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第七章 風のあと――彼女の居場所

【まえがき】


ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。


このお話は、立花編の後日譚にあたる、短めのエピソードです。


体育祭を終えたあとの彼女の、少しずつ変わっていく日常を描いています。


肩の力を抜いて、放課後の続きのような気分で楽しんでいただけたら嬉しいです。


それから、3月22日の夜に第一章から第三章までの翻訳をあらためて見直していたのですが、思わず苦笑してしまうほどたくさんの問題が見つかりました。


自分でも驚くくらいで、直しながら「これは本当に申し訳ない……」という気持ちでいっぱいになりました。


だからこそ、そんな中でもここまで追いかけて読んでくださった皆さまには、あらためて感謝の気持ちを伝えたいです。


本当にありがとうございます。


そして、至らない部分が多かったこと、心からお詫びします。

---


【後記1】


体育祭の喧騒がすっかり静まるころには、夕焼けが空を赤く染めていた。


校内に残る人影はまばらで、当番の生徒がグラウンドを片付ける姿と、遠くからかすかに聞こえる部活動の音だけが、静かな校舎に残されていた。


生徒会の一行は、正門へと続く通りを歩いていた。

空気はどこか軽やかで、祭りの余韻にほんのり酔ったような感覚が、まだあたりに残っていた。


「じゃあ、俺たちはこっちで!」


正門前で春野は手を振ると、花野とともに駅の方へと曲がっていった。

花野は軽く頷くだけで、それが別れの挨拶だった。


「美里ちゃん、一緒に帰ろ? 杏、今日ちょっと商店街で買い物したいんだ」


杏は立花の腕に絡みつき、目をきらきらと輝かせていた。


「え、あたし……」


立花美里が返事をしかけたそのとき、緒山がそっと杏のもう片方の手を引いた。


「杏ちゃん、ちょっとだけ生徒会室まで付き合ってくれる? 資料を取りに行きたいの」


緒山は杏にウインクすると、やわらかな笑みを浮かべた。


「美里ちゃん、さっきまで競技してたでしょ? きっと疲れてるよ。先に帰って休んでもらおう?」


杏は一瞬きょとんとし、緒山と立花を見比べて――すぐに察した。

その顔には、いたずらっぽくて可愛らしい笑みがぱっと広がった。


「なるほど! そうだよね! 美里ちゃん、今日はほんとにお疲れさま! じゃあ杏は朋奈さんと一緒に行くね! お兄ちゃん――」


そう言って、さっきから後ろを黙って歩いていた石原久希の方へと向き直り、わざとらしく声を伸ばした。


「ちゃんと美里ちゃんを送ってあげなよ! 今日は大活躍だったんだから!」


そう言い残すと、石原たちの返事も待たず、緒山と杏は笑いながら去っていった。


去り際、緒山は一度だけ振り返り、石原に意味ありげで、それでいて励ますような視線を送った。


正門前に、ふいに静けさが落ちた。

残されたのは、二人だけだった。


立花はその場に立ち尽くし、夕暮れの中で頬がほんのりと熱を帯びていった。


さっき佐藤にからかわれた言葉が、小さな鳥みたいに胸の中を飛び回って、どうしても追い払えなかった。

心臓も、まるで言うことを聞いてくれないみたいに、どんどん速く打ち始めていた。

隣にいる彼の顔を見る勇気が出なかった。


(彼は……どう思ってるんだろう)


