表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第十二章 涙の理由――それでも、明日を願う
PR
61/107

第五十七話

---


石原はリビングの柔らかなソファに座らされた。

体が少し沈む。


手には、冷たい麦茶の入ったグラスを持たされていた。


緒山の母親は、まだ何度も礼を言っていた。


「ほんとにもう、朋奈ったら……。ほら朋奈、ぼーっとしてないで、着替えてきなさい」


緒山は、そこでようやく自分の格好に気づいたらしい。

「あ……」と小さく声を漏らした。


顔の赤みは、まだ引いていない。


そのまま、くるりと背を向けた。

すぐに自室へ引っ込み、ドアが閉まる。少し慌てた音だった。


――静かになった。


リビングには、石原と母親の二人だけ。


石原は背筋を伸ばしたまま座っていた。

視線だけが、部屋の中をゆっくりなぞる。


部屋は明るく、きれいに整っていた。

ベージュを基調に、観葉植物がいくつか置かれていた。


……けれど、どこか広く感じる。


そんな印象だった。


テレビ台の上には、一枚だけ絵が掛けられていた。

星空を描いた水彩。筆致は少し幼かい。


その周りは、やけに余白が多かった。


サイドテーブルには写真立てがあり、石原はそれをちらりと見る。


ほとんどが、緒山の中学時代か、それより前のものだった。

どれもよく笑っている。


ただ、写真の鮮明さが、どこか揃っていないように見えた。


【緒山母親の感情:喜び70、好奇25、その他5】


向かいの一人掛けソファで、母親がやわらかく笑う。


「そんなに緊張しないでね。自分の家だと思ってくれていいから」


少し身を乗り出した。


「そういえば、石原くんと朋奈って、学校では仲いいの? さっき“先輩”って呼んでたけど」


「はい。生徒会で書記をやってます。緒山さんは副会長です」


言葉を選んで答えた。


――ふと。


杏のことを思い出した。


石原はスマホを取り出し、短く打ち込む。


「急に用事ができた。夕飯は待たなくていい。食材は買って、玄関に置いてある」


送信。


「生徒会かぁ。いいわねえ。朋奈も、みんなにお世話になってるみたいで」


母親はうなずいた。

目の奥の好奇心が、少しだけ濃くなった。


「家でもね、たまに生徒会の話をするのよ。雰囲気がいいって。石原くん、先輩として朋奈のこと、ありがとうね」


「……いえ。助けられてるのは、こっちのほうです」


そのまま答えた。事実だ。

彼女がいなければ、生徒会にも入っていなかったし、今みたいな景色を見ることもなかった。


そのとき。玄関のほうから、鍵の音。

続いて、明るい男の声。


「ただいまー。……あれ、お客さんの靴?」


中年の男性が入ってきた。

細いフレームの眼鏡。スーツ姿。手にはビジネスバッグ。


石原を見て、明らかに驚いている。。


「あら、ちょうどいいところに帰ってきたわ」


母親がすぐに立ち上がった。


「この子、石原くん。朋奈の先輩でね、お店で助けてもらったの。石原くん、こちら主人です」


「お邪魔しています」


石原は立ち上がり、軽く頭を下げた。


「おお、どうもどうも!」


男性はすぐに笑顔になった。


「助けてくれたんだ? それは本当にありがとう。さ、座って座って」


上着を脱ぎ、母親の隣に腰を下ろす。

そのまま、ごく自然に石原へ視線を向けた。


「さっき聞いたけど……朋奈の先輩、なんだって?」


「同じ二年です。生徒会で一緒にやってます」


「おお、なるほど。同じ学年で、生徒会も一緒なんだ」


うなずいた。声は穏やかだった。


「朋奈、ちゃんとやれてる? みんなに迷惑かけてないといいんだけど。あの子、たまに突拍子もないことを思いつくから」


そのとき、部屋のドアが開いて、緒山が戻ってきた。


今度は、薄いグレーのTシャツにデニムのショートパンツ。

髪も整っている。


顔の赤みはさっきより薄れていた。

けれど、視線が合うと少しだけ揺れて、すぐ逸らされる。


「お父さん、おかえり」


そのまま歩いてきて、ソファの端に座った。

石原との間には、クッションひとつ分の距離があった。


「先輩、すみません。ちょっと散らかってて」


「……いや。片付いてるよ」


石原は小さく首を振った。


二人はぎこちなく笑い合った。

そのまま、言葉が途切れた。


「はい、そろったしご飯にしましょ!」


緒山の母親の声が、ちょうどよく空気を切り替える。


夕食は思っていたより、ずっと和やかだった。


料理はどれも手が込んでいた。

味もよかった。


母親は次々と石原の皿に料理をよそった。

話題も、学校のことやちょっとした雑談ばかりだった。


父親は最初こそ口数が少なかったが、ビールが進むにつれて、だんだんと話すようになった。


石原の成績。

趣味。

生徒会のこと。


ひとつひとつ、興味深そうに聞いてくる。


そして、話が緒山に関係する内容になると、身内らしい親しさが滲んだ。


「朋奈、生徒会でもあっちこっち動き回ってるのか?」

