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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第十二章 涙の理由――それでも、明日を願う
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第五十八話

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石原が部屋に踏み入ると、緒山を思い起こさせる、ほのかで微かに苦みのあるシャンプーの香りが、日光に晒された綿の布の温もりと混ざり合って、柔らかく包み込んでくる。


リビングよりも、ずっと温もりのある空間だった。

暖かい色の灯りが、ベージュのカーペットに落ちている。


――視線が、壁の一面に吸い寄せられた。


写真。

色とりどりの付箋。

見慣れない項目がずらりと並んだカード。


静かなはずなのに、そこだけひどく賑やかだった。


今の自分の頭の中みたいに。


「す、好きなとこ座ってください。床でも、椅子でも……」


緒山が机の椅子と、クッションを敷いた床の一角を指した。


緒山はベッドの端に座る。

膝を抱えるようにして、少し距離を取っていた。


まだ、さっきの空気が抜けず、視線も落ち着かなかった。


石原は少し迷ってから、椅子に腰を下ろす。


距離は二メートルほど。

なのに、間に何かあるみたいだった。


「……今日の料理、うまかった」


口を開いた。

沈黙を切るように。


「うん……ママ、ああいうの好きで」


緒山は小さく答えた。

指先で、髪をいじっていた。


「カレーのリンゴ、あれよかった」


「それ、うちの定番なんです……」


――続かなかった。


会話はそこで途切れた。

また、静かになった。


外から、虫の声。

遠くの車の音が、ぼんやりと混ざっている。


石原は膝の上で指を握った。


視線の先。

うつむいた横顔。


まつげの下に、影が落ちていた。


――聞くか。


あの日のこと。

どうして、泣いていたのか。


喉まで来た。


……飲み込んだ。


踏み込んでいいのか分からなかった。

余計な負担になるかもしれない。


今の、この距離すら壊すかもしれない。


胸の奥が、じわじわと締まった。


(……でも)


(このままだと、何もできない)


息を吸った。


――その瞬間。


「葵ちゃん……今、きっと嬉しいんだろうな」


緒山が顔を上げた。


視線は、窓の外。

夜の空へ。


声は独り言みたいに小さかった。


「一時退院で……病院を離れて、家に戻れて。慣れた場所で、お兄ちゃんと一緒にいられて。ママのご飯も食べられて、自分のベッドで星を見て……」


ゆっくりと言葉を重ねた。


「もしかしたら、近くの小さな公園とかも散歩できるかもしれないし」


口元が、やわらかく緩んだ。

目に、月の光が映っていた。


「きっと笑ってて、明日どこ行こうかなって考えて……どのアニメ見るか決めて……そういうの、想像するだけで」


一瞬、言葉が止まった。


でも、笑みはそのまま。


「……いいなって、思うんです」


立ち上がり、窓のほうへ歩いた。


月明かりに入った。


「“明日”があること。

それを当たり前みたいに楽しみにできること。

やりたいことを、少しずつ叶えていける時間があること……」


声は、静かだった。

やさしかった。


「……ほんと、いいなって思います」


石原は、その場に座ったまま。


夜の風が、開けた窓から入ってくる」としたほうがいいです。

頬に触れた。


――冷たい。


理由のない寒気が、背をなぞった。


月明かりの中の横顔を見た。


……重なった。


橋。

冷たい水。

落ちていく背中。


あのとき止まりかけた、自分の鼓動。


目の前の姿が、重なった。


――同じだ。


「――っ!」


考える前に、体が動いた。


石原は椅子を蹴るように立ち上がると、そのまま一気に距離を詰める。

緒山が目を見開くより早く、その手首を掴んで、自分のほうへ強く引いた。


「きゃっ!?」


緒山の体がぐらりと前に傾いた。

不意を突かれ、そのまま石原のほうへ倒れかかる。


ぶつかりそうになった。


「せ、先輩……!?」


顔を上げると、目が大きく開いた。


石原の目とぶつかる。


――そこで、止まった。


石原も動けなかった。


手の中。

細い手首の感触。温かい。


距離が近い。


……はっとした。


手を離した。

後ろに下がった。

二歩。


「……悪い!」


声がうまく出なかった。


「違う、俺……その……」


言葉が絡まった。


窓の方を指した。


「さっき、外見てて……その顔が……」


呼吸が浅かった。


「あの日、橋でのこと思い出して……飛び降りるのかと思って……」


まとまらなかった。

でも、意味だけは伝わった。


緒山は少しだけ目を見開いた。


――次の瞬間。


「……ぷっ」


笑いが漏れた。


「ははっ……あはははっ!」


止まらなかった。


腰を折ってお腹を押さえる。


「先輩……想像力すごすぎません……? 私、ただ月見てただけですよ? あははっ……!」


笑いが弾けた。


「毎回、窓の外見ただけで飛び降りるって思われるんですか? じゃあ私、もう窓も開けられないじゃないですか!」


声が部屋に広がる。


さっきまでの空気が、崩れた。


「しかも、ここ一階ですよ?」


石原は何も言えなかった。


緊張が抜けていく。

代わりに、耳が熱くなった。


「……笑うな」


小さく言った。


緒山はようやく笑いを抑えた。


目尻の涙を拭う。

まだ少し笑っていた。


そのまま、石原を見た。


何か言いかけて――止まる。

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