夕風が吹き、汗に濡れて、もう乾きかけた前髪をそっと揺らした。

そのとき、隣から石原の声が聞こえた。


「立花さん」


いつもと変わらない、落ち着いた声だった。

なのに、その一言だけで体が小さく震えた。


「少し、いいか」


石原が足を止めた。

立花も慌てて立ち止まり、うつむいたまま動けなかった。


視界の端で、石原がこちらに向き直り、鞄の中に手を入れるのが見えた。


気恥ずかしさよりも好奇心が勝って、立花はそっと視線を上げた。


石原の手には、落ち着いた色合いの紙袋があった。

ひと目で丁寧にしまわれていたとわかる、角の整ったきれいな紙袋だった。

ずっと大切に扱われてきたのだとわかる、そんな気配がそこにはにじんでいた。


石原はその紙袋を、立花の前へと差し出した。

立花は思わず息をのんだ。


「これ、君に」


夕暮れの少しひんやりとした空気の中で、その声だけがやけにはっきりと耳に届いた。


立花は戸惑いながら、それを受け取った。

紙袋にはわずかに重みがあり、中からはやわらかく、それでいて少し張りのある布の感触が伝わってきた。


胸の奥に、ぼんやりとした予感が浮かんだ。

そのせいで、鼓動がさらに速くなった。


彼女は視線を落とし、そっと紙袋の口を開いた。


落ち着いた、上品な淡いブルーが目に飛び込んできた。


呼吸が、止まった。

――あのワンピースだった。


あの服屋で、ショーウィンドウの近くに掛けられていた、淡いブルーのワンピースだった。


三度足を止め、三度手を伸ばしかけては引っ込め、

店員の“見透かすような視線”に耐えきれず、逃げるように店を出た――あのとき置いてきた一着だった。


それが今、紙袋の中に静かに収まっていた。

丁寧に畳まれ、夕暮れの光を受けて、やわらかく艶めいていた。


立花の視界が、一瞬で滲んだ。


彼女は顔を上げ、石原を見つめた。

唇がかすかに震えたが、うまく言葉にならなかった。


「せ、先輩……これ……?」


「前に買っておいた」


石原は答えた。

いつも通り、淡々とした口調だった。


「……今なら、似合うと思って」


その短い言葉に込められた、口にはされなかった想いを――彼女はたしかに受け取った。


自分の変化を、見ていてくれたこと。

もがきも、成長も、ちゃんと見届けてくれていたこと。


もう、きらびやかな虚像に隠れて、本当の自分を否定されることを恐れる少女ではない。

ありのままの姿でグラウンドを駆け、過去と向き合い、自分自身を受け入れられる今の自分なら――


このワンピースに、きっとふさわしい。


涙が、前触れもなくあふれ出した。

大粒の雫が次々とこぼれ落ち、胸に抱いた紙袋にぽつぽつと染みを落としていった。


拭おうともせず、立花はその紙袋をぎゅっと抱きしめた。


「た、立花さん?」


思いがけない反応に、石原はわずかに戸惑った。

一瞬、何か間違えたのかと思ったほどだ。


「あ……ありがとう……」


嗚咽まじりの声は、うまく形にならなかった。

それでも、どうしても伝えたかった。


「ほんとに……ありがとう、先輩……大事に……するから……」


石原は、涙に濡れた彼女の顔を見た。

そこには、感動と羞恥、そして――涙にきらめく、新しい光があった。


彼ははっきりと“読み取った”。

彼女の中からあふれ上がる強い感情――【幸福】、【驚き】、【感謝】……

そして、贈り主が自分であるがゆえに、より甘く染まる【羞恥】。


どの感情にも、陰りはなかった。


石原は一歩、彼女に近づいた。

無意識に手を持ち上げ――一瞬だけ宙で止めたあと、そっと彼女の柔らかな髪に触れた。


やさしく、その頭を撫でた。


「落ち着け、立花さん」


見慣れた仕草。見慣れた感触。

立花の泣き声は、やがて少しずつ落ち着き、小さなすすり泣きへと変わっていった。

だが今回は、以前のようにただ大人しくうつむくだけではなかった。


涙で滲む顔を上げ、左右で色の異なるその瞳で、水気を帯びたまま真っ直ぐに石原を見つめた。

そして彼女は、石原がまったく予想していなかった行動に出た――


小さな両手を持ち上げ、自分の頭に置かれていた石原の手を、そっと包み込んだ。

石原の身体がわずかに強張った。だが、手を引くことはなかった。


