第六章 走る――彼女らしい姿
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「先輩!?」
緒山の声で、石原ははっと我に返った。
視界に映るのは、行き交う生徒たちだけだった。立花の姿は、もうどこにもない。
「今の……美里ちゃんの声だよね? どこにいるの?」
緒山は焦った様子で周囲を見回した。だが、どこにも姿は見えない。
「……俺は見てない」
石原は胸の奥で渦巻く感情を押し殺した。
ここで事情を知らない緒山に探させても、無駄になるだけだ。下手をすれば、また立花を刺激しかねない。
「緒山さん」
ひとつ、深く息を吸う。声は低く、しかしはっきりとしていた。
「立花さんの状況は、少し特殊だ。
距離を置いたほうがいいし……見つけるにも方法はある」
「緒山さんは先に教室へ戻ってくれ。いつも通り、周りに気づかれないように」
「立花さんのことは、俺に任せてほしい」
その目に宿る強い不安を見て、石原はわずかに声を和らげた。
「必要になったら、すぐ連絡する。
だから今は――俺を信じてくれ」
緒山はじっと彼を見つめた。
その瞳には、普段見せない焦りと、確かな決意が浮かんでいた。
問い詰めたい衝動よりも、信じたい気持ちが勝った。
彼女は小さくうなずき、鞄からスマートフォンを取り出して見せた。
「ちゃんと連絡してね、先輩。絶対に……見つけて」
ちょうどそのとき、始業のチャイムが鳴り響いた。
二人は校門の前で、手早く別れた。
緒山は校舎へ駆け出し、石原はその場で踵を返した。人の流れに逆らい、そのまま校内の奥へと走った。
――必死に、探し続けた。
図書館。中庭。部室棟の裏。林の中。
名を呼び続ける声は、やがて焦りを帯び、次第にかすれていった。
だが返ってきたのは、虚しく響く自分の声と、通りすがりの訝しげな視線だけだった。
彼は、すべての気配を断ち切るように身を隠している彼女を――見つけられなかった。
ただ、見つからない――それだけじゃなかった。
その感覚が、余計に胸を締めつけた。
本来なら、自分には“視える”はずなのに――
その特別な力が、今はまるで働いていない。
無力感が、じわじわと全身を覆っていった。
“視える”という自分の力すら、信じられなくなりそうだった。
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【Another View――立花美里】
石原の視線がかすめていく、人の流れの端で。
廊下の曲がり角、木陰の下――
立花は、ずっとそこにいた。
“消える”制服を着たまま、下唇を強く噛みしめていた。
爪が掌に食い込んでいた。
痛みで、声が漏れないよう無理やり抑え込んでいた。
音も立てない影のように――
離れた場所から、頑なに彼の後ろを追い続けていた。
最初に感じたのは、冷えきったような感覚だった。
「……ほら、やっぱり。先輩も、もう見えてないんだ」
けれど――
花壇のそばで、彼が背を向けたまま足を止め、息をついた――そのとき。
胸の奥に、負けたくない気持ちがふっと湧き上がった。
立花は木の陰から、そっと半身だけ顔を出した。
その背中に向かって、思いきり変な顔をしてみせた。
鼻にしわを寄せて、舌を出した。
いつも生徒会室で、言い合いになったときみたいに。
やった瞬間、心臓が喉まで跳ね上がった。
――でも。
石原は、まったく反応しなかった。
手でこめかみを押さえたまま、疲れた目で遠くを見ているだけだった。
「……」
立花はすぐに木の後ろへ身を引っ込めた。
ざらついた幹に背中を押しつけた。
胸の奥が、すっと冷えていった。
残っていたわずかな期待も、そこで消えた。
さっきまでの麻痺が、少しずつ胸を刺すような感情へと変わっていった。
「もう、見えてないのに……」
胸の奥に、じわりとした感情が広がっていった。
もう一度、試した。
廊下で彼が歩いてくるのを見て、先回りした。
わざと足音を強く立てた。
耳に残るほど、大きく。
それから、彼の視界に入りそうな位置で、体を少しだけ向けた。
――なのに。
石原は足を止めなかった。
そのまま、何もないみたいに通り過ぎていった。
「もう放っておいてよ……!」
喉までせり上がる声を、必死に飲み込んだ。
「そんなに頑張られると……」
自分が、どんどん――
消えていく――邪魔な存在になっていく気がした。
その気持ちは、さらに膨らんでいった。
少しだけ、行き場のない苛立ちも混ざっていった。
「先輩が……無理に変えようとするから……」
浮かんだその考えに、自分でも震えた。
すぐに、強い罪悪感に押し潰された。
そんなこと、思っていいはずがないのに。
優しさだって、ちゃんとわかっているのに。
――それでも。
わからない気持ちは、消えてくれなかった。
「先輩は、もう十分やってくれたよ……」
また、彼が足を止めた。
あてもなく、周りを見回していた。
立花は息を整えて、意を決した。
彼の真正面に立った。
そして、何度も手を振った。
――「あっち行って」
届かない。
視線は、彼女を通り抜けて――
背後の掲示板へと向き、やがて静かに逸れていった。
「……もう、終わりでいいよ。先輩のためにも」
心の中で、何度も繰り返した。
そう言い聞かせることでしか、離れる勇気を保てなかった。
それでも――
石原は重い足取りで校舎前まで戻ってきた。
壁に背を預け、そのままゆっくりとしゃがみ込み、腕に顔を埋めた――そのとき。
いつもはまっすぐ立っているその背中が、今は小さく丸まっていた。
そんな姿は見たことがなく、ひどく疲れて見えた。
自分に言い聞かせてきた理由も――
彼を突き放そうとしていた決意も――
その光景を前に、全部崩れていった。
――離れたくない。
本当に彼の世界から消えてしまうことを想像しただけで。
もう二度と、この背中を見られなくなると思っただけで――
胸が苦しくて、息が詰まりそうになった。
――苦しい。
自分が消えることよりも。
自分のせいで、あんな顔をさせていることのほうが――ずっと。
こんな感覚は、初めてだった。
涙が、前触れもなく溢れ出した。
体が震えた。
それでも、唇を強く噛んで、声だけは漏らさなかった。
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スマホが震えた。春野と緒山からだった。
緒山:「石原先輩、どうですか?」
春野:「石原、どこ行った? 立花のことか?」
石原は壁にもたれ、目を閉じたまま指だけを動かした。
「まだ探してる。少し厄介だ。昼休み、生徒会室で話す」
送信すると、そのまま壁に体を預けた。
見えるはずなのに、何もできない。
それが、どんな疲れよりもつらかった。
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【昼休み・生徒会室】
空気が、重かった。
石原の声は低いままだった。それでも、はっきりと響いた。
今朝、校門で起きたこと。
イチョウの木の下で待っていた立花。
目の前を通ったのに、気づけなかったこと。
崩れるように泣いていたこと。
そして、午前中ずっと探し続けて、見つけられなかったこと。
全部、隠さずに話した。
“代価”のことも、“存在感が薄れる”ことも。
「……それで、一人でずっと探してたのか?」
腕を組んだ春野が、眉をひそめた。
「守りたいのはわかる。でもさ、こういうのは先に言えよ。
俺たちだって、見えなくてもできることくらい、考えられるだろ」
石原はこめかみを押さえた。声が少しかすれた。
「言って……どうする。
近くにいるのに見えない、それをお前らにも味わわせるのか。
それとも、見えないまま探して、かえってあいつを追い詰めるか」
「でも、先輩一人じゃ抱えきれません!」
緒山が思わず口を挟んだ。
「もし……もし先輩でも、うまくいかなかったら?
