第三話
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石原は人混みをうまく避けながら校内を抜けていった。
校舎脇の細い通路を通り、「立入禁止」の札が立っているのも気にせず進む。
軽く助走をつけ、そのままひょいっと柵を乗り越えた。
その先は、小さな林。学校の敷地の端にある、ほとんど人が来ない場所。
――石原だけが知っている、秘密基地だった。
昼休みだった。
妹が作ってくれた弁当を食べながら、今日も「放課後直帰部」――ただまっすぐ家に帰るだけの時間を思い描く。
それだけで、少し気分が軽くなっていた。
……そのとき。
「えっと、あの――」
突然、背後から声がした。
石原はびくっと肩を跳ねさせ、ほとんど反射で振り向く。
そこに立っていたのは、一人の女子生徒だった。にこにこしながら、こちらを見ている。
身長は一六〇センチくらい。
黒いセミロングヘアが肩のあたりまでかかっていた。
夏服の制服スカート姿で、雑誌から抜け出してきたみたいな雰囲気のある、かなり可愛い子だ。
……だが石原が真っ先に思ったのは、それじゃなかった。
――今朝、橋の上にいたあの女子だ。
間違いな。
ただ、目の前の彼女はまるで別人みたいだった。
あのときの、どこか空っぽな静けさは、もう消えている。
今は、明るい笑顔で、元気そのものに見えた。
「今朝、橋で――」
思わず口から出た。
「わっ!」
女子生徒の目がぱっと輝いた。
「私、二年B組の緒山朋奈です! 二年A組の石原先輩ですよね? 前にお見かけしたことあります!」
そう言いながら、一歩近づいてくる。
石原は反射的に半歩下がった。
【??:緊張31、興#*$%@&】
――またこれだ。
「……能力、効かないのか?」
石原は小さくつぶやいた。
「……で、何の用?」
緒山は首をかしげた、少し不思議そうな顔をする。
「先輩、覚えてないんですか……? あはは、今のは忘れてください!」
「同じ学年なのに、なんで先輩?」
「私、編入生なんです。だから先輩より一歳下なんですよ~」
指を一本立ててみせた。
それから、ふと思い出したようにまた一歩近づいてくる。
「先輩は私のこと知らないかもしれませんけど、先輩の名前は一年で知らない人いないですよ!」
石原の表情が少し曇った。
――あの件だ。
半年前のことが、ふとよみがえった。
妹がいじめられ始めたころだ。
杏は家に帰ると部屋に閉じこもり、ずっと泣いていた。
石原はドアの外に立ち、必死にこらえたすすり泣きを聞くことしかできずにいた。
何もできないまま、最後に言ったのは一言だけだった。
「……明日、俺が学校に行く」
次の日、石原は校長室に乗り込んだ。
そのあと、いくつものクラスを回って話をした。教室の前に立ち、関わった生徒の名前を一人ずつ読み上げた。
恥なんてどうでもよかった。怒鳴られても構わなかった。
ただ、伝えたかった――妹は、好き勝手に傷つけていい存在じゃない。
あの頃の自分は、大事な人を守るためなら何だってできると思っていた。
……それが今はどうだ。
石原は、隣の席の相手に怒ったことを思い出し、またうつむいた。
たった一言の心配さえ、まともに受け取れなくなっている。
その後、妹の件でいじめっ子から仕返しを受け、学校中に噂が広まった。さらには「シスコン先輩」というあだ名までつけられた。
……正直、思い出したくもない。
石原は話題を変えた。
「今朝、泉方橋にいた?」
緒山はぱちぱちと瞬きをした。それでも笑顔は崩れなかった。
「やっぱり見てたんですね、先輩」
「どういう意味?」
「つまり先輩も――『選ばれし者』ってことですね!」
急に大げさなポーズを取る。
「伝説によると、泉方新高には七柱の神がいて――かつて壮絶な戦いを繰り広げ――」
「帰る」
石原は立ち上がった。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
緒山は慌てて彼の制服の裾をつかんだ。
