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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第一章 出会い――彼女の感情だけが、読めない(1)
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第三話

---


石原は人混みをうまく避けながら校内を抜けていった。

校舎脇の細い通路を通り、「立入禁止」の札が立っているのも気にせず進む。


軽く助走をつけ、そのままひょいっと柵を乗り越えた。


その先は、小さな林。学校の敷地の端にある、ほとんど人が来ない場所。

――石原だけが知っている、秘密基地だった。


昼休みだった。

妹が作ってくれた弁当を食べながら、今日も「放課後直帰部」――ただまっすぐ家に帰るだけの時間を思い描く。

それだけで、少し気分が軽くなっていた。


……そのとき。


「えっと、あの――」


突然、背後から声がした。

石原はびくっと肩を跳ねさせ、ほとんど反射で振り向く。


そこに立っていたのは、一人の女子生徒だった。にこにこしながら、こちらを見ている。


身長は一六〇センチくらい。

黒いセミロングヘアが肩のあたりまでかかっていた。

夏服の制服スカート姿で、雑誌から抜け出してきたみたいな雰囲気のある、かなり可愛い子だ。


……だが石原が真っ先に思ったのは、それじゃなかった。


――今朝、橋の上にいたあの女子だ。


間違いな。

ただ、目の前の彼女はまるで別人みたいだった。

あのときの、どこか空っぽな静けさは、もう消えている。

今は、明るい笑顔で、元気そのものに見えた。


「今朝、橋で――」


思わず口から出た。


「わっ!」


女子生徒の目がぱっと輝いた。


「私、二年B組の緒山朋奈です! 二年A組の石原先輩ですよね? 前にお見かけしたことあります!」


そう言いながら、一歩近づいてくる。

石原は反射的に半歩下がった。


【??:緊張31、興#*$%@&】


――またこれだ。


「……能力、効かないのか?」


石原は小さくつぶやいた。


「……で、何の用?」


緒山は首をかしげた、少し不思議そうな顔をする。


「先輩、覚えてないんですか……? あはは、今のは忘れてください!」


「同じ学年なのに、なんで先輩?」


「私、編入生なんです。だから先輩より一歳下なんですよ~」


指を一本立ててみせた。

それから、ふと思い出したようにまた一歩近づいてくる。


「先輩は私のこと知らないかもしれませんけど、先輩の名前は一年で知らない人いないですよ!」


石原の表情が少し曇った。


――あの件だ。

半年前のことが、ふとよみがえった。


妹がいじめられ始めたころだ。


杏は家に帰ると部屋に閉じこもり、ずっと泣いていた。

石原はドアの外に立ち、必死にこらえたすすり泣きを聞くことしかできずにいた。


何もできないまま、最後に言ったのは一言だけだった。


「……明日、俺が学校に行く」


次の日、石原は校長室に乗り込んだ。

そのあと、いくつものクラスを回って話をした。教室の前に立ち、関わった生徒の名前を一人ずつ読み上げた。


恥なんてどうでもよかった。怒鳴られても構わなかった。

ただ、伝えたかった――妹は、好き勝手に傷つけていい存在じゃない。


あの頃の自分は、大事な人を守るためなら何だってできると思っていた。


……それが今はどうだ。

石原は、隣の席の相手に怒ったことを思い出し、またうつむいた。


たった一言の心配さえ、まともに受け取れなくなっている。


その後、妹の件でいじめっ子から仕返しを受け、学校中に噂が広まった。さらには「シスコン先輩」というあだ名までつけられた。


……正直、思い出したくもない。


石原は話題を変えた。


「今朝、泉方橋にいた?」


緒山はぱちぱちと瞬きをした。それでも笑顔は崩れなかった。


「やっぱり見てたんですね、先輩」


「どういう意味?」


「つまり先輩も――『選ばれし者』ってことですね!」


急に大げさなポーズを取る。


「伝説によると、泉方新高には七柱の神がいて――かつて壮絶な戦いを繰り広げ――」