立花の手は冷たく、かすかに震えていた。

彼女はその手首を握り、慎重に――ゆっくりと――その手を自分の頭から下へと導いていった。


前髪の柔らかな流れをなぞり、泣いたことでほのかに熱を帯びたこめかみをかすめ、

そして最後に、自分の赤く染まった頬のそばで止めた。


彼女はそのまま手の甲を支え、彼の掌を自分の頬へとそっと触れさせた。


石原には、彼女の頬のなめらかな感触も、乾ききらない涙の湿り気も、はっきりと伝わってきた。


まるで――彼が優しく彼女の顔を包むような格好だった。


立花は顔を上げたまま、目元に涙を残したまま、それでも懸命に明るい笑顔を浮かべた。


「これで……ちゃんと、落ち着けた」


「ありがとう、先輩」


そう言って、彼女は目を閉じた。

まるで勇気を振り絞ってこの行動に踏み出したかのように。

あるいは、その掌から伝わる温もりを、確かめるように。


石原は、完全に言葉を失っていた。


手首には、彼女の冷たい指先。

掌の下には、彼女の温かな頬。


わずかな震えも、まつ毛に残る小さな涙の粒も、

そして髪から漂う、どこか儚い花のような淡い香りも――すべてが伝わってきた。


【立花美里の感情:安心43、緊張57】


その数値は、あまりにも明瞭で、あまりにも率直に揺れていた。


石原の心臓が、その瞬間、不意に大きく脈打った。

見知らぬ、だが確かに温かい衝動が、握られた手首から胸の奥へと広がっていった。


彼は手を引かなかった。言葉も発しなかった。

ただそのまま、彼女に触れられるまま、頬に触れたまま、


穏やかになっていく夕風の中で、

燃えるような夕焼けの下で、


そのあまりに近すぎる距離を、静かに保ち続けていた。


やがて――それが長い時間だったのか、ほんの数秒だったのかもわからないまま、

立花はゆっくりと目を開けた。


そっと手を離し、一歩だけ後ろへ下がった。

頬はさっきよりもさらに赤くなり、うつむいて彼の方を見られなかった。


「そ、その……ワンピース、大事にするね!」


言葉は少し乱れていて、指先は落ち着かないようにスカートの裾をいじっていた。


石原は手を引き戻した。

掌には、まだ彼女の体温と涙の感触が残っていた。


軽く拳を握り、その奇妙な余韻を閉じ込めるようにしてから、静かに頷いた。

こうした、あまりにも率直で強い感情には、まだ慣れていなかった。


「……ああ」


短く答え、わずかに間を置いてから、もう一言だけ付け加えた。

先ほどよりも、さらに小さな声で。


「気をつけて帰れ」


それ以上の言葉はなかった。


立花は手の甲で涙を拭い、紙袋をいっそう強く胸に抱きしめた。

もう一度石原を見上げ、何か言おうとして――結局、赤くなった目のまま笑った。


そして、力強く「うん!」と頷いた。


くるりと背を向け、自分の家の方へと歩き出した。

数歩進んで、また立ち止まり、振り返った。


暮れゆく空。街灯はまだ完全には灯っていなかった。

石原はその場に立ったままで、淡い光の中にぼんやりと輪郭を残していた。

その視線は、確かに彼女の方へ向けられているように見えた。


二人の視線が、ゆっくりと広がる夜の気配の中で、遠くからそっと触れ合った。


立花の胸が大きく跳ねた。

慌てて前を向き、逃げるように歩みを速めた。


だが――その足取りに、もう重さも迷いもなかった。


胸に抱いた紙袋が、確かな温もりを伝えてきた。

その温かさは指先から胸の奥へと広がり、夕方のひんやりした空気を溶かしていった。

頬の赤みも、なかなか引いてはくれなかった。


石原がどこまで気づいていたのか。

どこまで理解していたのか。


それはわからない。


けれど――確かなことがひとつある。


何かが、変わった。


胸の奥に静かに芽生えていた、まだ名前のない感情。

それは、この“変化を見届けてくれた贈り物”によって、輪郭を持ちはじめていた。


そして、より大切なものとして、

彼女の心の一番柔らかな場所に、静かに沈んでいった。


暮色はやさしく街を包み込み、

軽やかな足取りの少女と、少し遅れてその場を離れていく少年の姿を、そっと覆い隠していった。


風が静かに吹き、昼間の喧騒をさらっていった。

残されたのは、初夏の夜が訪れる直前の静けさと、