「冗談ですって! ちゃんと話します!」
そして、少し身を乗り出した。
「先輩と同じで、私も『異能力者』なんですよ」
石原は足を止め、振り返る。
緒山は人差し指を唇の前に立てた。
「でも、能力の内容は秘密です」
にやっと笑った。
「『切り札を見せるのは自殺行為と同じ』って言うじゃないですか。もしかしたら先輩と敵同士になって、大戦争になるかもしれませんし!」
石原はぼそっと言った。
「……俺と付き合うかもしれないけどな」
言った瞬間、少し後悔した。
「いや、その……よくあるだろ、そういう展開。小説とかでさ」
緒山の顔が一瞬で真っ赤になる。
口元を押さえて、二歩ほど後ろに下がった。
「せ、先輩……それって告白ですか!?」
「……冗談」
「わ、私の返事はもう少し待ってくださいね!」
「聞いてない」
石原は小さくため息をついた。そのままベンチに座り直す。
気づけば、すっかり彼女のペースに巻き込まれていた。
普段より、ずっと多く喋っている、それが妙に落ち着かなかった。
「……疲れるな」
緒山はそのまま隣に腰を下ろした。遠慮なんてまるでない。
「先輩もここでお昼食べてるんですか?」
石原は軽くうなずき弁当箱を片づけ始めた――さっさと離れたほうがいい。
「本当はもう少し景色でも見てたかったんだけど、可愛い後輩がここで昼食べるなら、邪魔しないでおくよ」
「えー? 照れてるんですか? それとも女の子ダメなんですか?」
「どっちでもない」
「うわー、冷たい……」
緒山は頬杖をつきながら石原を見た。
「でも先輩、今から人がほとんどいない穴場なんて見つかります?」
石原の手が止まる。
……たしかに。この学校、どこへ行っても人がいた。
石原は長く息を吐いた。
「……言われてみればな。どこも騒がしすぎる」
「だって先輩みたいな不良って、わりといますからね~」
「不良、ね……好きに言えばいい」
石原がどこか気だるそうなのに対して、緒山は最初からずっと楽しそうにしていた。
こうして隣に座られると、なんとなく落ち着かない。
「お前は? この学校、気に入ってるみたいだな」
「はい!」
「学校にいると、安心するんです」
「安心? 俺には分からないけど」
「友達と一緒なら、急に倒れても大丈夫じゃないですか。家で一人でいるより安全ですしね」
石原はわずかに動きを止めた。
「……倒れる?」
「た、たとえ話ですよ!」
緒山は手を振って否定する。
緒山はポケットから小さなノートを取り出した。
それは青い星空の表紙で、角が少しすり減っている。
ぱらっとページを開いた。
「学校で『やることリスト』を達成していくのって、けっこう楽しいんですよ」
石原の前に差し出す。
「ほら。『特別な場所で、特別な思い出を作る』――これが一つ目です! 今朝、泉方橋で日の出を見たので、もうチェック済みです!」
石原はちらっとだけ目をやった。
ページにはびっしり文字が並んでいる。
ただ、一番下の行だけ目に入った。
インクがにじんでいて、かろうじて「……時間」と読めた。
次の瞬間、緒山はぱたんとノートを閉じる。そのままポケットにしまった。
「一応言っておくけどさ。俺、お前が思ってるほどいい人じゃない。たとえばお前が倒れても、面倒だからそのまま帰るかもしれない」
「それはないですよ」
「……ずいぶん俺のこと分かったように言うんだな。俺さ、シスコン先輩って呼ばれてるんだよ。何するか分からない奴だって評判なんだ」
「妹溺愛って、むしろプラスですよ」
石原は言葉に詰まる。
「先輩は妹を守ろうとしただけですよね」
緒山は石原をまっすぐ見ていた。
「誰が何を言っても、それは間違ってないと思います」
石原は黙ったままだ。
そんな答えが返ってくるとは思っていなかった。
たいていの人は、噂を信じていた。誰かが広めた話を、そのまま本当だと思っていた。
「それに」
「先輩、私が落ちかけたとき、すぐ助けようとしてくれましたよね?」
石原は口を開きかけて、閉じる。
緒山が立ち上がった。
