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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第十二章 涙の理由――それでも、明日を願う
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第五十六話

---


電車がゆっくりと停車した。

石原は緒山の手を離す。指先には、かすかな冷たさが残っていた。


緒山は小さく「また明日」と言って、そのまま改札へ向かう人波の中に紛れ、やがて姿は視界から消えていく。


掌に残った、ほんの一瞬の触れ合いの感触だけが、なぜかいつまでも消えなかった。


その日を境に、夏休みが始まった。


蝉の声が校内のざわめきを塗り替えていく。

そして、いつも石原にまとわりついていた“感情のノイズ”さえ、強い日差しの中ではどこか薄れていくようだった。


生活のリズムは、急に緩やかになった。

生徒会の仕事も止まり、日常は家と、たまに出かける買い出しだけの単調な往復へと変わった。


――けれど、すべてが止まってしまったわけじゃない。


葵が退院したあの日、緒山が見せた、声もなく涙を流す横顔が、視界の端に焼きついたまま離れなかった。


静かになるたびに、その光景が浮かび上がる。

あの明るい笑顔と、冷たい涙の跡が同時にあった顔。あわせて、必死に自分の手首を掴んできた感触まで思い出された。


彼女の中に、何か抱え込んでいるものがある。

いつも周りを明るくしている彼女を、あそこまで崩してしまうほど重い何かが。


けれど、それが何なのかは分からない。


……直接聞くか?


