第二話
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校門をくぐった瞬間、あの馴染んだ息苦しさが胸の奥までせり上がってくる。
廊下には、連れ立って歩く生徒たちがいた。
笑い声に話し声、それに足音――いろんな音が入り混じっている。
だが、それ以上にうるさいものがあった。
視界には、感情タグが際限なく浮かび続けていたのだ。
【興奮61】【苛立ち34】【不安42】【期待53】……
どれも細い針みたいにこめかみを刺してきた。逃げ場なんて、どこにもない。
石原はうつむいたまま、人混みの中を早足で抜けていった。
今の石原にとって、「一人でいること」のほうが、よほど安全だった。
午前中の授業は、ほとんど何ひとつ頭に入ってこなかった。
机に突っ伏し、腕の中に顔を埋める。少しでも、あの「ノイズ」を遮ろうとしたのだ。
だが、意味はなかった。
目を閉じても、視界の端ではタグが跳ね続けている。まるで、追い払っても消えない羽虫の群れみたいに。
「……ああ、もう。うっとうしい」
石原はいら立ったまま、身じろぎするように姿勢を変え、顔を窓のほうへ向けた。
青い空。白い雲。
陽射しも悪くなかった――なのに、やけに目に刺さった。
休み時間になると、教室はさらに騒がしくなった。
笑い声。追いかけっこ。
スマホを囲んで騒ぐグループ。
その中で、石原だけが動かなかった。
机に突っ伏したまま、石原だけがその場から切り離されたみたいに。
そのときだった。背中を、つん、と軽く突かれた。
「石原くん?」
石原は眉をひそめて顔を上げた。
視線の先には、心配そうな顔をした隣の席の甘露寺十花がいた。
【甘露寺十花の感情:心配42、躊躇38、困惑20】
「顔色、あんまり良くないよ……」
彼女は小さな声で言った。
「保健室、行ったほうがいいんじゃない?」
石原は、じっと彼女を見る。
「大丈夫です……」
「でも石原くんの顔色——」
【心配】【躊躇】のタグが次々と押し寄せ、石原の指がぎゅっと握り締められた。
「だから……大丈夫だって言ってるだろ。」
思ったよりずっと大きな声で、しかもかなりきつかった。
――しまった。
そう思ったときには、もう遅い。
教室が一瞬で静まり返った。
全員の視線が、石原に集まった。
甘露寺はその場で固まっていた。
さっきまでの笑顔は消えて、戸惑いと怯えに変わっている。
【恐慌34】【好奇57】【嫌悪12】……
無数のタグが花火みたいに弾け。
石原は勢いよく立ち上がった。
椅子が床をこすり、甲高い音を立てる。
何か言おうと口を開くが、言葉は出ない。喉が詰まったみたいだった。
結局、何も言えずに口を閉ざす。
石原は視線を落とし、そのまま教室を飛び出した。
背後で、教室のドアが閉まる音がした。
――その音は、どこかため息みたいに聞こえた。
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トイレの洗面台に両手をつき、石原は荒い息をついていた。
蛇口から冷たい水が勢いよく流れ続けている。
石原はそのまま顔を水の中へ埋めた。氷のような冷たさで、こめかみの痛みを押さえ込もうとしたのだ。
しばらくして顔を上げれば、鏡に映ったのは、ひどく青ざめた顔だった。
頬を伝う水滴が、まるで涙みたいに落ちていく。
「……また、やらかした」
その思いが、重い石みたいに胸の奥へ沈んだ。
甘露寺十花の表情が浮かぶ。
あの瞬間に固まってしまった表情と、その目の奥に浮かんでいたはっきりとした恐怖まで、ありありと思い出された。
――彼女は、ただ心配してくれただけだ。
何も悪くない。
それなのに石原は、また善意を突き返してしまった。
今朝、家を出る前のことを思い出す。
妹の杏が、弁当を彼のバッグに押し込みながら笑っていた。
「今日はお兄ちゃんの好きな玉子焼き入ってるよ」
背伸びして、ぽんと彼の肩を叩こうとする。
「がんばってね、お兄ちゃん。今日も一日!」
――もし杏が、さっきの自分を見ていたら、なんて言うだろう。
心の奥にしまい込んだ記憶が、またよみがえる……だが今の石原は、もう一度思い出したくはなかった。
石原は両手で顔をぱん、と叩いた。
そしてもう一度、皮膚が赤くなるまで何度も叩く。
「……このままじゃダメだ」
彼は蛇口をじっと見つめていた。頭の中で、かつて春野に言われた言葉が響いている。
「もう、そんなふうに続けるのはやめろ、石原。」
あのとき、彼は何も答えられなかった。
もう一度、水で顔を洗った。
深く息を吸う。蛇口を閉め、トイレのドアを押して外へ出た。
廊下には、相変わらず強い日差しが差し込み、やけに目に痛い。
通り過ぎた生徒が、好奇心まじりに石原をちらっと見た。だがすぐに視線を外し、足早に去っていく。
視界には、相変わらず感情タグが浮かび続けていた。
だが今は、苛立つ気力すらない。
ただ席に戻って机に顔を伏せ、何事もなかったふりをしたかった。
教室のドアを開けた瞬間、昼休みのチャイムが鳴る。
甘露寺は弁当箱を取り出しているところだった。
石原が入ってくるのを見ると、手がぴたりと止まる。
そして、反射みたいにほんの少しだけ身を引いた。
その小さな動きが、胸に針みたいに刺さる。
石原は自分の席まで歩いた。だが座らず、甘露寺の机の横に立つ。
そして小さな声で言った。
「……ごめん」
甘露寺は顔を上げ、驚いたように目を見開いた。
「さっきは……言い方きつかった」
石原は彼女を見なかった。視線は机の角に落ちている。
「心配してくれてたの、分かってる」
短い沈黙が流れた。
【甘露寺十花の感情:驚き45、緊張31、安堵24】
「……う、ううん。大丈夫だよ」
まだ少し緊張した声だ。
でも、さっきよりは柔らかかった。
「ほんとに顔色悪かったから……先生、呼んだほうがいいかなって」
怖がっている。それでも、まだ彼を気にしていた。
石原はようやく彼女を見て、そして小さく首を横に振った。
「ありがとう。でも、いい。気をつける」
自分の席に座ると、バッグから弁当を取り出し、ふたを開ける。
中には玉子焼きがきれいに並んでいて、その黄金色が目に入った。
石原は一つつまみ、口に入れる。甘い味が舌先でふわりと広がった。
胸の奥に溜まっていた重さが、少しだけ軽くなった気がする。
教室のざわめきが、ゆっくり戻ってきた。
笑い声。話し声。誰かが横を通り過ぎる。
だが今回は――視界に浮かぶ感情タグも、さっきほど目障りには感じなかった。
石原は弁当をゆっくり食べながら、窓の外を見る。
今日はいい天気だった。
校庭では、生徒が走っている。ボールを追いかけている連中もいた。
その向こう。
校舎の横にある小さな林が、昼の光の中で静かに佇んでいた。
石原は弁当箱を見下ろした。
それからもう一度、窓の外を見た。
数秒、迷う。
やがて立ち上がり、弁当をバッグにしまった。
教室のドアを開ける。そして、その林へ向かって足早に歩き出した。
――そのときの石原はまだ知らなかった。今回の「少し外へ出る」という選択が、やがてすべてを変える相手との出会いにつながることを。