手に持っていた水のボトルを、ぽんと上に放る。
「先輩の噂って、私にはこんな感じです。『近づくなー!』って」
落ちたボトルを、ぱっと拾い上げた。
「でも結局、お前ってちゃんと拾うタイプだよな」
「わ、私はそんなすぐ拾われるような、軽い女じゃないですからね!?」
「その言い方、誤解を招くんだけど?」
緒山は口元を押さえて笑った。
その笑い方を見て、石原はふと思い出す。
ずっと昔のことだった。自分も、こんなふうに笑っていた気がした。
なぜかは分からない。
でも、気づけば石原の口元も少しだけ緩んでいた。
「A組の石原久希だ。……改めて、よろしく。緒山さん」
「また会えて嬉しいです、先輩」
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二人は、気づけばいろんな話をしていた。
「生徒会の副会長?」
「えっ、知らないんですか!? 私、歴代でも一番人気の副会長なんですよ!」
「それは初耳だな」
異能力の話になると、緒山の目がきらきらし始めた。
「おおー! 先輩、人の感情が見えるんですか? すごい能力ですね!」
「でも緒山さんのは、あんまりちゃんと見えないんだ」
「おおー……」
緒山はすかさずノートを取り出すと、ぱらっと開いて、何か書き始めた。
「『先輩いわく、私は特別な人らしい』……っと、メモメモ」
「勝手に盛るな」
だが、彼女の能力のことや今朝の橋の出来事を聞こうとすると、そのたびにうまく話をそらされる。
「せ、先輩……私のこと、全部丸裸にしたいんですか!?」
わざとらしくしょんぼりした顔をする。
石原はそれ以上聞かなかった。
誰にだって、隠したいことはある。
木の葉の隙間から、日差しが地面にこぼれていた。光がゆらゆらと揺れている。
石原は腕時計をちらっと見た。
針は一時を指している。ちょうどそのタイミングで、昼休み終了のチャイムが鳴った。
「そろそろ戻るか」
立ち上がろうとすると、服の裾をちょんと引かれた。
「えっと……あの、もうちょっとだけダメですか?」
「これ以上いたら遅刻する」
「そ、そうなんですけど、その……」
【緒山朋奈の感情:落ち込み21、内#$?¥】
石原は一瞬だけ動きを止めた。
――ああ、そういうことか。
彼女は、気にしているらしかった。
能力のことをはぐらかしたままでいいのか、と考えているらしい。
石原は小さく息を吐いた。
「能力のことなら、気にしなくていい」
「え?」
「詳しく話さなくても、別に怒らない」
緒山はほっとしたように笑った。
「先輩、読心術でも使えるんですか? 私が考えてたこと、すぐ分かっちゃうなんて……ちょっと恥ずかしいです」
彼女は腕時計を見た。
針はすでに一時二分を過ぎていた。
緒山は勢いよく立ち上がる。
振り向いた拍子に、髪の毛先が石原の鼻先をかすめた。
その瞬間、石原はかすかな匂いを感じる。
シャンプーの匂いでもない。林の草木の匂いでもない。
――別の何か。
とても薄い匂いだった。気づくかどうかも分からないくらいの、かすかな薬品みたいな匂いだ。
気のせいかもしれなかった。
「気づいたらこんなに長く話してました!」
緒山は慌てて荷物をまとめる。
「急に慌ただしくなったな」
「時間って大事なんです!」
「そうか」
緒山は数歩走り出し、そして振り返った。
「明日も来ますから!」
「……は?」
彼女は手をぶんぶん振った。
そしてそのまま、振り向かずに走っていく。
石原はその場に立ったまま、彼女の背中を見送った。
やがて姿は林の向こうに消える。
最後まで、はっきり見えなかったあの感情タグ。
「緒山朋奈……」
石原はその名前を一度つぶやいた。
それから首を横に振った。
――考えすぎだ。ただの偶然の出会いだろう。
だがそのときの石原は、まだ知らなかった。
少し抜けていて、よく喋って、たくさん秘密を抱えていそうなあの女子が――
長い間守ってきた彼の「静かな日常」を、あっという間に壊してしまうことになると。