美里ちゃんには、私たちみんなが必要なんです」
「必要なのは、それじゃない」
ずっと黙っていた花野が、本を閉じて言った。
あの無機質な目が、ゆっくりと全員をなぞった。
「本人が来ていない以上、こちらから関わるべきではない。
過剰な意識は、むしろ逆効果」
春野が苛立ったように頭をかいた。
「じゃあ、何もせず待つのかよ」
「鍵はお前だ、石原」
花野の視線が向いた。声に起伏はない。
「現状、唯一安定している“アンカー”だ。やり方自体は間違っていない。
だが状態が悪い」
「焦りすぎている。全部、自分で背負い込んでいる。
その焦燥は、相手に“厄介な存在として扱われている”という感覚を与える」
言葉が、鋭く突き刺さった。
室内が、しんと静まり返った。
石原は何も言えなかった。
喉が詰まった。頭の中も、ぐちゃぐちゃだった。
「……悪い。ちょっと外、行ってくる」
立ち上がった。誰の顔も見ずに、ドアを開けた。
背後で扉が閉まった。
中からは、春野の抑えた声と、緒山のなだめる声が、かすかに聞こえていた。
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石原は廊下の壁にもたれたまま、顔を上げ、目を閉じていた。
――うまくいかない。
――全部、自分のせいだ。
無力感。
焦り。
不安。
ぐちゃぐちゃに絡まって、離れなかった。
……急ぎすぎていた。
気づけば――
一人で抱え込むことばかり考えていた。
シャツ越しに伝わる冷たさ。
それが、少しだけ頭を冷やした。
息を吸った。
ゆっくり吐いた。
手で軽く頬を叩いた。
――思い出す。
ここ数日のこと。
断片が、ひとつずつ浮かび上がってくる。
見過ごしていたものが、遅れて形を持ち始めた。
水の底に沈んでいたものみたいに。
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【ある日の昼休み】
立花が、少しだけぎこちなく――
それでも勇気を出して、生徒会室から石原を連れ出した。
「ちょっとだけ、いいですか」
そんなふうにして。
二人で、屋上へ上がった。
日陰。
給水タンクのそばに並んで座った。
静かだった。
けれど風が強くて。
灰色がかった長い髪が、何度も乱れた。
そのたびに、手で押さえていた。
ふいに――
「……あのさ」
ぽつりと。
「佐藤って……別に悪い人じゃないって、わかってる」
視線は、遠く。
白くかすれたトラックに向いていた。
声は、風に流されそうなくらい小さかった。
「昔から、ああいう感じでさ。
目、すごくまっすぐで……」
少し、間があった。
「……ああやって見られると、
もっと走れる気がしてた」
手の中の、おにぎり。
ぎゅっと握った。
包装が、小さく音を立てた。
「……でも、今は」
さらに小さくなる声。
「ちょっと……あの視線が怖い」
うつむいた。
前髪が落ちて、表情が見えなくなった。
「人が怖いっていうより……」
途切れた。
「……あんなふうに、明るい場所のすぐそばにいるとさ」
言葉を選ぶみたいに、ゆっくり。
「自分の影、すごく薄く見えない?」
一拍おいて。
「なんていうか……
どうでもいいものみたいに」
ほとんど、聞き取れないくらいだった。
言い終えたあと。
はっとしたように、急に動いた。
おにぎりを大きく口に押し込んで――
無理やり噛んだ。
視線は、膝に落ちたまま。
――あのとき。
石原は、ただ「……そうか」とだけ返した。
軽くうなずいただけだった。
昔の話だと思っていた。
今とのギャップに戸惑っているだけだと。
だから――
支えよう、と思った。
……でも。
違った。
あいつが怖がっていたのは――
佐藤じゃない。
“誰かの光の中で”
自分が薄れていくこと。
存在が、消えていくような感覚。
――それ自体だった。
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今になって――
あのときの会話が。
一言一言が。
張りつめていた横顔。
風に乱されていた髪。
無理に飲み込んでいた、あの仕草。
――全部、繋がった。
ようやく、理解した。
ここ数日の“試み”。
あれは、過去と向き合うためじゃない。
“代価”が深くなることへの恐怖。
それと戦っていただけだ。
制服を着て。
“見えない存在”として扱われる痛みに耐えて。
まるで、きつい課題をこなすかのように。
でも――
心の奥では、ずっと同じ考えを抱えたままだった。
佐藤みたいな、ああいうまっすぐで強い光の隣に立ったとき。
飾りを全部外した自分は――
色を失って、薄くなって。
もう、あの視線を向けてもらえなくなるんじゃないか。
彼女が怖がっているのは、“消える”ことじゃない。
自分らしさが、溶けていくこと。
かつて自分を見上げていた後輩の前で――
「あの程度だった」と思われること。
あの華やかな服は、その不安に抗うための鎧だった。
そして“代価”は、その鎧を――彼女から外せなくしている。
……花野の言った通りだ。
急ぎすぎていた。
引き戻すことばかり考えて――
足元にあるものを、見ていなかった。
比べられる中で生まれる不安。
自分の存在が、意味を持てなくなる怖さ。
そこが――一番の問題だったのに。
これまでの“支え方”も。
もしかしたら――
「ちゃんと特別でいろ」
「見られる価値を証明しろ」
そう、無意識に押しつけていたのかもしれない。
「……今度こそ」
石原は立ち上がった。