そして――言葉にならないまま育っていく、ささやかで、確かな予感だった。


---


【後記2】


生徒会の午後。


体育祭が終わって数日後の、ある昼下がり。

陽射しは穏やかで、心地よかった。


生徒会室の中では、時間がやけにゆっくりと、静かに流れていた。


キーボードを叩く音が、途切れ途切れに響いていた。

どこか苛立ちをにじませた、打っている当人の気分がそのまま音になったようなリズムだった。


「あああ――もうダメだ、無理無理!」


春野が勢いよく背もたれに倒れ込み、そのまま椅子の上でぐったりと崩れ落ちた。

両手で頭をかきむしり、苦悶の表情を浮かべた。


「この数字、生きてるのか? なんで勝手に表の中で動いてんだよ! 花野、これお前が仕込んだ試練じゃないのか?」


彼から机二つ分離れた場所で、花野は自分の席に静かに腰掛けていた。

目の前には、分厚い帳簿と薄い文庫本が広げられていた。


春野の嘆きを聞いても、まぶた一つ動かさなかった。

ただ指先で、淡々とページをめくった。


「私の時間は有限だ。無意味な障害を仕込む趣味はない」


「ひどすぎるだろ……!」


春野は再び画面の前に突っ伏し、ぶつぶつと不満を漏らした。


「先週の部費の予算はあんなに楽だったのに……」


「先週の予算表は私が作ったものだから」


花野が淡々と付け加えた。


「……」


室内に、一瞬だけ沈黙が落ちた。


その場の空気をやわらかくほどいたのは、部屋の反対側から聞こえてきた、かすかな鼻歌だった。


緒山は壁際の小さなテーブルの前に立ち、沸かしたばかりのお湯を丁寧にティーポットへ注いでいた。

深い紅色の茶がゆっくりと広がり、ほのかな香りを含んだ湯気が立ちのぼった。


その口元には、やさしい笑みが浮かんでいた。

手つきは軽やかで、慣れたものだった。


「はいはい、ちょっと休憩しよっか」


ポットを持ち上げ、あらかじめ並べておいたマグカップへ順にお茶を注いだ。


「お茶入れたよ。少し飲んでから続きにしよ? 会長も、ちょっと力抜いてみて。そうしたら数字も素直になるかもよ〜?」


「緒山、お前ほんと天使だな……!」


春野はたちまち元気を取り戻し、目を輝かせながら、最初の一杯が自分の前に置かれるのを今か今かと待っていた。


緒山はくすっと笑い、そのまま他のカップにもお茶を注いでいった。


窓際へと歩み寄り、石原の手元にそっと一杯を置いた。

彼は差し込む光の中で、書類に目を通していた。


「ありがとう」


石原が低く言い、わずかに口元をやわらげた。


「どういたしまして〜」


緒山はやわらかく応じ、そのまま部屋の中央へと歩いていった。


そこには、クッションを敷いた椅子に立花が腰かけていた。

制服姿で、灰白色の長い髪は後ろで簡単に低く結ばれ、いくつかの後れ毛がやわらかく首もとに垂れていた。


彼女は机の上に開かれた数学の教科書へ視線を落とし、熱心に問題へ向き合っていた。

手にしたシャープペンシルを指先で無意識にくるくると回し、ときおりぴたりと止めては、横の計算用紙に数行だけ式を書きつけていた。


陽の光はちょうど彼女の半身に差しかかっていた。

立花はすっかり自分の世界に入り込んでいて、緒山がすぐそばまで来ていたことにも気づいていなかった。


緒山は紅茶を彼女の教科書の横へそっと置き、ついでに苦戦しているらしい問題へちらりと目をやった。


「美里ちゃん、この問題ね、ここで出た答えをこっちに当てはめてみたら?」


立花美里は、はっとしたように顔を上げ、緒山を見た。


「あ、朋奈ちゃん……ありがとう」


彼女は緒山の示したところへ視線を戻し、目をわずかに見開いた。


「えっ、こう……? やってみる……」


再び机に向かうと、ペン先が紙の上を走り、さらさらと小さな音を立てた。

数秒後、彼女の眉がふっとほどけ、小さく「あ……」と声を漏らすと、そのまま淀みなく続きを書き進めていった。


「解けた?」


「うん! ありがとう、朋奈ちゃん!」


そのとき、生徒会室の扉が軽くノックされた。

男子生徒がひょいと顔をのぞかせ、手には書類の束を抱えていた。


「失礼します。春野会長、いますか? 体育祭の優秀クラス加点集計表の初稿ができたので、先生が先に生徒会で確認してほしいって」