どう切り出せばいいのか、想像もつかなかった。

春野たちも、何も知らないようだ。


胸の奥には、夏の暑さみたいな苛立ちが、じわじわとこもり続けていた。


---


【八月七日・水曜日・夜】


「お兄ちゃーん!」


杏の声が、頭にまとわりついていた思考を引き戻した。


彼女はスマホを掲げている。

画面には、色鮮やかな料理の写真が映っていた。


「見て! 明日これ作ってみたいの! “夏の海鮮冷やし麺”ってやつ。すごくさっぱりしてそうでしょ? でも、かつおだしと新鮮なきゅうりがなくてさあ」


ぱちっとウインクしてみせる。それだけでも、言いたいことは十分伝わった。


「分かった。買ってくる」


石原は杏から差し出されたメモと財布を受け取った。


……外に出たほうがいい。家にいても、この妙な焦燥にずっと付きまとわれるだけだ。


「気をつけてね~。あ、もし小さめのレモンがあったら、それも二つお願い!」


玄関で手を振る杏は、いかにも楽しみで仕方ないといった顔をしていた。


――そして今、石原はスーパーの冷蔵ケースの前に立っていた。

指先で冷たいパックに触れながらも、視線はどこか定まらなかった。


外に出ても、気分はまったく晴れない。


メモにあったものは、ほとんど揃っていた。ついでに、杏がよく飲んでいるヨーグルトも買うべきか――そんなことをぼんやり考える。


「……はぁ」


小さなため息が、冷蔵ケースの低い唸りに紛れた。


結局、いつものヨーグルトを適当に数個手に取り、そのまま青果コーナーへ向かう。


気持ちが落ち着かないせいで、食材を選ぶ手つきまでどこか上の空になっていた。


そのときだ。穏やかだが、どこか焦りの混じった女の声が近くで聞こえた。


「もう……この箱、なんでこんなに滑るの……」


石原はそちらへ目を向けた。


四十代くらいだろうか。淡い花柄のワンピースを着た女性がいた。

カートに載せた、見た目にも重そうなミネラルウォーターの箱を持ち上げて、売り場の山に戻そうとしていた。

ケースが少し濡れて滑るようで、二度試してもうまく持ち上げられず、かえって体勢を崩しかけている。


石原は歩み寄った。


「持ちますよ」


「あら、ごめんなさい。助かるわ」


女性はすぐに手を離し、感謝したように小さく笑ってから、少し横へ退いた。


持ってみると、やはり重い。

石原はそのまま箱を持ち上げ、指定された売り場の山へと手際よく運び、しっかりと置いた。


「ほんとにありがとうね! 力あるのねえ、君」


女性は手を軽く叩きながら、にこにこと笑った。

そのまま視線が石原に向いた。そこには、遠慮のない好意と、まっすぐな熱が宿っていた。


「この辺の学生さん……泉方新高?」


「……はい」


石原は小さくうなずいた。

視線を落とし、そのまま会話を切り上げようとする。


ふと、頭上に浮かぶタグが目に入った。


【???の感情:感謝85、熱意15】


……混じり気のない好意。


石原はそのまま背を向けようとした。

だが。


「ちょっとちょっと!」


女性が半歩、前に出た。

声に迷いがない。ぐいっと距離を詰めてきた。


「こんなに助けてもらって、そのまま帰すわけないでしょ! ちゃんとお礼させてちょうだい!」


「いえ……別に、大したことじゃないです」


反射的に断る。

けれど、引く気配はなかった。


「大したことあるわよ! こんなの一人で運んでたら、どれだけかかると思ってるの」


女性は手を振りながら、にっこり笑った。


「ちょうどね、家でいろいろ作ってあって。食べきれないなって思ってたの。ね、よかったら寄っていかない? お礼ってことで」


「いや、本当に……」


「遠慮しないの! すぐそこなのよ、歩いて数分。――あ、買い物中? じゃあお会計、私が出すわね」


いつの間にか、女性は横のかごに手を伸ばしている。

手際よく中身をまとめ始めた。


軽い口調なのに、妙に押しが強かった。

どこか、覚えのある強引さだった。


「それにね、うちの子がいつも言うの。私の料理を食べると元気になるって。あ、そうだ、あの子も泉方新高なのよ? もしかしたら知り合いかもね」


……勢いに、押された。


断る理由が見つからなかった。

ここまでまっすぐ来られると、跳ね返すのも難しかい。


「……じゃあ、お邪魔します」


「そうこなくっちゃ!」


ぱっと顔が明るくなった。


「ほらほら、これ持つわ。こっちよ」


石原の手から袋を半分さらっていき、そのまま軽い足取りで歩き出した。


――道中。


女性はずっと話していた。

天気のこと。スーパーのセールのこと。


石原は短く相槌を打つだけだった。

ときどき、視線が街並みをかすめた。


歩くうちに、景色が見覚えのあるものへと変わっていく。


……この道。あの角。次の曲がり角も。


足が、わずかに遅くなった。


「もうすぐよ。ほら、あのマンション」


女性が前を指した。


石原は、その建物に見覚えがあった。


心臓が、一拍抜けた。


(……まさか。そんな偶然あるか?)


彼は女性についてマンションの入り口に入り、「緒山」と書かれた表札のかかったドアの前に立った。


心臓の音が、やけに近かった。


「朋奈ー、ただいま! お客さんも一緒よー!」


女性は鍵を取り出してドアを開けながら、明るく声をかけた。


……当たった。


出来すぎた偶然に、わずかに眩暈がする。


「さ、どうぞ――」


言い終わる前に。


奥の部屋のドアが、勢いよく開く。


緒山が顔を出した。


髪は少し乱れていて、黒いセミロングが肩に落ちていた。


星柄の淡い青のパジャマで、足元はふわふわのスリッパ。


片手で目をこすっていて、まだ眠気の残った顔をしていた。


「ママ、おかえり……って、お客――」


視線が動き、母親の肩越しに石原を見る。


――止まった。


手が、そのまま固まった。


時間が、玄関の狭い空間の中で無限に引き延ばされたかのようだった。


石原には見えた。緒山朋奈の頭上の、普段は安定している感情ラベルが、一秒の間に何度も激しく変わり、やがてゆっくりと落ち着いていくのが。


【緒山朋奈の感情:驚き100#「@/*】


唇がわずかに開き、目が大きく見開かれていた。


現実じゃないものを見たみたいに。


「緒山……さん」


声が、少し乾いていた。


「え……あっ?!」


ようやく、声が出た。

手をおろし、そのまま胸元をぎゅっと掴む。


「ママ!? せ、先輩!? な、なにこれ!? 突撃訪問!? それともついに“男子を家に連れてくる”ってやつ、本当にやったの!?」


一気にまくしたてる。


しかし、真っ赤になった耳の付け根、微かに震える指先、そして石原と一秒以上視線を合わせられずにすぐ別の方向へ逃げていく目が、彼女の本当の心境を余すところなく暴露していた。


「もう、何言ってるのこの子は」


母親が軽く腕を叩いた。

けれど、笑みはますます深くなっている。


「気にしないでね、家だとこんな調子なの。さ、上がって上がって」


石原は緒山の母の元気な誘いと、緒山本人の気まずそうな視線の中、ぎこちなく靴を脱ぐ。

妙に落ち着かない気持ちで、この温かく明るい、しかし今この瞬間は針のむしろのような、「緒山家」に上がった。

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