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そのとき――
やわらかな白い光が、不意に差し込んだ。
すぐ近くで。
石原は目を見開いた。
振り向いた。
立花が、そこにいた。
制服じゃない。
深い青のワンピース。
裾の細かな装飾が、廊下の薄明かりを受けて、かすかにきらめいていた。
涙の跡は乾いていた。
でも、目は赤いままだった。
【立花美里の感情:@#、$*%】
石原を見た。
かすれた声で。
「先輩……もう、探さなくていいです。
みんなと、言い合いなんてしなくていいです」
一度、言葉が途切れた。
声が、揺れた。
「“代価”……もう、こうなっちゃいましたから」
――息が止まった。
「先輩がいなければ、私はそのまま消えていくだけです。
そのほうが……あの感じを、もう味わわなくて済みます」
その言葉が。
冷たい針のように――突き刺さった。
ここ数日、張りつめていたもの。
“責任”。
“なんとかする”という気持ち。
全部、一気に弾けた。
溜まっていた疲れ。
消えていく彼女を見た恐怖。
見つけられなかった焦り。
そして――
今、目の前で、それを否定されたこと。
全部が沈んでいった。
別の形になった。
重くて、鋭い何かに。
顎に力が入った。
「……あの感じを、もう味わわなくて済む?」
一歩、踏み出した。
「その格好で、ここに立って――
全部俺のせいみたいに言うのか」
低く。
「楽だよな。
俺を遠ざければ、それで済むんだから」
さらに一歩、踏み出した。
「また殻に戻って、
“私はただ消えていくだけ”って顔してればいい」
吐き捨てるように。
「それ、消えてるんじゃない」
一瞬の間があって。
「逃げてるだけだろ」
その言葉は――
閉じたままの彼女の内側へ、強く打ち込まれた。
「さっき……ついてきてただろ」
低く、押し殺した声。
「俺が、目の見えないやつみたいに……あちこち探し回ってるのを見てて。
それでも――声、かけなかった」
わずかな沈黙。
「そのとき、何考えてた」
間を置く。
「“ほら、やっぱり。先輩ももう見えなくなってきた”――か」
さらに、間を置く。
「それとも……“よかった、まだ探してくれてる”か」
立花の肩がびくりと震えた。
視線を逸らす。
指が、スカートの裾を強く握る。
張りつめていた表情が――崩れかける。
「屋上で言ってたよな」
石原は続ける。
「他人の光のそばに立つと、自分の影が薄く見えるって」
一歩、詰めた。
「じゃあ今はどうだ」
低い声。
「もう“影”すらいらないって思ってるのか。
いっそ――何もないほうが楽だって」
立花の呼吸が乱れた。
「何も期待しなければ――失望もしない」
短く区切る。
「比べられもしない。
誰かの足を引っ張ってるって思わなくて済む」
「もういい……やめて……!」
かすれた声。
「やめる?」
石原の声が、わずかに強くなる。
「やめない」
一歩。
「全然、足りてない」
怒り。
けれど――向いている先は彼女じゃない。
彼女が選ぼうとしている“形”に向いている。
「俺は、腹が立ってる」
抑えたまま。
「立花さん。今のお前の、その“これでいい”って顔に」
息が荒くなる。
「怖がってるくせに。
あれだけ震えてたくせに」
一拍。
「もうどうにもならないって顔して、全部終わりみたいにしてる」
言葉が詰まる。
それでも――続けた。
「それなのに……」
少しだけ、声が揺れた。
「俺に見えてるかどうか、気にしてるだろ」
わずかな沈黙。
「気にしてるから、隠れた」
さらに低く。
「“いつか俺にも見えなくなるかもしれない”って、そう思ってるから」
押し出すように。
「なのに――遠ざけることでしか、言えないのかよ」
「違う!」
立花が顔を上げた。
叫んだ。
でも――
涙が、先に溢れた。
「先輩はわかってない!」
声が震えた。
「見えてるって言っても……ずっと見える保証なんて、ないじゃないですか!」
息が乱れた。
「今朝だって……今朝、見えてなかったじゃないですか!」
言葉が途切れそうになった。
それでも、続けた。
「“代価”は進んでるんです!
私、ちゃんとやりました……でも、ダメだった!」
「このままじゃ……すぐに――」
声が崩れた。
「他の人と同じになります。
目の前で叫んでも……見えない、聞こえない」
荒い息が漏れる。
体が小刻みに震える。
「そのとき……そのとき……」
言葉が出なかった。
代わりに――
手が動いた。
襟元を掴み、引き裂くように強く引っ張った。
この服を脱げば。
戻れる。
“安全な場所”に。
見られなくてもいい場所に。
――逃げる。
「立花!」
石原の声が響く。
一瞬で、迷いが消えた。
踏み出した。
距離を詰めた。
背後から――抱きしめた。
強く。
動きを止めた。
体が硬直した。
抵抗した。
それでも――離さなかった。
腕の中に、閉じ込めた。
「落ち着け!」
耳元で、はっきりと。
「こっち見ろ。聞け」
早口で。
でも、揺れない。
「俺は見えてる」
一語ずつ。
「今、見えてる」
わずかな間。
「触れてる」
続けて。
「髪も。肩も」
息がかかる距離で。
「ここで震えてるのも――全部、わかる」
強く。
「全部、本物だ」
「俺はここにいる」
――それでも。
震えは止まらなかった。
すすり泣きが混ざった。
細く。途切れ途切れに。
石原は感じていた。
腕の中の震え。
思い出した。
あのときの、崩れ方。
――そして。
ふと、よぎった。
緒山の声が、脳裏によみがえる。
『美里ちゃんの頭って弱点なんだよ?
