一度石原を見た。

声が、少しだけやわらいだ。


「……あの子ね、ときどき考え込みすぎるの。まだ答えの出ないこととか、自分じゃどうにもできないようなこととかを」


そこで、少し間を置いた。


「もしこれから……あの子が、石原くんに何か話すことがあったら」


言葉が、ゆっくりになる。


「うまくまとまってなくてもいいの。聞いてあげてくれるかしら」


小さく、頼むような口調で。


「何かしてあげなくていいの。ただ……聞いてくれるだけでいいから」


石原は、少しだけ目を伏せる。

胸の中で、何かが動いた。


――うなずいた。


「……はい」


母親の声が、少し震えた。


「ありがとう」


母親は小さく言った。


「気をつけて帰ってね……あ、そういえば石原くん、上の階だったわね」


---


石原は自宅のドアを開けた。


手には、もうすっかり冷えた食材の入った袋がある。


リビングでは、杏がソファにあぐらをかいてテレビを見ていた。

物音に気づくと、すぐに振り向いた。


「おかえりー……って、え!? こんな時間!?」


杏は目を丸くした。


「もう冷やし麺の予定、完全にダメじゃん! 玄関に置いたって言ってたのに、何もなかったし……あれ?」


文句を言いかけて、ふと口をつぐむ。

石原の顔を見た。


明らかに疲れていて、目元が、少し赤かった。


そこで言葉が止まった。


【石原杏の感情:怒り15、困惑50、心配35】


杏は眉を寄せ、ソファから降りて、近づいてくる。


石原の顔をのぞき込んだ。


「何かあった? “用事できた”って言ってたけど……なんか、ひと騒動終えて帰ってきたみたいな顔してるよ」


「……別に」


視線を外した。


そのままキッチンへ向かい、食材を冷蔵庫に入れる。


「緒山さんの家で、晩飯を食べただけだ。少し話してただけだし」


「えぇー!?」


声が裏返った。


「朋奈さんの家!? しかもご飯!? それってさすがに、進みすぎじゃ――」


そこで、また言葉を止めた。

石原の顔を見る。


想像していたような反応がなかった。

照れも、気まずさもない。


杏は一度まばたきをして、言葉を飲み込んだ。


「……まあいいや。謎イベントってことで」


軽く肩をすくめた。


「私はもう適当に食べちゃったけど、お兄ちゃんは? 何か軽く作ろっか?」


「いらない。ありがとう」


石原は眉間を押さえた。


「ちょっと疲れた。先に部屋に戻る」


「……そっか」


杏はそれ以上聞かなかった。

ただ、その背中を見送る。


「……ほんと、お兄ちゃんって何でも一人で抱え込むんだから」


小さくつぶやいた。


---


ベッドに横になる。


見慣れた天井だった。

暗くて、輪郭もぼやけている。


眠気はこなかった。


耳の奥で、さっきの出来事が何度も繰り返される。


緒山の泣き声が。

途切れ途切れの言葉が。

それから、母親のあのため息が。


頭の中で、何度もぶつかっては戻ってきた。


落ち着かなかった。

抜け出せなかった。


――もう、嫌だった。


このままは嫌だ。


ただ受け取るだけで終わるのは、嫌だった。

後から「大丈夫」と言うことしかできないのも、嫌だった。


……違う。


緒山さんが何を怖がってるのか、知りたい。

あの恐怖に、飲まれたままでいてほしくない。


緒山さんが言わなくてもいい。

それでも、何かできることはあるはずだった。


そう思ったとき――


枕元のスマホが光る。

暗闇の中で、やけに明るかった。


反射的に手が伸びた。

画面を見る。


LINEの通知だった。

相手は――「朋奈」。


開いた。


短い文章だけだった。


「今日は本当にごめんなさい。それと、ありがとうございました。おやすみなさい、先輩。」


絵文字はなかった。

あの独特の「〜」もなかった。


そっけないくらい短いのに、妙に重く感じられた。


「ごめんなさい」と「ありがとう」と「おやすみ」。

それだけが、残った。


石原はしばらく画面を見ていた。

指が、止まる。


やがて、石原も一文だけ返した。


「おやすみ」


送信した。


スマホを枕元に置く。

光が消えた。


部屋が、また暗くなった。


けれど。


さっきまでのざわつきは、少しずつ沈んでいく。


最後に残ったのは、ひとつの考えだけだった。


――明日。


目を閉じた。

決めた。


明日、ちゃんと話そう。

問い詰めるんじゃない。


ただ――


自分にできることがあるか、聞いてみようと思った。

どんなことでもいい。

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