第一話
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【五月六日・月曜日・朝】
「誰か飛び込むつもりよ!」
その悲鳴は鋭いガラスのように、泉方橋の朝の静けさを切り裂いた。
石原久希は反射的に顔を上げた。
次の瞬間、視界いっぱいに混乱が弾けていく――
【恐慌74】【慌張82】【好奇31】……
無数の感情タグが、驚いた羽虫が狂ったように跳ね回り、石原のこめかみをがんがんと刺激した。
これが彼の能力――「感情視覚」。
他人の頭上に浮かぶ感情の種類と数値が、見える。かつては、自分がずっと求めていた答えそのものだと思っていた。けれど今では、鳴りやまないノイズでしかない。
だが、石原を本当に呆然とさせたのは――橋のたもとに立つ、一人の少女だった。
石原と同じ制服を着ていた。肩にかかる黒髪が朝の光を受けて、かすかに艶めいている。その顔には、感情らしいものが何ひとつ浮かんでいなかった。
そして彼女の頭上。本来なら感情タグで埋まっているはずのそこには、ただひと続きの文字化けだけが、ちかちかと点滅していた。
【??:緊張2?害#*$%¥&】
(な……なんで……)
どんな人間でも、石原はタグを通してその感情を見通せる。なのに彼女は――
石原が反応するより早く、少女は一度だけ彼を見た。
そして、ほんのわずかに笑う。その笑みはひどく淡くて、朝霧みたいに頼りなかった。
次の瞬間――彼女の身体が、ふっと後ろへ傾いた。
「待て!」
石原は鞄を放り投げ、そのまま駆け出していた。
どうして頭で考えるより先に足が動いたのか、自分でも分からない。
だが、三歩目を踏み出したその瞬間――覚えのない不快感が、いきなり全身を掴んだ。
心臓がぎゅっと縮んだ。何かに締め付けられたように。視界がぐらりと揺れた。舌先には、なぜかかすかな鉄の味が広がっていた。
石原は二歩ほどよろめき、目の前が真っ暗になった。
そのまま、橋の路面に激しく叩きつけられるように倒れ込む。
――何が起きた?
こんな異様な感覚は、初めてだ。
どれくらい時間が経ったのかも分からない。ようやく石原は、もがくように起き上がった。
橋の下の水面は、相変わらず静かだった。誰かがもがいた気配もなければ、助けを呼ぶ声もない。
さっきまで悲鳴を上げていた通行人たちも、今は何事もなかったみたいな顔で、足早に通り過ぎていく。
買い物かごを提げた年配の女性が石原の横を通りながら、「遅れちゃう」とぶつぶつこぼした。
その頭上に浮かぶタグは、ただ一つ――【焦り】。そこに【恐慌】の痕跡は、まったく残っていなかった。
石原は橋のたもとで、荒く息をついた。
朝の風が、湿って冷えた背中を吹き抜けていく。
そのとき、あまりにも馬鹿げた考えがふと頭に浮かんだ。
――あの少女は、消えたのではないか?皆の記憶ごと、消えてしまった。
石原が自分の手を見下ろすと、指先はまだかすかに震えている。
舌先に残る錆びた鉄の味は、何かを告げる無言の警告みたいに、いつまでも消えなかった。
(いったい……何が起きたんだ?)
電車が駅へ滑り込んでくる轟音が、遠くから近づいてきた。
石原は機械みたいに人の流れに紛れ、そのまま車両へ乗り込む。
空いていた窓際の席を見つけて腰を下ろし、虚ろな目で、窓の外を流れていく街並みを見つめた。
あの少女の笑みも、川へ落ちていったあの動きも、それに、通行人たちから一瞬で消え去ったあの恐慌も――すべてが、やけに現実味のある夢のようだった。
けれど、胸の奥に残る動悸だけは、それが夢じゃないと訴えていた。
――これは夢じゃない。
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「おい――石原!」
聞き慣れた声が、不意に石原の意識を引き戻した。
石原がはっと我に返ると気づけば、春野が隣に立ち、訝しげな顔で石原を見ている。
「三回も呼んだぞ。何考えてたんだ?」
春野は手にしたスマホを軽く振ってみせた。
「乗ってからずっとぼーっとしてるし、魂でも抜けたみたいな顔してるぞ」
【春野陽明の感情:疑惑38、心配62】
石原は口を開きかけた。
だが、言葉は喉の奥で止まり、そのまま飲み込む。
「……いや、なんでもないです。ちょっと寝不足なだけ」
結局、そう言うしかなかった。
「またまた」
春野は明らかに信じていない様子だったが、それ以上は突っ込まず、代わりにぽんと石原の肩を叩く。
「その顔色じゃ、知らないやつが見たら幽霊でも見たのかって思うぞ」
幽霊。
その言葉が、石原の胸に小さく引っかかった。
――もしかしたら、本当に見たのかもしれない。
石原の隣に立っているこの背の高い男子生徒は、同じ電車で通学している泉方新高三年の先輩――春野陽明だった。
生徒会長で、バスケ部の主力選手でもあり、面倒見もよくて生徒たちからの人気も高かった。
妹を除いて、石原が自分の異能力について話した唯一の相手でもある。
電車は揺れながら進んでいく。
春野はやがて、生徒会の話をし始めた。
「来月の体育祭は早めに準備を始めないとな」――そんな話だ。
石原は半分も聞いていなかった。
ぼんやりとした視線は、車窓のガラスに向いている。
ガラスには自分の顔が映り、その背後に乗客たちのぼやけた輪郭が重なって見えた。
――すべて、いつも通り。
だが、電車が駅に滑り込もうとした、そのとき――石原はふいに息を止めた。
窓の反射に、背後に立つ女子生徒の姿が映っていた。
黒く長い髪に、見覚えのある制服――スマホを見ていた彼女はふと顔を上げ、車窓の方をちらりと見た。
その瞬間、石原は跳び上がりそうになった。
反射的に振り返る。
だが、そこにいたのは、ビジネスバッグを提げた中年の男と、話し込んでいる女子生徒二人だけだった。
「どうしたんだよ、今度は」
春野は石原の反応に驚いたように声を上げた。
「……いえ」
石原はゆっくりと前を向き直す。
声はわずかに乾いていた。
「なんでもないです。たぶん……ほんとに寝不足なんだと思う」
電車のアナウンスが駅名を告げる。
春野は立ち上がりながら言った。
「ほら、降りるぞ。しゃきっとしろよ、石原」
二人は人の流れに紛れて電車を降りた。
見慣れたホーム。
見慣れた朝の光。
見慣れた通勤通学の人波。
すべてが、いつもと同じだった。
――ただ一つを除いて。
何かが、確実に変わっていた。
それを知っていたのは、石原だけだった。
石原は無意識に唇を舐める。
舌先に残る、あのかすかな錆びた鉄の味は、まだ消えていなかった。
――あの女子生徒は、いったい誰なんだ?