触るとすぐ大人しくなるの。猫みたいに――あ、先輩に教えたら危ないかな〜』
あのときは、笑って流した。
でも――今は。
迷ってる時間はなかった。
少しだけ、腕を緩めた。
片手を上げた。
そっと――頭に触れた。
やわらかい髪。
掌に、その感触が残った。
ゆっくりと、一定のリズムで、静かに撫でた。
――一瞬。
体の力が、抜けた。
はっきりとわかるほどに。
震えが、止まった。
抵抗も――止まった。
すすり泣きが、小さくなった。
細く。途切れながら。
背中の強張りが、少しずつ解けていった。
……落ち着いていった。
そのまま。
何も言わずに、抱かれたままでいた。
頭は下がったまま。
力が、抜けていた。
石原は、そのまま支えていた。
離さなかった。
――息だけが、重なっていた。
廊下には、それしかなかった。
遠くで、校内のざわめきが、かすかに聞こえていた。
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「――コツ」
生徒会室の扉が、わずかに開いた。
隙間から、いくつかの視線がそっとのぞき込んでいた。
先頭にいたのは、緒山。
いつもの笑顔はなかった。
石原と――その腕の中の立花を見た。
何も言わなかった。
ただ、立っていた。
その後ろには、春野がいた。
眉を寄せた。
石原と立花を見た。
口を引き結んだまま、黙っていた。
さらに奥には――
花野が影の中に立っていた。
その視線が一瞬だけ――
石原の手――立花の頭に置かれたその手に、止まった。
――すぐに外した。
その横には、杏がいた。
緒山の服の裾をぎゅっと掴んでいた。小さな手で。
兄と立花を見て――唇を噛んだ。
時間が、止まったみたいに。
――数秒。
動いたのは、緒山だった。
そっと扉を押した。
開けた。
二歩、前へ進んだ。
少し距離を取って――しゃがんだ。
立花の高さまで、目線を落とした。
「……美里ちゃん」
やわらかく。
「見えたよ。全部」
立花の体が、かすかに揺れた。
「先輩、ちゃんと見つけたね」
少し間を置いて。
「それと――私たちも」
まっすぐ。
「今、ちゃんと見えてる」
視線を、外さなかった。
春野も歩み寄った。
頭をかいた。
「……その、なんだ」
軽く咳払いをした。
「廊下で抱き合ってるのは、さすがに目立つだろ」
少し間を置いて。
立花を見た。
「中、戻るか。ここじゃ話しづらい」
そのときにはもう――
花野は中に戻っていた。
何も言わないまま。
席に、湯気の立つ麦茶を置いていた。
二人分。
杏が、小さく口を開いた。
「……美里ちゃん」
控えめな声で。
「お兄ちゃん、すごく心配してたし……
私たちも……」
言葉がつかえた。
それでも。
「中、入ろ……?
あの……お菓子、作ってきたから」
どこかぎこちない。
でも――まっすぐ。
石原の腕の中。
さっきまで抜けていた力が――
ほんの少し、戻った。
気配でわかった。
石原は、ゆっくり腕を離した。
それでも、すぐ横に手を残した。
支えられる位置に。
緒山が上着を持ってきた。
そっと、肩にかけた。
立花は――
ゆっくり、顔を上げた。
ぼやけた視界の中。
見えた。
緒山。
春野。
花野。
杏。
全員――
自分を見ていた。
あの感じ。
ずっとまとわりついていた、あのズレ。
――今は、ない。
視線が、重なった。
離れなかった。
「……わたし……」
声がかすれた。
涙が、また落ちた。
緒山が手を伸ばした。
冷えた指を――そっと握った。
「大丈夫」
小さく。
「中、行こ。ね?」
立花は、その手を見た。
それから――周りを見た。
最後に、石原を見る。
目が合った。
ほんの少しだけ。
――うなずいた。
緒山に手を引かれて。
ゆっくり、歩いた。
生徒会室へ。
扉が、静かに閉まった。
中の空気。
木の匂い。
懐かしかった。
ここで――
最初に“見せた”。
最初に、制服で座った。
――ここは。
自分の、最初の場所。
そして――
そこにいる全員が。
今、ちゃんと。
自分を見ていた。
---
緒山に手を引かれ、立花は席に座らされた。
春野から渡された温かい水を、両手で包んだ。
指先が、震えていた。
視線は落ちたまま。
誰の顔も、見られなかった。
――視線。
いくつも。
自分に向いていた。
石原は窓際にもたれていた。
少し離れた場所から、静かに立花を見ていた。
何も言わなかった。
室内は静かで――
外の音だけが、かすかに入り込んでいた。
「……三年B組、隊列集まれー!」
立花は、反射的に顔を上げた。
窓の外。
校庭の一角。
旗が揺れていた。
光が、強かった。
「――ああ、そういえば」
春野が外を見たまま言った。
「明後日だな」
緒山のほうを見た。
そのまま、二人で話し始めた。
準備のこと。
段取りの確認。
――体育祭。
その言葉が、自然と胸に浮かんだ。
立花の指に、ぎゅっと力が入った。
まだ、怖い。
けれど――
さっき。
しっかり支えられた感触。
囲まれていた、あの感じ。
その中で――
別の何かが、少しだけ動いた。
……悔しいのか。
それとも――
少しだけ。
やってみたいのか。
石原の声が、まだ残っていた。
『……見てみろよ。
あの場所に立ってる自分を』
『飾りなんてなくても――』
――自分。
あの光の中で。
立てるのか。
みんなは――
もう一度、そんなわがままを受け止めてくれるのか。
体が、わずかに揺れた。
顔を上げた。
窓際。
石原と、目が合った。
「……体育祭」
声が小さかった。
「私……やってみたい」
一度、息を吸った。
視線を上げた。
みんなを見た。
「その……ああいうのじゃなくて」
言葉を探した。
「制服で……ただ、見てみたい」
「いいじゃん!」
緒山が、笑った。
春野がうなずいた。
「いいと思う。どうする?