「生徒会室に変なふうに物、置きっぱなしにしてないよな?」


誇らしさと、“うちの子のことだから分かる”という距離の近さが混じっている。


「お父さん、私そんなことしてないし!」


緒山がすぐに抗議した。


「この前、誰かさんのマフラーが一週間ずっと生徒会室に掛かってたけどな」


父親はゆったりした口調で返した。

目は笑っていた。


「それは……忘れてただけ!」


言い返しながらも、少しだけ声が弱かった。


――やり取りが、自然だった。


石原はそれを横で聞いていた。

必要なときだけ、短く答えた。


こういう空気。

家族の間に流れる温度。


それが、少しだけ羨ましかった。

同時に、胸の奥に淡い渋みが残った。


父親が昔の話をするとき。

ときどき、ほんのわずかに言葉が途切れた。


思い出すみたいに、一拍置いて、けれどすぐに続いた。


母親が横から補った。

笑いながら、自然に。


――息が合っていた。


食事も半ばを過ぎたころ。


「あ、そうだ」


母親が思い出したように顔を上げた。


「この前、朋奈の幼稚園のアルバム見つけたのよね。あとで、石原くんにも見せてあげようか?」


「ちょ、ママ!?」


緒山が即座に抗議した。


「いいじゃないか」


父親が笑った。

だが、その直後。


ほんの一瞬だけ、眉が寄った。

こめかみを軽く押さえた。


「……あれ、どこにしまったっけな。書棚の上だったか……いや、違うか」


彼は少し呆然とした様子で瞬きした。


母親の笑みが、一瞬だけ止まるが、すぐに戻った。


「たぶん書斎のどこかの箱の中よ。あとで一緒に探しましょ。ほら、先に食べちゃいましょう」


会話はそのまま流れていった。


――けれど。


石原は見ていた。


緒山の手。

箸を持つ指が、一瞬だけ強く握られたのを。


---


食事が終わった。


片付けを手伝おうとしたが、止められる。

そのままソファに戻された。


キッチンから、水の音。

小さな話し声が混じっていた。


リビングには、石原と緒山の二人。


緒山はソファの端。

クッションを抱えたまま、視線が落ち着かなかった。


また、静けさが戻った。


何かを言いかけて、やめる。

そんな空気が残っていた。


視界にタグが浮かんだ。


【躊躇】【不安】【恐れ】……


(……緒山さんも、あの日のことを気にしてるのか)


やがて。


水音が止まる少し前。


緒山が息を吸って顔を上げた。


今度は、目を逸らさなかった。


「……先輩」


声は小さかった。

でも、はっきりしていた。


「その……部屋、来ませんか? 新しく買った漫画が何冊かあって……けっこう面白いんです。……それか、その、少し話でも」


言い終えた瞬間。


キッチンのドアが開いた。


母親が顔を出した。

手には布巾。


目が、すぐに輝いた。


「いいわねいいわね、行ってらっしゃい! あとでフルーツ持ってくから! ちゃんと“お話”してきなさいね?」


「お話」をわざと強調した。


「ママ!」


緒山の顔が一気に赤くなった。


その後ろから、父親も出てくる。

少しだけ、表情が複雑だった。


娘を見た。

石原を見た。


口を開きかけた。

けれど、閉じた。


眼鏡を押し上げる。


「……まあ、その……部屋、な。ドアは少し開けておけ。風通しがいいように」


言ったあと、少し間。


「いや、その……暑いだろ。開けてたほうが涼しい」


「お父さん!」


今度は耳まで赤くなった。


緒山がほとんど跳ねるように。立ち上がった。


「せ、先輩、こっちです!」


そのまま手を伸ばした。

石原を立たせようとするみたいに。


――けれど。


途中で、ぴたりと止まる。


はっとした顔ですぐに手を引っ込めた。


熱いものに触れそうになったみたいに、さっと離す。


緒山の頬が一気に赤くなった。


石原も、一瞬遅れて反応した。

耳の奥が熱くなった。


「ち、違う、その……こっちです!」


言葉がまとまらなかった。


視線を落としてそのまま足早に自分の部屋へ向かった。


父親は娘が部屋へ急ぐのを見て、無意識のうちに半歩前に出た。腕を少し持ち上げ、声をかけて引き止めようとするかのようだった。


「あなた」


いたずらっぽい笑みが浮かんでいて、小さく首を振り、二人だけに聞こえる声で、笑いを含ませながら囁く。


「ほら、邪魔しないの。若い子はみんなそんなものなんだから。あなたはこっち。フルーツ切ってちょうだい。いちごとメロン、出すから。あのガラスのお皿でね」


父親の動きが止まった。


少し開いたままのドアのほうを見た。


その前に立つ石原は軽く会釈する。


父親はため息をついた。


「……分かった」


小さくつぶやくと。何度か振り返りながらそのままキッチンへ戻った。


石原は部屋へ入った。


背後で、母親の声がかすかに聞こえた。


「もう、大きくなっちゃって」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