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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第一章 出会い――彼女の感情だけが、読めない(1)
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第四話

---


夕方。


家に帰って玄関を開けてから、石原は何度も大きなため息をついた。

それも一度や二度ではない。


その音に、寝室で漫画を読んでいた妹が顔を出した。


パンダのパジャマ姿で、(好きなキャラのコスプレらしい)

腕いっぱいに、テープで補強された漫画本を抱えている。


「ため息やめてよ~。今ちょうど泣けるシーンだったのに。お兄ちゃんのせいで台無し」


石原杏。

小さなポニーテールに、家の中でだけかける赤い丸メガネをしていた。

背は低く、整った顔立ちもあって、かなり小柄で可愛らしい。


けれど、よく知る人間はみんな分かっていた。

そのオタクっぽくて可愛い外見の裏に、同年代よりずっと鋭い頭脳を隠していることを、みんな知っていたのだ。


杏は泉方新高の一年生だった。

かなり重度のオタクで、アニメや漫画にハマると平気で一、二日学校を休む。

そのたびに「家族旅行」とか適当な理由をでっちあげた。とはいえ成績は優秀なので、先生たちもだいたい見て見ぬふりだった。


「じゃあ、もう一回吸い直してやるよ。ほら」


石原は笑いながら、わざと大きく息を吸い込む。

こんなふうに肩の力を抜いて笑えるのは、妹の前でだけだった。


「それよりさ、弁当ちゃんと食べた?」


「こんな可愛い妹の弁当だぞ? 残したらバチが当たる」


「なにそれ。褒めても何も出ないよ?」


杏はくすっと笑う。


【石原杏の感情:照れ47、喜び23、期待30】


石原は、妹をからかって笑わせるのが好きだった。

笑顔を見ながら、石原は手提げ袋からプリンをいくつか取り出した。


「ほら、頼まれてたやつ」


「ありがと、お兄ちゃん」


杏はぱっと笑顔になって受け取ると、ぴょこぴょこ跳ねながらソファへ座る。

嬉しそうにする妹を見て、石原も満足げにうなずいた。


「晩ごはん、テーブルにあるよ。自分で温めてね」


「ああ、神様ありがとう。こんな可愛い妹をくれて」


「私はお兄ちゃんの物じゃないから」


「じゃあ、神様ありがとう。俺をこんな出来た妹の兄にしてくれて」


「もういいから早く食べて!」


言葉の端々に、照れと嬉しさが混じっていた。


杏が満足そうにプリンを食べるのを見て、石原もつられて笑う。

兄妹の空気は、いつも通り穏やかだった。


杏はプリンを食べ終えたが、部屋には戻らなかった。

ソファに膝を抱えて座り、水を飲んでいる兄を見ている。


そして、ぽつりと口を開いた。


「ねえ、お兄ちゃん」


「ん?」


「まだ使ってるの? あの能力」


石原の手が止まる。


「……ああ。どうした?」


「ううん。別に」


杏は膝に顎を乗せた。


「たださ」


「お兄ちゃんって、いつも私が何考えてるか分かるでしょ。ずるいなーって思うんだ」


少し間を置いて続ける。


「私は、お兄ちゃんが何考えてるか全然分かんない」


顔を上げ、眼鏡を軽く押し上げた。


「お兄ちゃん、あのさ……」


石原の喉が詰まった。妹の顔をじっと見つめる。


「……やっぱり、何でもない」


【石原杏の感情:ためらい24、その他76】


不思議な能力を持っていながら、今の石原には、やっぱり妹の考えが読めなかった。


「……漫画読んでろよ」


結局、石原はそう言うだけだった。

妹の頭を軽く撫でて、答えを避ける。


杏は追及しなかった。

ただ少しだけ彼を見つめて、「……うん」と小さく返事をした。


---


その夜。


石原はベッドに腰掛け、スマホの画面を見つめていた。


春野とのチャット画面だ。

文字を打っては消し、また打っては消すのを繰り返していた。


(なんだよ……この感じ)


「へぇ~。人付き合いが苦手なお兄ちゃんが、そんなことで悩むんだ」


「っ!?」


石原の手が跳ねた。

振り向くと、いつの間にか妹が背後から覗き込んでいる。


「ど、どうやってってきた!?」


「普通に歩いてきたよ?」


杏はにやっと笑った。


「お兄ちゃん、別のこと考えててさ。ドア開けっぱなしだった」


石原は深く息を吸い、スマホをベッドに伏せた。


「変なこと考えるな。ただの……対人スキルの練習だ」


「はいは~い」


杏はわざとらしく声を伸ばし、隣に腰を下ろす。


「で、その『林の中のあの子』って、生徒会副会長の緒山朋奈先輩でしょ?」


石原は少し驚いた。


「知ってるのか?」


「知らない人なんていないよ?」


杏は指を折りながら数えあげていく。


「飛び級生。最年少の副会長。しかも可愛い。一年生じゃ普通に有名人だよ」


【石原杏の感情:真剣47、様子見32、その他21】


「……何が言いたい?」


杏は首をかしげた。メガネのレンズが光る。


「別に。たださ」


「緒山先輩って、ちょっと気になる人だなって思って」


「どういう意味だ」


「うーん……」


杏は少し考えるそぶりを見せる。


「いつも忙しそうなんだよね。時間が全然足りない、みたいな感じでも不思議と慌ててないし、全部きちんとこなしてる」


少し間を置いて、


「なんていうか……何かに追われてるみたい」


――時間が足りない。

石原は、杏の言葉でふと思い出した。


林の中で、緒山が言っていた言葉。「時間って大事なんです!」

そして、あのノートの一番下に、インクがにじんで書かれていた「……時間」。


「でもさ、お兄ちゃん」


杏は少し身を乗り出し、急に軽い調子で言った。


「さっき春野会長にメッセ送ろうとしてたよね? 『可愛い子に話しかけられたらどうすればいい?』みたいなやつ」


石原は固まった。


「ははっ!」


杏は、してやったりといった顔で笑う。


「安心してよ、お兄ちゃん。私は全力で応援するから!」


そこで一度言葉を区切ってから、


「まあ、緒山先輩ってほんと魅力的だけどさ――」


杏は立ち上がり、ドアのところまで歩くと振り返って、妙に真面目な顔で言った。


「犯罪だけはダメだからね」


「心配しすぎだ!」


ドアが閉まった。


石原は小さく息を吐き、もう一度スマホを手に取る。

ちょうどその時、春野から返信が届いた。


「とりあえず一回見てみるわ」


じっと見てるスタンプ付きだった。


(……なんだそれ)


石原はスマホを置き、そのままベッドに倒れ込んだ。


(緒山……その名前、なんとなく聞き覚えがあるなあ……)


天井には、窓の外の街灯の光がぼんやりと映っている。


――考えすぎだ。まだ会ったばかりだ。


石原は目を閉じた。


---


同じころ――103号室。


緒山朋奈はベッドの端に腰掛け、

手首の淡い青色のリストバンドをじっと見つめていた。

指先でそっと撫でる。大切な宝物に触れるみたいに。


彼女は目を細め、かすかに笑みを浮かべた。

それからベッドに倒れ込み、目を閉じた。

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― 新着の感想 ―
前4章まで読んだんですが、作者さんの人物描写がすごく繊細で良いですね。 今回の章は立花さんの個人回みたいで面白かった! これから他のキャラの話もたくさん見たいので、頑張ってください!
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