「お、はいはい! 今行く!」


春野はすぐに立ち上がり、書類を受け取った。


「ありがとな! こっちで早めに見とくよ」


男子生徒は頷き、ごく自然に室内へ視線を走らせた。

その視線が立花のところで不自然に止まることはなかった。


「じゃあ、会長お願いします。俺、先に戻ります」


そう言って、男子生徒は扉を閉めて出ていった。


立花は温かなマグカップを両手で包み込み、立ちのぼる豊かな香りを鼻先に感じていた。

先ほど自分をかすめていった視線のことなど、彼女はまるで意識していなかった。

あるいはもう、そんなものをいちいち気にかける必要すらなくなっていたのかもしれない。

彼女の意識はすぐにまた目の前の問題へ戻っていき、考え込む合間に、ときおりカップを口元へ運んで紅茶をひとくち含んだ。


生徒会室には、またいつもの穏やかなリズムが戻っていた。

春野は紅茶を飲みながら手元の表と格闘を続け、花野は一定の間隔でページをめくり、緒山も自分の席へ戻って書類仕事を再開し、ときどきティーカップに手を伸ばしていた。


石原は手にしていた書類に目を通し終えると、それを整えて脇へ置いた。

それから、ほどよくぬるくなった紅茶をひと口飲んだ。

茶の香りが口の中に広がり、かすかな渋みのあとにやわらかな甘みが残った。


彼の視線は、不意に緒山の方をかすめた――

彼女は何かを書きつけていて、その口元には相変わらず、いつもの温かな笑みが浮かんでいた。


だが、石原久希の“感情視”の中では、彼女の周囲に浮かぶ断片めいたラベルは今もなお薄い霧に包まれたように曖昧なままで、はっきりとは読み取れなかった。


それに、自分自身の中にもまだ残っていたものがあった。

幼い頃の傷をきっかけに、“感情を読む”ことへの執着から生まれたこの力。

そして、それに伴う“ノイズ汚染”という代償も……。

まだ到底、気を緩めていい段階ではなかった。


陽射しは、気づかないうちにまた少しだけ位置を変えていた。


立花は問題を一ページ分解き終えると、ペンを置き、小さく伸びをした。

それからマグカップを手に取り、少しだけぬるくなった最後の紅茶を飲み干した。


彼女の鞄は椅子の脚もとに立てかけられていて、あの素朴な紙袋が少しだけ顔をのぞかせていた。

彼女はまだそれを着ようとはしていなかった。

ただ持ち歩いているだけだった。

たぶん、もっと自然なタイミングを待っていたのだろう。


立花は窓の外へ目を向けた。

外の空は青く高く、細い雲が数筋、ゆっくりと流れていた。

初夏の風は、若葉と陽射しの匂いを含んで、そっと窓枠を撫でていった。


それは、ひどくありふれた午後だった。


胸を揺さぶるような出来事が起きるわけでもなく、乗り越えるべき試練があったわけでもなかった。

ただ、陽の光と、舞う埃と、紅茶の香りと、互いのそばにいられる静かな時間だけがそこにあった。


けれど、そんな当たり前こそが、かつて“存在”の縁を揺れていた立花美里にとっては、何よりも尊く、きらきらと輝く贈り物だった。


彼女はここにいて、みんなと一緒にいた。


この先の道はまだ長い。

迷うこともあるだろうし、風雨にさらされる日もきっと来る。

それでも、この瞬間だけは、陽射しはちょうどよく、風もやさしかった。


そして彼女の心の中、かつて荒れ果てていた土の上には、もう新しい種がひそやかに芽吹き、静かに育ちはじめていた。


立花は視線を戻し、もう一度ペンを手に取って、新しいページを開いた。

その口元には、自分でも気づかないほど穏やかで静かな笑みが、そっと浮かんでいた。

【あとがき】


ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!


次回、第八章「観察――妹の恋物語?」は、第二章以来の流れに近い、日常寄りのエピソードになります。


新しいキャラクター個人編へつながっていく、少し軽めの導入編です。


妹・杏をめぐる“何か”も、そろそろ動き出す……かもしれません。


もし作品を気に入っていただけたら、


ブックマークや⭐評価で応援していただけると、とても励みになります。


それでは、次回もよろしくお願いします!

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