第四話
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夕方。
家に帰って玄関を開けてから、石原は何度も大きなため息をついた。
それも一度や二度ではない。
その音に、寝室で漫画を読んでいた妹が顔を出した。
パンダのパジャマ姿で、(好きなキャラのコスプレらしい)
腕いっぱいに、テープで補強された漫画本を抱えている。
「ため息やめてよ~。今ちょうど泣けるシーンだったのに。お兄ちゃんのせいで台無し」
石原杏。
小さなポニーテールに、家の中でだけかける赤い丸メガネをしていた。
背は低く、整った顔立ちもあって、かなり小柄で可愛らしい。
けれど、よく知る人間はみんな分かっていた。
そのオタクっぽくて可愛い外見の裏に、同年代よりずっと鋭い頭脳を隠していることを、みんな知っていたのだ。
杏は泉方新高の一年生だった。
かなり重度のオタクで、アニメや漫画にハマると平気で一、二日学校を休む。
そのたびに「家族旅行」とか適当な理由をでっちあげた。とはいえ成績は優秀なので、先生たちもだいたい見て見ぬふりだった。
「じゃあ、もう一回吸い直してやるよ。ほら」
石原は笑いながら、わざと大きく息を吸い込む。
こんなふうに肩の力を抜いて笑えるのは、妹の前でだけだった。
「それよりさ、弁当ちゃんと食べた?」
「こんな可愛い妹の弁当だぞ? 残したらバチが当たる」
「なにそれ。褒めても何も出ないよ?」
杏はくすっと笑う。
【石原杏の感情:照れ47、喜び23、期待30】
石原は、妹をからかって笑わせるのが好きだった。
笑顔を見ながら、石原は手提げ袋からプリンをいくつか取り出した。
「ほら、頼まれてたやつ」
「ありがと、お兄ちゃん」
杏はぱっと笑顔になって受け取ると、ぴょこぴょこ跳ねながらソファへ座る。
嬉しそうにする妹を見て、石原も満足げにうなずいた。
「晩ごはん、テーブルにあるよ。自分で温めてね」
「ああ、神様ありがとう。こんな可愛い妹をくれて」
「私はお兄ちゃんの物じゃないから」
「じゃあ、神様ありがとう。俺をこんな出来た妹の兄にしてくれて」
「もういいから早く食べて!」
言葉の端々に、照れと嬉しさが混じっていた。
杏が満足そうにプリンを食べるのを見て、石原もつられて笑う。
兄妹の空気は、いつも通り穏やかだった。
杏はプリンを食べ終えたが、部屋には戻らなかった。
ソファに膝を抱えて座り、水を飲んでいる兄を見ている。
そして、ぽつりと口を開いた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「まだ使ってるの? あの能力」
石原の手が止まる。
「……ああ。どうした?」
「ううん。別に」
杏は膝に顎を乗せた。
「たださ」
「お兄ちゃんって、いつも私が何考えてるか分かるでしょ。ずるいなーって思うんだ」
少し間を置いて続ける。
「私は、お兄ちゃんが何考えてるか全然分かんない」
顔を上げ、眼鏡を軽く押し上げた。
「お兄ちゃん、あのさ……」
石原の喉が詰まった。妹の顔をじっと見つめる。
「……やっぱり、何でもない」
【石原杏の感情:ためらい24、その他76】
不思議な能力を持っていながら、今の石原には、やっぱり妹の考えが読めなかった。
「……漫画読んでろよ」
結局、石原はそう言うだけだった。
妹の頭を軽く撫でて、答えを避ける。
杏は追及しなかった。
ただ少しだけ彼を見つめて、「……うん」と小さく返事をした。
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その夜。
石原はベッドに腰掛け、スマホの画面を見つめていた。
春野とのチャット画面だ。
文字を打っては消し、また打っては消すのを繰り返していた。
(なんだよ……この感じ)
「へぇ~。人付き合いが苦手なお兄ちゃんが、そんなことで悩むんだ」
「っ!?」
石原の手が跳ねた。
振り向くと、いつの間にか妹が背後から覗き込んでいる。
「ど、どうやってってきた!?」
「普通に歩いてきたよ?」
杏はにやっと笑った。
「お兄ちゃん、別のこと考えててさ。ドア開けっぱなしだった」
石原は深く息を吸い、スマホをベッドに伏せた。
「変なこと考えるな。ただの……対人スキルの練習だ」
「はいは~い」
杏はわざとらしく声を伸ばし、隣に腰を下ろす。
「で、その『林の中のあの子』って、生徒会副会長の緒山朋奈先輩でしょ?」
石原は少し驚いた。
「知ってるのか?」
「知らない人なんていないよ?」
杏は指を折りながら数えあげていく。
「飛び級生。最年少の副会長。しかも可愛い。一年生じゃ普通に有名人だよ」
【石原杏の感情:真剣47、様子見32、その他21】
「……何が言いたい?」
杏は首をかしげた。メガネのレンズが光る。
「別に。たださ」
「緒山先輩って、ちょっと気になる人だなって思って」
「どういう意味だ」
「うーん……」
杏は少し考えるそぶりを見せる。
「いつも忙しそうなんだよね。時間が全然足りない、みたいな感じでも不思議と慌ててないし、全部きちんとこなしてる」
少し間を置いて、
「なんていうか……何かに追われてるみたい」
――時間が足りない。
石原は、杏の言葉でふと思い出した。
林の中で、緒山が言っていた言葉。「時間って大事なんです!」
そして、あのノートの一番下に、インクがにじんで書かれていた「……時間」。
「でもさ、お兄ちゃん」
杏は少し身を乗り出し、急に軽い調子で言った。
「さっき春野会長にメッセ送ろうとしてたよね? 『可愛い子に話しかけられたらどうすればいい?』みたいなやつ」
石原は固まった。
「ははっ!」
杏は、してやったりといった顔で笑う。
「安心してよ、お兄ちゃん。私は全力で応援するから!」
そこで一度言葉を区切ってから、
「まあ、緒山先輩ってほんと魅力的だけどさ――」
杏は立ち上がり、ドアのところまで歩くと振り返って、妙に真面目な顔で言った。
「犯罪だけはダメだからね」
「心配しすぎだ!」
ドアが閉まった。
石原は小さく息を吐き、もう一度スマホを手に取る。
ちょうどその時、春野から返信が届いた。
「とりあえず一回見てみるわ」
じっと見てるスタンプ付きだった。
(……なんだそれ)
石原はスマホを置き、そのままベッドに倒れ込んだ。
(緒山……その名前、なんとなく聞き覚えがあるなあ……)
天井には、窓の外の街灯の光がぼんやりと映っている。
――考えすぎだ。まだ会ったばかりだ。
石原は目を閉じた。
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同じころ――103号室。
緒山朋奈はベッドの端に腰掛け、
手首の淡い青色のリストバンドをじっと見つめていた。
指先でそっと撫でる。大切な宝物に触れるみたいに。
彼女は目を細め、かすかに笑みを浮かべた。
それからベッドに倒れ込み、目を閉じた。




