第五十七話
---
石原はリビングの柔らかなソファに座らされた。
体が少し沈む。
手には、冷たい麦茶の入ったグラスを持たされていた。
緒山の母親は、まだ何度も礼を言っていた。
「ほんとにもう、朋奈ったら……。ほら朋奈、ぼーっとしてないで、着替えてきなさい」
緒山は、そこでようやく自分の格好に気づいたらしい。
「あ……」と小さく声を漏らした。
顔の赤みは、まだ引いていない。
そのまま、くるりと背を向けた。
すぐに自室へ引っ込み、ドアが閉まる。少し慌てた音だった。
――静かになった。
リビングには、石原と母親の二人だけ。
石原は背筋を伸ばしたまま座っていた。
視線だけが、部屋の中をゆっくりなぞる。
部屋は明るく、きれいに整っていた。
ベージュを基調に、観葉植物がいくつか置かれていた。
……けれど、どこか広く感じる。
そんな印象だった。
テレビ台の上には、一枚だけ絵が掛けられていた。
星空を描いた水彩。筆致は少し幼かい。
その周りは、やけに余白が多かった。
サイドテーブルには写真立てがあり、石原はそれをちらりと見る。
ほとんどが、緒山の中学時代か、それより前のものだった。
どれもよく笑っている。
ただ、写真の鮮明さが、どこか揃っていないように見えた。
【緒山母親の感情:喜び70、好奇25、その他5】
向かいの一人掛けソファで、母親がやわらかく笑う。
「そんなに緊張しないでね。自分の家だと思ってくれていいから」
少し身を乗り出した。
「そういえば、石原くんと朋奈って、学校では仲いいの? さっき“先輩”って呼んでたけど」
「はい。生徒会で書記をやってます。緒山さんは副会長です」
言葉を選んで答えた。
――ふと。
杏のことを思い出した。
石原はスマホを取り出し、短く打ち込む。
「急に用事ができた。夕飯は待たなくていい。食材は買って、玄関に置いてある」
送信。
「生徒会かぁ。いいわねえ。朋奈も、みんなにお世話になってるみたいで」
母親はうなずいた。
目の奥の好奇心が、少しだけ濃くなった。
「家でもね、たまに生徒会の話をするのよ。雰囲気がいいって。石原くん、先輩として朋奈のこと、ありがとうね」
「……いえ。助けられてるのは、こっちのほうです」
そのまま答えた。事実だ。
彼女がいなければ、生徒会にも入っていなかったし、今みたいな景色を見ることもなかった。
そのとき。玄関のほうから、鍵の音。
続いて、明るい男の声。
「ただいまー。……あれ、お客さんの靴?」
中年の男性が入ってきた。
細いフレームの眼鏡。スーツ姿。手にはビジネスバッグ。
石原を見て、明らかに驚いている。。
「あら、ちょうどいいところに帰ってきたわ」
母親がすぐに立ち上がった。
「この子、石原くん。朋奈の先輩でね、お店で助けてもらったの。石原くん、こちら主人です」
「お邪魔しています」
石原は立ち上がり、軽く頭を下げた。
「おお、どうもどうも!」
男性はすぐに笑顔になった。
「助けてくれたんだ? それは本当にありがとう。さ、座って座って」
上着を脱ぎ、母親の隣に腰を下ろす。
そのまま、ごく自然に石原へ視線を向けた。
「さっき聞いたけど……朋奈の先輩、なんだって?」
「同じ二年です。生徒会で一緒にやってます」
「おお、なるほど。同じ学年で、生徒会も一緒なんだ」
うなずいた。声は穏やかだった。
「朋奈、ちゃんとやれてる? みんなに迷惑かけてないといいんだけど。あの子、たまに突拍子もないことを思いつくから」
そのとき、部屋のドアが開いて、緒山が戻ってきた。
今度は、薄いグレーのTシャツにデニムのショートパンツ。
髪も整っている。
顔の赤みはさっきより薄れていた。
けれど、視線が合うと少しだけ揺れて、すぐ逸らされる。
「お父さん、おかえり」
そのまま歩いてきて、ソファの端に座った。
石原との間には、クッションひとつ分の距離があった。
「先輩、すみません。ちょっと散らかってて」
「……いや。片付いてるよ」
石原は小さく首を振った。
二人はぎこちなく笑い合った。
そのまま、言葉が途切れた。
「はい、そろったしご飯にしましょ!」
緒山の母親の声が、ちょうどよく空気を切り替える。
夕食は思っていたより、ずっと和やかだった。
料理はどれも手が込んでいた。
味もよかった。
母親は次々と石原の皿に料理をよそった。
話題も、学校のことやちょっとした雑談ばかりだった。
父親は最初こそ口数が少なかったが、ビールが進むにつれて、だんだんと話すようになった。
石原の成績。
趣味。
生徒会のこと。
ひとつひとつ、興味深そうに聞いてくる。
そして、話が緒山に関係する内容になると、身内らしい親しさが滲んだ。
「朋奈、生徒会でもあっちこっち動き回ってるのか?」