「帰る」


石原は立ち上がった。


「ちょ、ちょっと待ってください!」


緒山は慌てて彼の制服の裾をつかんだ。


「冗談ですって! ちゃんと話します!」


そして、少し身を乗り出した。


「先輩と同じで、私も『異能力者』なんですよ」


石原は足を止め、振り返る。

緒山は人差し指を唇の前に立てた。


「でも、能力の内容は秘密です」


にやっと笑った。


「『切り札を見せるのは自殺行為と同じ』って言うじゃないですか。もしかしたら先輩と敵同士になって、大戦争になるかもしれませんし!」


石原はぼそっと言った。


「……俺と付き合うかもしれないけどな」


言った瞬間、少し後悔した。


「いや、その……よくあるだろ、そういう展開。小説とかでさ」


緒山の顔が一瞬で真っ赤になる。

口元を押さえて、二歩ほど後ろに下がった。


「せ、先輩……それって告白ですか!?」


「……冗談」


「わ、私の返事はもう少し待ってくださいね!」


「聞いてない」


石原は小さくため息をついた。そのままベンチに座り直す。


気づけば、すっかり彼女のペースに巻き込まれていた。

普段より、ずっと多く喋っている、それが妙に落ち着かなかった。


「……疲れるな」


緒山はそのまま隣に腰を下ろした。遠慮なんてまるでない。


「先輩もここでお昼食べてるんですか?」


石原は軽くうなずき弁当箱を片づけ始めた――さっさと離れたほうがいい。


「本当はもう少し景色でも見てたかったんだけど、可愛い後輩がここで昼食べるなら、邪魔しないでおくよ」


「えー? 照れてるんですか? それとも女の子ダメなんですか?」


「どっちでもない」


「うわー、冷たい……」


緒山は頬杖をつきながら石原を見た。


「でも先輩、今から人がほとんどいない穴場なんて見つかります?」


石原の手が止まる。


……たしかに。この学校、どこへ行っても人がいた。


石原は長く息を吐いた。


「……言われてみればな。どこも騒がしすぎる」


「だって先輩みたいな不良って、わりといますからね~」


「不良、ね……好きに言えばいい」


石原がどこか気だるそうなのに対して、緒山は最初からずっと楽しそうにしていた。

こうして隣に座られると、なんとなく落ち着かない。


「お前は? この学校、気に入ってるみたいだな」


「はい!」


「学校にいると、安心するんです」


「安心? 俺には分からないけど」


「友達と一緒なら、急に倒れても大丈夫じゃないですか。家で一人でいるより安全ですしね」


石原はわずかに動きを止めた。


「……倒れる?」


「た、たとえ話ですよ!」


緒山は手を振って否定する。


緒山はポケットから小さなノートを取り出した。

それは青い星空の表紙で、角が少しすり減っている。


ぱらっとページを開いた。


「学校で『やることリスト』を達成していくのって、けっこう楽しいんですよ」


石原の前に差し出す。


「ほら。『特別な場所で、特別な思い出を作る』――これが一つ目です! 今朝、泉方橋で日の出を見たので、もうチェック済みです!」


石原はちらっとだけ目をやった。

ページにはびっしり文字が並んでいる。


ただ、一番下の行だけ目に入った。

インクがにじんでいて、かろうじて「……時間」と読めた。


次の瞬間、緒山はぱたんとノートを閉じる。そのままポケットにしまった。


「一応言っておくけどさ。俺、お前が思ってるほどいい人じゃない。たとえばお前が倒れても、面倒だからそのまま帰るかもしれない」


「それはないですよ」


「……ずいぶん俺のこと分かったように言うんだな。俺さ、シスコン先輩って呼ばれてるんだよ。何するか分からない奴だって評判なんだ」


「妹溺愛って、むしろプラスですよ」


石原は言葉に詰まる。


「先輩は妹を守ろうとしただけですよね」


緒山は石原をまっすぐ見ていた。


「誰が何を言っても、それは間違ってないと思います」


石原は黙ったままだ。

そんな答えが返ってくるとは思っていなかった。


たいていの人は、噂を信じていた。誰かが広めた話を、そのまま本当だと思っていた。


「それに」


「先輩、私が落ちかけたとき、すぐ助けようとしてくれましたよね?」


