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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第十二章 涙の理由――それでも、明日を願う
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第五十九話

---


石原は、息を深く吸い込んだ。


さっきの一件で、気持ちは軽くなるどころか、逆だった。

胸の中をぐるぐる回っていた不安も、焦りも、眠れないほどのざわつきも、かえって輪郭を持ってしまった。


もう、考えるのはやめたかった。

笑いながら、あんなふうに泣く姿を――黙って見ているのも、限界だった。


「緒山さん」


石原は口を開く。

声はいつもより低く、しかし今まで見せたことのないほど真剣で、感情の高ぶりで微かに震えさえしていた。


「……ずっと、聞きたかった」


目を逸らさなかった。


「葵さんが退院した日……なんで、泣いてたんだ」


緒山の顔から笑みが消える。


少しだけ目を見開いた。

予想していなかった、そんな顔。


石原を見る。


彼女にとってこんな石原を見るのは初めてだった。


あの受け身で、内向的で、よく戸惑っている先輩ではなく、燃えるような目で、力強く、答えをもらうまで絶対に引かないという姿勢。


「見てた」


石原は続けた。


言葉が、止まらなかった。


「笑ってたよな。みんなと一緒に。なのに、涙だけ流れてて……」


息が詰まった。


「あのとき、手首……すごく強く掴んできて……冷たくて……電車の中でも、ずっと震えてた」


一歩、前に出ていた。

無意識だった。


「……心配なんだ」


声が少しだけ強くなった。


「何があったのか、分からないまま……何もできなくて……聞こうとしても、緒山さんを悲しませるかと思って言えなくて……」


喉が引っかかった。


「でも……でも、緒山さんがずっとこうして一人で抱え込んでいるほうがもっと怖い! あんな様子を見ていながら、何も知らず、何の力にもなれなくて……俺は……」


言葉が途切れる。


これはほとんど不器用な告白のようなものだった。

青くて、熱い気遣いが、丸裸のまま彼女の前に広げられている。


緒山は静かに聞いていた。まばたきもせず、彼を見つめる。

彼女はふいに、そっと笑った。


「……先輩」


いつもの調子に近い声。

でも、少しだけ揺れていた。


「急にそんな胸がきゅんとすること言われたら……本気にしちゃいますよ?」


からかうような言い方。


普段なら石原はとっくに顔を真っ赤にして視線を逸らすか、ぎこちなく言い返していた。


しかし今、彼はただ真剣に彼女を見つめ、本当の答えを待っている。


緒山はそのまま見返した。


笑みが、少しずつ消えていく。


静かな顔になった。


そして、小さく首を振る。


「……ごめんなさい」


声はやわらかかった。

けれど、有無を言わせない口調だった。。


「言えないんです」


――石原の胸が、わずかに詰まった。


「……なんで」


言いかけたそのとき。


彼女の目が、一瞬だけ光った。


口元が、わずかに引き結ばれる。


――次の瞬間。


緒山が動いた。


一歩、踏み込む。

そのまま、何の前触れもなく石原の腰に腕を回し、ぎゅっと抱きついた。

頬を、その胸に押しつけてくる。


「――っ!」


体が跳ねた。


頭が、真っ白になる。


反射的に、引こうとした。


――けど。


止まった。


腕の中の細い肩が、震えていた。


押し殺した音。

かすかな嗚咽。


胸元に、じわっと熱が広がった。


……涙だ。


動けなくなった。


何も言えなかった。


時間が、少し巻き戻ったような気がした。


――あのとき。


泉方情という名の喫茶店で。


彼女が近づいてきて、胸に耳を当てて。

心臓の音を、聞いていた。


あのとき、崩れていたのは自分だった。


……今は、逆だ。


石原は行き場がない手を上げたまま、止まっていた。


最終的にゆっくりと、ぎこちなく、微かに震えている彼女の背中にそっと触れる。


何も言わず、ただ静かに立ち、今この瞬間に彼女が寄りかかれる唯一の支えとなって、途切れ途切れで不明瞭な彼女の低い呟きに耳を傾けた。


「……ごめん……なさい……」


途切れる声。


「ごめんなさい、先輩……」


涙が胸を濡らす。


声も、うまく続かなかった。


「私……別に……何も……」


否定しようとして、しきれずに、彼女はもう感情を制御できなかった。。


「……怖い」


小さく。


「みんな……進んでいくのに……私だけ……」


途切れ途切れ。


「写真……撮っても……」


「……止められたらいいのに……」


言葉にならなかった。

感情だけが、こぼれた。


――そのとき。


軽く、ノック。


ドアが、少し開いた。


母親が立っていた。

果物の皿を持っていた。


その後ろに、心配そうな顔の父親。


中の様子を見た二人とも、動きを止めた。


娘が泣いていた。

石原にしがみついて。


石原は固まったまま、背を撫でていた。


母親の顔に浮かんでいた心配の色が、すぐに了解と心配、そして複雑な安堵が入り混じった表情に変わった。


彼女は何も言わず、こちらを見た石原にただ静かに頷く。


その眼差しには感謝もあり、託すような思いもあった。


静かに中へ入ると、本と付箋で埋まった机の端に皿を置いた。


そして、何か言いたそうにしている父親の腕を取ると、そのまま外へ。


ドアを、少しだけ閉めた。


――また、二人きりになった。


月の光はそのまま。

夜風も変わらなかった。


緒山の泣き声が、少しずつ落ち着いていく。

ときどき、しゃくり上げるだけになった。


でも、腕は離れなかった。


離せば、何かが消えるみたいに。


石原はそのまま立っていた。


胸の中の嵐は、静まらない。

むしろ、強くなった。


全部は分からない。


けど。


――何を怖がっているのかだけは、少し分かった気がした。


ぼんやりとしたまま。

それでも、石原の心の中で、ひとつだけはっきりしていく。


……彼女が何を恐れているにせよ、もう、見ているだけではいたくなかった。

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