「生徒会室に変なふうに物、置きっぱなしにしてないよな?」
誇らしさと、“うちの子のことだから分かる”という距離の近さが混じっている。
「お父さん、私そんなことしてないし!」
緒山がすぐに抗議した。
「この前、誰かさんのマフラーが一週間ずっと生徒会室に掛かってたけどな」
父親はゆったりした口調で返した。
目は笑っていた。
「それは……忘れてただけ!」
言い返しながらも、少しだけ声が弱かった。
――やり取りが、自然だった。
石原はそれを横で聞いていた。
必要なときだけ、短く答えた。
こういう空気。
家族の間に流れる温度。
それが、少しだけ羨ましかった。
同時に、胸の奥に淡い渋みが残った。
父親が昔の話をするとき。
ときどき、ほんのわずかに言葉が途切れた。
思い出すみたいに、一拍置いて、けれどすぐに続いた。
母親が横から補った。
笑いながら、自然に。
――息が合っていた。
食事も半ばを過ぎたころ。
「あ、そうだ」
母親が思い出したように顔を上げた。
「この前、朋奈の幼稚園のアルバム見つけたのよね。あとで、石原くんにも見せてあげようか?」
「ちょ、ママ!?」
緒山が即座に抗議した。
「いいじゃないか」
父親が笑った。
だが、その直後。
ほんの一瞬だけ、眉が寄った。
こめかみを軽く押さえた。
「……あれ、どこにしまったっけな。書棚の上だったか……いや、違うか」
彼は少し呆然とした様子で瞬きした。
母親の笑みが、一瞬だけ止まるが、すぐに戻った。
「たぶん書斎のどこかの箱の中よ。あとで一緒に探しましょ。ほら、先に食べちゃいましょう」
会話はそのまま流れていった。
――けれど。
石原は見ていた。
緒山の手。
箸を持つ指が、一瞬だけ強く握られたのを。
---
食事が終わった。
片付けを手伝おうとしたが、止められる。
そのままソファに戻された。
キッチンから、水の音。
小さな話し声が混じっていた。
リビングには、石原と緒山の二人。
緒山はソファの端。
クッションを抱えたまま、視線が落ち着かなかった。
また、静けさが戻った。
何かを言いかけて、やめる。
そんな空気が残っていた。
視界にタグが浮かんだ。
【躊躇】【不安】【恐れ】……
(……緒山さんも、あの日のことを気にしてるのか)
やがて。
水音が止まる少し前。
緒山が息を吸って顔を上げた。
今度は、目を逸らさなかった。
「……先輩」
声は小さかった。
でも、はっきりしていた。
「その……部屋、来ませんか? 新しく買った漫画が何冊かあって……けっこう面白いんです。……それか、その、少し話でも」
言い終えた瞬間。
キッチンのドアが開いた。
母親が顔を出した。
手には布巾。
目が、すぐに輝いた。
「いいわねいいわね、行ってらっしゃい! あとでフルーツ持ってくから! ちゃんと“お話”してきなさいね?」
「お話」をわざと強調した。
「ママ!」
緒山の顔が一気に赤くなった。
その後ろから、父親も出てくる。
少しだけ、表情が複雑だった。
娘を見た。
石原を見た。
口を開きかけた。
けれど、閉じた。
眼鏡を押し上げる。
「……まあ、その……部屋、な。ドアは少し開けておけ。風通しがいいように」
言ったあと、少し間。
「いや、その……暑いだろ。開けてたほうが涼しい」
「お父さん!」
今度は耳まで赤くなった。
緒山がほとんど跳ねるように。立ち上がった。
「せ、先輩、こっちです!」
そのまま手を伸ばした。
石原を立たせようとするみたいに。
――けれど。
途中で、ぴたりと止まる。
はっとした顔ですぐに手を引っ込めた。
熱いものに触れそうになったみたいに、さっと離す。
緒山の頬が一気に赤くなった。
石原も、一瞬遅れて反応した。
耳の奥が熱くなった。
「ち、違う、その……こっちです!」
言葉がまとまらなかった。
視線を落としてそのまま足早に自分の部屋へ向かった。
父親は娘が部屋へ急ぐのを見て、無意識のうちに半歩前に出た。腕を少し持ち上げ、声をかけて引き止めようとするかのようだった。
「あなた」
いたずらっぽい笑みが浮かんでいて、小さく首を振り、二人だけに聞こえる声で、笑いを含ませながら囁く。
「ほら、邪魔しないの。若い子はみんなそんなものなんだから。あなたはこっち。フルーツ切ってちょうだい。いちごとメロン、出すから。あのガラスのお皿でね」
父親の動きが止まった。
少し開いたままのドアのほうを見た。
その前に立つ石原は軽く会釈する。
父親はため息をついた。
「……分かった」
小さくつぶやくと。何度か振り返りながらそのままキッチンへ戻った。
石原は部屋へ入った。
背後で、母親の声がかすかに聞こえた。
「もう、大きくなっちゃって」