見るだけか、少し出るか」
花野は何も言わなかった。
口元だけ、わずかに動いた。
杏が、小さな声で言った。
「美里ちゃん、がんばって……!」
――否定はない。
全部。
その気持ちごと、受け止められていた。
立花は、ぼんやりとそれを聞いていた。
胸の奥に詰まっていた重さが――
少しだけ、ほどけていった。
石原が歩いてきた。
数歩手前で、止まった。
「立花さん……」
声は、いつもより少しだけやわらかかった。
「今回行くなら――」
少し間を置いて。
「隠れて見るのか。
それとも……ちゃんと立って、見るのか」
立花は、言葉を失った。
隠れて――
それで、何になるのか。
でも――
じゃあ、自分は何をしたいのか。
わからない。
意識が、遠くへ流れていった。
耳元をかすめる風。
ゴールを切ったあと、焼けるような肺。
限界の先で、ふっと抜けていく感覚。
あのとき。
汗だくで。
ただ――走ることだけを考えていた。
「……どこまでできるかは、わからないです」
うつむいた。
声は、小さかった。
自分に言い聞かせるみたいに。
「でも……ちょっとだけ」
言葉を探した。
「もう一回、行ってみたいです」
顔を上げた。
石原を見た。
「試合とかじゃなくて……
何かのためでもなくて」
少し間を置いて。
「ただ……もう一回、走ってみたい」
迷いながら。
「……それでも、いいですか」
石原は、少しだけ笑った。
それから――春野を見た。
「よし。じゃあ次は、体育祭の段取り決めるか」
「……あ」
緒山が、ふと指さした。
立花のスカートを。
「ここ……引っかかってる?」
立花は下を見た。
脇のあたりが、少し裂けていた。
内側の布が、のぞいていた。
頬が、わずかに赤くなった。
どうしていいかわからない。
緒山が、石原をちらっと見た。
石原は視線を外した。
「お兄ちゃん、ちょっと雑だよ……」
杏が、小さくつぶやいた。
「……ごめん」
立花が、かすかに言った。
「それじゃ、ダメだね」
緒山が立ち上がった。
にこっと笑って、手を差し出した。
「ほら、直しに行こ。
ちょうど予備の体操服あるし、先にそれ着ちゃお?」
少し間を置いて。
「破れたままだと、気分も落ちるでしょ」
「でも……」
「行こ〜」
少し迷って――
うなずいた。
手を引かれて、部屋を出た。
――数分後。
二人が戻ってきた。
立花は、深い青の体操服に着替えていた。
袖は少し長かった。
ズボンも、少し余っていた。
灰色がかった長い髪は、後ろで簡単にまとめられていた。
涙の跡は消えていた。
さっきより、少しだけすっきりして見えた。
「お、戻ったか」
春野が顔を上げた。
「ちょっと大きいな。でも――悪くない」
【春野陽明の感情:疑問24、その他76】
頬をかきながら、立花を見た。
「そういやさ……さっき、外で着替えてきたよな」
石原を見た。
「前に言ってたろ。
普通の格好だと、あんまり気づかれないって」
もう一度、立花へ視線を向けた。
「でもさっき、普通に見えたし。
今も、ちゃんと見えてる」
首をかしげた。
「ちょっと違くないか?」
――一瞬、静かになった。
立花の指が、ぎゅっと袖を掴んだ。
石原の視線が動いた。
春野。
立花。
――はっきりと、見えている。
安定して。
……軽くなってるのか?
すぐには言わなかった。
胸の奥に、押し込んだ。
それでも――
視線は、また立花へ向いた。
立花も、顔を上げた。
目が合った。
一瞬。
胸が、わずかに跳ねた。
――あの感じ。
さっきまでとは、違う。
「……」
言葉にはならなかった。
けれど――
少しだけ、軽かった。
石原が、ごく小さくうなずいた。
視線を外した。
でも立花は――
まだ、その瞬間に残っていた。
ゆっくり、視線を落とした。
袖を、指で握った。
ざらついた布の感触が、指先に残った。
――何かが、少しずつ変わりはじめていた。
---
話し声は、少しずつ小さくなっていった。
生徒会室の中も、いつの間にか夕暮れの色に染まっていた。
春野が大きく伸びをして、立ち上がった。
「うわ、もうこんな時間か。緒山、教務室の書類、まだだろ?」
「え? あ、ほんとだ!」
緒山は、ぱっと動き出した。
手際よく、机の上を片づけていく。
花野は、もう本を閉じていた。
「図書館、予約してた時間」
それだけ言って、立ち上がった。
杏も椅子からぴょんと降りた。
「杏も朋奈さんと行く!」
そう言って、緒山のそばへ駆け寄った。
そのまま、くるっと振り返って――
立花に、小さくウインクした。
一人、また一人と部屋を出ていった。
扉が、静かに閉まった。
――音が、すっと遠のく。
残ったのは、外から聞こえる鳥の声と、
その場に動かないままの、二人だけだった。
立花は、体操服の裾を指でつまんだ。
落ち着いたはずの鼓動が、また少しだけ速くなった。
石原は少しだけ黙ってから、
立花へ視線を向けた。
「……少し歩くか」
そう言って、窓の外を指した。
その先には、夕焼けに染まった校内が広がっていた。
「適当にな。座りっぱなしだったし」
立花は一瞬迷って――
小さく、うなずいた。
外の空気を吸いたかった。
今日のことを、このまま胸に抱えたままではいられなかった。
胸の奥に、何かが小さく引っかかっていた。
――それも含めて。
---
夕方の校内は、静かだった。
桜の葉が、風に揺れていた。
さらり、と葉擦れの音がした。
光と影が、地面に揺れていた。
二人は、少し距離を空けて歩いた。
並ぶでもなく、離れるでもなく。
足音が、前後にずれて――
少しずつ、重なっていく。
