第五十八話
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石原が部屋に踏み入ると、緒山を思い起こさせる、ほのかで微かに苦みのあるシャンプーの香りが、日光に晒された綿の布の温もりと混ざり合って、柔らかく包み込んでくる。
リビングよりも、ずっと温もりのある空間だった。
暖かい色の灯りが、ベージュのカーペットに落ちている。
――視線が、壁の一面に吸い寄せられた。
写真。
色とりどりの付箋。
見慣れない項目がずらりと並んだカード。
静かなはずなのに、そこだけひどく賑やかだった。
今の自分の頭の中みたいに。
「す、好きなとこ座ってください。床でも、椅子でも……」
緒山が机の椅子と、クッションを敷いた床の一角を指した。
緒山はベッドの端に座る。
膝を抱えるようにして、少し距離を取っていた。
まだ、さっきの空気が抜けず、視線も落ち着かなかった。
石原は少し迷ってから、椅子に腰を下ろす。
距離は二メートルほど。
なのに、間に何かあるみたいだった。
「……今日の料理、うまかった」
口を開いた。
沈黙を切るように。
「うん……ママ、ああいうの好きで」
緒山は小さく答えた。
指先で、髪をいじっていた。
「カレーのリンゴ、あれよかった」
「それ、うちの定番なんです……」
――続かなかった。
会話はそこで途切れた。
また、静かになった。
外から、虫の声。
遠くの車の音が、ぼんやりと混ざっている。
石原は膝の上で指を握った。
視線の先。
うつむいた横顔。
まつげの下に、影が落ちていた。
――聞くか。
あの日のこと。
どうして、泣いていたのか。
喉まで来た。
……飲み込んだ。
踏み込んでいいのか分からなかった。
余計な負担になるかもしれない。
今の、この距離すら壊すかもしれない。
胸の奥が、じわじわと締まった。
(……でも)
(このままだと、何もできない)
息を吸った。
――その瞬間。
「葵ちゃん……今、きっと嬉しいんだろうな」
緒山が顔を上げた。
視線は、窓の外。
夜の空へ。
声は独り言みたいに小さかった。
「一時退院で……病院を離れて、家に戻れて。慣れた場所で、お兄ちゃんと一緒にいられて。ママのご飯も食べられて、自分のベッドで星を見て……」
ゆっくりと言葉を重ねた。
「もしかしたら、近くの小さな公園とかも散歩できるかもしれないし」
口元が、やわらかく緩んだ。
目に、月の光が映っていた。
「きっと笑ってて、明日どこ行こうかなって考えて……どのアニメ見るか決めて……そういうの、想像するだけで」
一瞬、言葉が止まった。
でも、笑みはそのまま。
「……いいなって、思うんです」
立ち上がり、窓のほうへ歩いた。
月明かりに入った。
「“明日”があること。
それを当たり前みたいに楽しみにできること。
やりたいことを、少しずつ叶えていける時間があること……」
声は、静かだった。
やさしかった。
「……ほんと、いいなって思います」
石原は、その場に座ったまま。
夜の風が、開けた窓から入ってくる」としたほうがいいです。
頬に触れた。
――冷たい。
理由のない寒気が、背をなぞった。
月明かりの中の横顔を見た。
……重なった。
橋。
冷たい水。
落ちていく背中。
あのとき止まりかけた、自分の鼓動。
目の前の姿が、重なった。
――同じだ。
「――っ!」
考える前に、体が動いた。
石原は椅子を蹴るように立ち上がると、そのまま一気に距離を詰める。
緒山が目を見開くより早く、その手首を掴んで、自分のほうへ強く引いた。
「きゃっ!?」
緒山の体がぐらりと前に傾いた。
不意を突かれ、そのまま石原のほうへ倒れかかる。
ぶつかりそうになった。
「せ、先輩……!?」
顔を上げると、目が大きく開いた。
石原の目とぶつかる。
――そこで、止まった。
石原も動けなかった。
手の中。
細い手首の感触。温かい。
距離が近い。
……はっとした。
手を離した。
後ろに下がった。
二歩。
「……悪い!」
声がうまく出なかった。
「違う、俺……その……」
言葉が絡まった。
窓の方を指した。
「さっき、外見てて……その顔が……」
呼吸が浅かった。
「あの日、橋でのこと思い出して……飛び降りるのかと思って……」
まとまらなかった。
でも、意味だけは伝わった。
緒山は少しだけ目を見開いた。
――次の瞬間。
「……ぷっ」
笑いが漏れた。
「ははっ……あはははっ!」
止まらなかった。
腰を折ってお腹を押さえる。
「先輩……想像力すごすぎません……? 私、ただ月見てただけですよ? あははっ……!」
笑いが弾けた。
「毎回、窓の外見ただけで飛び降りるって思われるんですか? じゃあ私、もう窓も開けられないじゃないですか!」
声が部屋に広がる。
さっきまでの空気が、崩れた。
「しかも、ここ一階ですよ?」
石原は何も言えなかった。
緊張が抜けていく。
代わりに、耳が熱くなった。
「……笑うな」
小さく言った。
緒山はようやく笑いを抑えた。
目尻の涙を拭う。
まだ少し笑っていた。
そのまま、石原を見た。
何か言いかけて――止まる。