石原は口を開きかけて、閉じる。


緒山が立ち上がった。

手に持っていた水のボトルを、ぽんと上に放る。


「先輩の噂って、私にはこんな感じです。『近づくなー!』って」


落ちたボトルを、ぱっと拾い上げた。


「でも結局、お前ってちゃんと拾うタイプだよな」


「わ、私はそんなすぐ拾われるような、軽い女じゃないですからね!?」


「その言い方、誤解を招くんだけど?」


緒山は口元を押さえて笑った。


その笑い方を見て、石原はふと思い出す。

ずっと昔のことだった。自分も、こんなふうに笑っていた気がした。


なぜかは分からない。

でも、気づけば石原の口元も少しだけ緩んでいた。


「A組の石原久希だ。……改めて、よろしく。緒山さん」


「また会えて嬉しいです、先輩」


---


二人は、気づけばいろんな話をしていた。


「生徒会の副会長?」


「えっ、知らないんですか!? 私、歴代でも一番人気の副会長なんですよ!」


「それは初耳だな」


異能力の話になると、緒山の目がきらきらし始めた。


「おおー! 先輩、人の感情が見えるんですか? すごい能力ですね!」


「でも緒山さんのは、あんまりちゃんと見えないんだ」


「おおー……」


緒山はすかさずノートを取り出すと、ぱらっと開いて、何か書き始めた。


「『先輩いわく、私は特別な人らしい』……っと、メモメモ」


「勝手に盛るな」


だが、彼女の能力のことや今朝の橋の出来事を聞こうとすると、そのたびにうまく話をそらされる。


「せ、先輩……私のこと、全部丸裸にしたいんですか!?」


わざとらしくしょんぼりした顔をする。


石原はそれ以上聞かなかった。

誰にだって、隠したいことはある。


木の葉の隙間から、日差しが地面にこぼれていた。光がゆらゆらと揺れている。


石原は腕時計をちらっと見た。

針は一時を指している。ちょうどそのタイミングで、昼休み終了のチャイムが鳴った。


「そろそろ戻るか」


立ち上がろうとすると、服の裾をちょんと引かれた。


「えっと……あの、もうちょっとだけダメですか?」


「これ以上いたら遅刻する」


「そ、そうなんですけど、その……」


【緒山朋奈の感情:落ち込み21、内#$?¥】


石原は一瞬だけ動きを止めた。


――ああ、そういうことか。


彼女は、気にしているらしかった。

能力のことをはぐらかしたままでいいのか、と考えているらしい。


石原は小さく息を吐いた。


「能力のことなら、気にしなくていい」


「え?」


「詳しく話さなくても、別に怒らない」


緒山はほっとしたように笑った。


「先輩、読心術でも使えるんですか? 私が考えてたこと、すぐ分かっちゃうなんて……ちょっと恥ずかしいです」


彼女は腕時計を見た。

針はすでに一時二分を過ぎていた。


緒山は勢いよく立ち上がる。


振り向いた拍子に、髪の毛先が石原の鼻先をかすめた。

その瞬間、石原はかすかな匂いを感じる。


シャンプーの匂いでもない。林の草木の匂いでもない。


――別の何か。

とても薄い匂いだった。気づくかどうかも分からないくらいの、かすかな薬品みたいな匂いだ。


気のせいかもしれなかった。


「気づいたらこんなに長く話してました!」


緒山は慌てて荷物をまとめる。


「急に慌ただしくなったな」


「時間って大事なんです!」


「そうか」


緒山は数歩走り出し、そして振り返った。


「明日も来ますから!」


「……は?」


彼女は手をぶんぶん振った。

そしてそのまま、振り向かずに走っていく。


石原はその場に立ったまま、彼女の背中を見送った。

やがて姿は林の向こうに消える。


最後まで、はっきり見えなかったあの感情タグ。


「緒山朋奈……」


石原はその名前を一度つぶやいた。


それから首を横に振った。

――考えすぎだ。ただの偶然の出会いだろう。


だがそのときの石原は、まだ知らなかった。


少し抜けていて、よく喋って、たくさん秘密を抱えていそうなあの女子が――

長い間守ってきた彼の「静かな日常」を、あっという間に壊してしまうことになると。

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