「……何かしなきゃって、思わなくていい」
石原が、ふいに言った。
低い声が、風に溶けるように響いた。
「体育祭も――」
そこで、ひと呼吸置いて。
「今みたいに、入って、見て、感じればいい」
言葉を区切るように、石原は静かに続けた。
「いけそうなら、そのまま行けばいい。
無理なら、立ち止まってもいい。帰ってもいい」
少しだけ間を置いて、
「やらなきゃいけないわけじゃない」
そして、
「……取り戻すだけでいい」
その言い方は、さっきより少しだけゆっくりだった。
「もともと、自分にあったものを」
石原は、横目で立花を見た。
「例えば――」
ほんの一拍置いて、
「こうして、普通に歩ける感じとか」
「特別な服がなくても」
それだけ言った。
立花は、足元を見た。
地面には、伸びた影。
細く、長く伸びていた。
――前なら、
こうして歩くことが、怖かった。
でも、今は。
風が、頬に触れた。
それが、はっきりわかった。
隣の足音も、
自分の鼓動も、
ちゃんとそこにある。
怖さは、消えていない。
でも――
もう、全部を呑み込まれたりはしない。
その代わり、
胸の奥で、小さく動いているものがあった。
……何か。
まだ、はっきりしない。
でも、消えない。
角を曲がった、その先。
校舎の影が落ちる通路に、
向こうから、女子が二人歩いてきた。
しかも、同じクラスの子たちだ。
色紙と絵の具を抱え、笑いながら歩いてくる。
――その瞬間。
体が、固まった。ほとんど反射的に、視線が落ちる、顔を伏せた。
いつもの、動き。
前を歩いていた女子が、ふとこちらに視線を向け、そのまま立ち止まった。
にこっと笑って手を上げる。
「――あ、立花さん! まだ帰ってなかったの?」
立花は、はっと顔を上げた。
……見えてる?
「さっきまでクラスの掲示物つくっててさ、めっちゃ疲れた〜」
もう一人もこちらを見て、目を丸くする。
「え、立花さん、その格好……体操服? 珍しくない? なんか、かわいいじゃん」
向けられる声も視線も、どこまでも普通だった。
自分をすり抜けていくような感覚もなければ、まるで存在しないみたいに素通りされることもない。
立花は、その場に立ち尽くした。
……見えてる。
体操服のままでも。
何も変わっていなくても。
そのままの自分で、ちゃんと見えている。
石原は隣で足を止め、何も言わずに見ていた。
「わ、私……」
立花は口を開いたが、声が少し喉につかえた。
それでも、小さく笑う。ぎこちないけれど、それでよかった。
「ちょっと……用事で。二人とも、お疲れさま」
女子たちは石原をちらりと見て、互いに目を合わせてくすっと笑い、軽く手を振ってそのまま通り過ぎていった。
姿が見えなくなっても、立花はしばらくその場に立ったままだった。
夕陽がその体をやわらかく包み込み、瞳の奥にはわずかに光が灯っていた。
やがて立花は振り向き、石原を見る。
口元にはさっきの笑みが少し残っていて、目にはまだ涙が滲んでいた。
それでも――
「……見えてた」
確かめるような声だった。
「私のこと」
「……ああ」
石原が短く返す。
立花は視線を落とし、袖をそっと引いた。
少し大きめの体操服を見下ろしながら、途切れ途切れに言う。
「これ着て……普通に……」
言葉は少し詰まった。それでも、ちゃんと続いた。
「ちゃんと、見えてた」
「……ああ」
風が二人のあいだをそっと通り抜けていく。
立花は息を吸って顔を上げ、夕焼けを見たあと、もう一度石原へ視線を向けた。
「先輩……体育祭……」
ほんの少し間を置いて、立花は続ける。
「行ってみたい」
石原はうなずいた。
「……ああ。行こう」
その言葉に、立花が笑う。
さっきより少しだけ大きな、飾らない、そのままの笑顔だった。
夕陽が二人の影を長く伸ばし、並んだその影は静かに重なっていた。
---
体育祭当日。
思っていたより、陽射しが強かった。
女子四百メートルの招集場所のそばで、立花は軽くストレッチをしていた。
泉方新高の標準の体操服。紺の半袖に短パン。
胸の校章は、少し擦れている。
特別なところはない。
ときどき、視線が横をかすめていく。
少し前なら、それだけで手のひらが汗ばんでいた。
でも、今は違う。
ゆっくりと呼吸を整え、ふくらはぎが伸びる感覚をそのまま受け止める。
「第三レーン、立花美里さん」
名前を呼ばれ、スタートラインへ向かう。
しゃがみ込み、ブロックを調整する。
指先でトラックをなぞると、ざらついた感触が伝わった。
何度も繰り返してきた動きだ。
審判が名簿を手に近づき、視線が立花の顔で止まる。
わずかに眉が寄った。
――あのときと同じ感覚。
一瞬、胸に引っかかる。
前なら、喉が詰まっていた。
鼓動が一拍だけ上がる。
それだけで済む。
立花は顔を上げ、軽くうなずく。
はっきりした声で言った。
「立花美里です。一年A組の、立花美里です。ここにいます」
審判の目から迷いが消え、うなずいて名簿に印をつけ、次へ進む。
立花は立ち上がり、視線を上げた。
観客席の端に、石原の姿がある。
距離は遠く、表情までは見えない。
それでも――いる。
視線を戻し、もう一度構え直す。
両手をラインに置く。
周りの音が、遠くなっていく。
残るのは、自分の鼓動だけだった。
ドク、ドク。
風の感触。
初夏の風が首の後ろをかすめ、草と土の匂いが混ざる。
スターターが銃を上げる。
視線を前へ向け、体を少し前に倒す。
余計なものは、もう何も出てこない。
頭の中にあるのは、ただ一つだけ。
風だけ。
――鳴る。
音が弾ける。
体が前に出る。
風が正面からぶつかり、口の中に流れ込む。
熱と土の匂いが混ざる。
呼吸と足の動きと鼓動が、ひとつに揃っていく。
左、右と足を運び、息を吸って吐く。
腕を振り、踏み込み、前へと体を傾ける。
考えない。
体が、そのまま動く。
――覚えている。
そのまま、進む。
きつい。肺が熱く、喉が乾く。
それでも、
意識は、はっきりしている。
その感覚を、そのまま受け止める。
最後の直線。
前にゴールが見える。
少し揺れて見えた。
一瞬だけ視線が上がり、あの場所を見る。
石原は、まだいる。
すぐに視線を戻し、残りを足に乗せる。
「――あれ、一年A組の立花美里! いつの間に先頭出てるの!?」
ゴールが、一気に近づいてくる。
そのままの勢いでゴールラインを越える。
数歩進み、ようやく止まった。
膝に手をつき、息を吐く。
汗がぽたりと落ちる。
――終わった。
風が、もう一度吹き抜ける。
さっきより少しやわらかい。
額の髪が揺れる。
立花は目を閉じ、大きく息を吸う。
空気が胸の奥まで、深く流れ込んでいった。
---
「美里ちゃん!」
杏が一番に駆け寄ってきた。タオルを差し出した。
目がきらきらしている。
「すごかった! 最後のとこ、思わず立っちゃった!」
立花はタオルを受け取り、軽く顔を拭いた。
そのまま、笑った。
「おつかれ、美里ちゃん」
緒山がキャップを開けた飲み物を差し出した。
「ペース、よかったよ」
春野は記録板を手にしている。
「最後のカーブから直線、よかったな。まだまだいけるじゃん、さすがだ」
立花は少し照れて、顔がさらに赤くなった。
花野は少し離れた場所から言う。
「効率的だった」
それだけだった。
立花は、みんなに囲まれていた。
声が重なり合う。
次々にかけられる言葉が、温かい流れのように包み込んでくる。
どれも自然だった。
気を使う感じもない。
避ける感じもない。
体操服のまま、汗だくのままでも。
それでも――
そのままでいられる。
---
そのとき。
石原が、誰かと一緒に歩いてくるのが見えた。
立花の呼吸が、ほんの少しだけ止まる。
――佐藤。
何度も、避けてきた相手。
その本人が、石原の後ろから歩いてくる。
目は明るく、嬉しそうで、そこに少しだけ緊張も混じっている。
立花の体が、わずかに固くなる。
でも――
それ以上は、来ない。
ボトルを握る手は、そのまま。
逃げない。
石原は少し手前で止まり、横にずれて道をあけた。
佐藤が一歩前に出る。
少しだけ頭を下げて、立花を見る。
「先輩! 見てました! あっちのスタンドで――すごくよかったです!」
まっすぐな声で、まっすぐな目で、ただ嬉しそうに。
立花は、そのまま見返す。
喉に、言葉が引っかかる。
――言えない。
いつもの言葉。
出てこない。
口を開くが――
「……ありがとう」
それだけが、やっと出た。
佐藤が、ほっと息をつく。
後頭部をかく。
少し、照れたように。
「実は……先輩が四百出るって聞いたとき、すごく嬉しかったんです」
少し言い淀んでから、表情が少し真面目になる。
「復帰とかじゃなくて……
先輩、もう走らないのかなって、思ってたんで」
視線を落とす。
自分のつま先を見る。
声が、少し低くなる。
「最近、あんまりトラックにいなかったから……
あの予選で負けたからかな、とか、高校で忙しいのかな、とか」
少し間を置いて、
「それとも……俺のせいかなって」
最後の言葉は、少しだけ小さかった。
立花の胸が、きゅっと締まった。
「違う……!」
思わず、声が出た。
思っていたより、強い声だった。
「違うの……佐藤くんのせいじゃない。
私が……私の問題で……」
そこで、言葉が止まった。
うまく言えない。
佐藤が顔を上げた。
その目はまっすぐだった。
「わかってます。先輩にも、考えがあったんですよね。でも――」
一度、息を吸ってから、
「伝えたくて」
少しだけ、声が強くなった。
「前、陸上部で一番すごいと思ってたのって、速さだけじゃなくて」
佐藤は、一つずつ言葉を重ねるように続けた。
「きつくて顔をしかめてるのに、止まらなかったところとか。
腕の振りを、何回も直してたところとか」
少し間を置いて、
「負けたあとも、泣かないで、ちゃんと振り返ってたところとか」
少しだけ、笑った。
「俺たちがサボると、怒って……でも最後は一緒に走ってくれたところとか」
口元がやわらいだ。
どこか懐かしそうな顔で、
「そういう先輩って、全然“完璧”じゃなくて」
いったん言葉を区切って、
「疲れるし、負けるし、怒るし」
ほんの一拍置いて、
「でも――それが、すごくいいなって思ってました」
まっすぐに、立花を見た。
「前の先輩も、今の先輩も――」
少し笑って、
「どっちも、俺にとっては同じ“立花先輩”です」
その瞬間、
立花の中で、何かが崩れた。
言葉にできないまま、
ただ、何かがすっと抜けていく。
息が、少しだけ軽くなった。
視界が揺れた。
涙が、にじんだ。
立花は、顔を下げなかった。
そのまま、涙を頬に伝わせた。
でも――
口元が、少しだけ上がった。
「……ばか」
声が震えた。
笑いながら、
「そういうの……今さら言う?」
佐藤が、困ったように笑った。
「前は、聞きたくなさそうだったから……」
立花は鼻をすすった。
袖で、乱暴に拭った。
「今は……聞ける」
少しだけ間を置いて、
「あと……ごめん。避けてた」
佐藤が、慌てて首を振った。
「全然! 大丈夫です!」
その勢いのまま、
「じゃあ、その……また一緒に走りませんか?
練習とかじゃなくて、軽く――みたいな」
少し照れたように、
「ペースとか、聞いたりしないんで!」
立花は、佐藤を見た。
少しだけ、息を吸った。
それから――
うなずいた。
「うん。いいよ」
笑った。
涙は、まだ残っていた。
――でも、そのまま。
少し離れた場所で、
石原が、その様子を見ていた。
何も言わない。
ただ、そこに立っているだけだった。
緒山が隣に来た。
軽く、腕に触れた。
視線だけで、何かを伝えるように。
春野は顎に手を当てて、
少しだけ、笑った。
騒がしさは、少しずつ引いていった。
その中で、
立花は、ゆっくり振り向いた。
夕陽のほうへ向かって。
大きく、息を吸った。
空気が、すっと入ってくる。
汗のにおい。
乾いた土のにおい。
温まった草の匂い。
その全部が、そのまま胸に落ちていく。
――それでいい。
そう思えた。
そのとき、
石原の視線が、少しだけ止まった。
立花の頭上で。
【立花美里の感情:喜び34、安堵46、感動20】
さっきまでと違う。
はっきりしている。
揺れない。
石原は、わずかに目を細めた。
――関係あるのか。
あの、ずっと引っかかっていたものと。
一つの推測が、彼の脳裏で瞬く間に形になった。
もしその推測が当たっているなら――緒山は……。
「え、えっ? “憧れ”は“好き”に入らないって、どういうことですか?」
「石原先輩って、ただの“頼れる先輩”なんですか? 先輩、それはちょっと他人行儀すぎません?」
佐藤の軽口が、思考を遮った。
少し離れたところでは、立花が顔を真っ赤にして、すっかりあたふたしていた。
「ち、違うって! 私はそんなこと言ってないもん! 先輩は、その……すごく面倒見がいいっていうか、すごく……頼れるっていうか……! 勝手に話を盛らないでよ!」
耳まで真っ赤になっている。思わず石原のほうをちらりと見て、すぐに視線を引っ込めた。
佐藤はその視線を追う。
立花と、遠くの石原とのあいだを何度か視線で往復すると、にやにやと笑みを深めた。
「石原先輩って、ほんといい人ですもんね。俺が女子だったら、たぶん――」
「んぐっ!」
立花が慌てて佐藤の口をふさいだ。
「だ、黙ってよ! それ以上変なこと言ったら……その……陸上部のみんなに言うからね! 中学のとき、練習をサボってコーチに十周走らされたことを!」
立花の顔はさらに赤くなり、その赤みは首筋にまで広がっていた。
夕陽の中で、そのオッドアイははっとするほど強くきらめいていた。そこには、図星を突かれたような狼狽と、まだ自分でも整理しきれていない、かすかな甘さのようなものが入り混じっていた。
「うわ、ひど……」
佐藤は両手を上げて降参の仕草をした。それでも、目はしっかり笑っていた。
「はいはい、もう言いませんって、言いませんって。……でも」
そう言って少し身を寄せ、声をひそめた。それでも、少し離れた石原にもかろうじて聞こえるくらいの声で。
「先輩、がんばってくださいよ。ちゃんと“追いついて”くださいね」
「さ、佐藤!」
立花は、今にも髪まで逆立ちそうなほど真っ赤になった。
石原は、数歩離れた場所に立っていた。
佐藤の言葉が、かすかに耳に届く。
表情はほとんど変わらなかった。けれど、耳のあたりだけが、どうにも少し熱を帯びていた。
石原は視線をそらし、遠くで器具を片づけているほうへ、目を向けたふりをした。
それなのに、鼓動だけがなぜか一拍ぶん遅れた。
……立花が、自分に?
その認識は、石原の胸にかすかな戸惑いを生んだ。どこか、ひどく落ち着かなかった。
石原は意識を引き戻した。さっきの推測へと。
視線は、自然と緒山のほうへ向いていた。
夕陽が彼女の横顔を淡い金色に縁取っていた。緒山はやわらかな目で、じゃれ合う後輩たちを見つめていた。
だが、石原の“感情視覚”の中では、彼女のまわりに浮かぶラベルは、相変わらず欠けたままの文字化けだった。
……緒山の執着は、いったい何なのだろう。
「ほら、もうそのへんで」
緒山が歩み寄ってきて、笑いながら立花の肩をぽんと押さえた。
「着替えに行こ? そのままだと風邪ひくよ」
「うん!」
立花は荷物をひっつかむように持ち上げた。
そのまま歩き出す前に、こっそり一度だけ振り返って、石原をちらりと見た。ほんの一瞬だけ、視線がぶつかった。
立花はすぐに前を向き直し、足早にその場を離れていった。
夕陽はさらに低くなっていた。校庭からは、少しずつ人の気配が引いていった。
石原は人の流れの少し後ろを歩きながら、前方にいる緒山の背中を見ていた。その足取りは軽やかだった。
石原は思い返す。彼女の身に浮かんでいた、あの欠けたままのラベル。それから、ときおり自分を見つめるその瞳に、一瞬だけよぎる複雑な感情。それが、どうしても頭から離れなかった。
立花美里の“小さな戦い”は、ひとまず一区切りついた。
だが、彼らの物語は、まだ終わってなどいない。
“執着”と“代償”、そして“視えること”の答えは、まだ何ひとつ明らかになっていなかった。
【あとがき】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
次回、第七章「風のあと――彼女の居場所」は、立花編の後日譚になります。
体育祭のあと、彼女が少しずつ取り戻していく日常を、短めのエピソードとしてお届けする予定です。
更新は1~2日ほどを予定しています。
もしこの作品を気に入っていただけたら、ブックマークや⭐評価で応援していただけると、とても励みになります。
それでは、次回もお付き合いいただけると嬉しいです!




