第五十五話
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【八月二日・日曜日】
八月最初の陽射しは、澄みきっていて明るかった。
市立総合病院のロビーを囲む大きなガラス張りの壁を通して降りそそぎ、あらゆるものを明るい金色で縁取っている。
今日は、葵が短期退院で家に戻る日だった。
病室の外の廊下には、生徒会の面々がほとんど揃っていた。
みな静かに、そのときを待っている。
春野は珍しくきちんとアイロンのかかったシャツ姿で、立花と杏はそろって短めのスカートを穿いていた。
花野は、素朴な包みにくるまれた小さなかすみ草のドライフラワーを抱えていた。
石原は窓際に立ち、階下の中庭に広がる濃い緑を見下ろしていた。
少しだけ速くなっている鼓動を、なんとか落ち着かせようとする。
それは自分のためじゃなかった。病室の中にいるあの兄妹が、これから手にする短くてもかけがえのない“日常”のことを思って、落ち着かなくなっているだけだった。
緒山は、そのすぐ隣というより、半歩ぶんだけ離れたところに立っていた。
今日は長い髪をゆるく編んで、片側へ流している。
いつものあたたかな笑顔を浮かべながら、立花と小声で、このあと荷物をどう運ぶか話していた。
【緒山朋奈の感情:興奮37#*$%¥&】
相変わらず、あの見慣れた乱れまじりの欠けたタグのままだ。
けれど、この明るい光の中では、不思議とあまり目立たなかった。
やがて、病室の扉が開いた。
朝日守が、葵の手を引いて、慎重に外へ出てきた。
葵は病衣ではなく、淡いベージュのワンピースに着替えていた。
その上に羽織った薄い黄色のカーディガンが、白い頬にさえ、少しだけ生気の色を添えている。
目は星でも詰め込んだみたいに輝いていて、口元の笑みがどうにも収まりきっていなかった。
「みんな! おはよう!」
両手をぱっと上げて、元気よく挨拶した。
「わあ、葵ちゃん今日めちゃくちゃ可愛い!」
立花が真っ先に駆け寄った。
「顔色も悪くない」
花野が花束を差し出した。
声は平坦だったが、そのぶんやさしさがにじんでいる。
「準備はいいか? 迎えの車、もう手配してある」
春野が廊下の先を指さした。
朝日守は妹の後ろに立っている。
長いあいだ眉間のあたりに沈んでいた、重い疲れと陰りは、今日の陽射しの中ですっかり薄れていた。
静かなところは変わらなかった。けれど、その目は明るく澄んでいて、口元には心から安堵したような笑みがある。
そして石原は、そのときになって初めて気づいた。
朝日守の感情タグが、いつの間にか完全な形に戻っていることに。
【朝日守の感情:喜び34、興奮47、安堵19】
(……もう、朝日守の執着は消えてる)
石原は胸の内でそう呟く。
あとでみんなにも、このことを伝えようと思った。
軽く言葉を交わし、必要な手続きを済ませると、一行は葵を囲むようにして病院の外へ向かった。
外へ出た瞬間、陽射しがためらいなく全員を包み込む。
葵はあたたかな外気を大きく吸い込み、目を細めた。
その笑顔は、さっきよりさらに明るい。
朝日守の足取りは安定していて、ときどき顔をのぞき込みながら、小さな声で妹に声をかけていた。
「無理するなよ」
「もう、そんなに心配しなくていいってば!」
葵が笑って返した。
場の空気は、ごく自然に浮き立っていた。
立花は葵のそばで、帰ったらできることを次々に口にし、春野は朝日守と小声で移動の段取りを確かめ合っている。
花野は少し後ろを歩きながら、静かに全体を見ていた。
石原と緒山は、その輪の少し外側を並んで歩いている。
緒山はずっと笑っていた。
立花の話に相槌を打ち、ときどき腰をかがめて、風に乱れた葵の髪をそっと整えていた。
その動作は自然で、気負いがなく、見ているだけで安心するほどだ。
本当に、心からこの再会を喜んでいるように見えた。
むしろ、いつもより少しだけ明るいくらいに見えた。
――なのに。
石原は、ほんのわずかな異物のような違和感を感じはじめていた。
最初は、あまりにも小さな違和感だった。
朝日守の両親が、仕事先から慌てて駆けつけてくる。
病院の前で合流し、痩せた母親が目を赤くしながら葵をぎゅっと抱きしめ、そのあと息子の肩を強く叩いた。
その光景に、周囲からも思わずほっとしたような、あたたかなため息が漏れた。
そのときだった。
緒山の笑顔が、ほんの一瞬だけ固まったように見えた。
けれど、それは瞬きのあいだに消えた。
次の瞬間には、何事もなかったみたいに元へ戻っている。
それでも、石原の胸のどこかに、小さな棘のようなものが残った。
それだけじゃなかった。
朝日守たち家族四人が、ようやく寄り添うように並び、春野がスマホで記念写真を撮ることになったとき。
緒山は少し離れた場所から、それを見守っていた。
口元には、ちゃんと笑みがあった。
けれど石原は気づいた。
彼女の指先が、ひそかに丸まり、手のひらへ食い込むみたいに力が入っていたことに。
明るい陽射しが横顔を照らしているはずなのに、その頬は妙に白く見えた。
その瞬間、石原の胸の奥を、説明のつかない動悸がひやりと走る。
ごく弱い、けれど覚えのある予感だった。
石原ははっとして緒山を見た。
けれど彼女は、その場に立っているだけだ。
少なくとも、能力を使っている様子はなかった。
なのに、不安だけが胸の中でじわじわと広がっていった。
やがて車がやってきた。
朝日守が慎重に葵を抱き上げて乗せ、両親がそのそばで支えた。
その光景は、どこにでもありそうなくらい平凡で、だからこそあたたかかった。
生徒会の面々は歩道に並び、手を振る。
「ちゃんと休んでねー!」
「また来週、会いに行くからね!」
葵は窓から半身を乗り出すみたいにして、大きく手を振る。
最後に石原と緒山のほうを見て、口の動きだけでそっと言った。
「ありがとう! またね!」
車はゆっくりと発進し、そのまま通りの流れに混ざっていった。
車の後ろ姿が角の向こうに消えてから、ようやく春野が息を吐いた。
「……ひとまず、一段落だな。いい始まりだ」
立花も頷き、目を潤ませている。
花野も、ほんのわずかに頷いた。
みんな、誰かの願いが叶ったことへの満足感に、静かに包まれていた。
その空気がふっとゆるんだ瞬間。
石原は、ほとんど反射みたいに、もう一度すぐそばの緒山を見た。
緒山はまだ、車の消えた方向を見つめていた。
見送りのときのままの、明るくて、心からそう見える笑顔を浮かべたまま。
どこにも、不自然なところなんてなかった。
なのに――
涙が……
大粒の涙が、なんの前触れもなく、笑顔のままの彼女の目からぽろぽろとこぼれ落ちた。
少し上がったままの口元をかすめ、頬の輪郭を伝い、シャツの前を濡らして、すぐに濃い染みを広げていく。
自分が泣いていることに、緒山自身、気づいていないようだった。
笑顔はそのまま、きれいなかたちで顔に残っていた。
むしろ陽の光を受けて、乾ききらない涙の粒がきらめくぶんだけ、いっそう眩しく見えてしまうほどだった。
【緒山朋奈の感情:羨望24#*$%\】
石原の心臓が、唐突に一拍だけ止まった気がした。
明るい顔も、いたずらっぽい顔も、真剣な顔も、脆さを見せた顔も、これまでにいくつも見てきた。
けれど――こんなふうに、あまりにも静かに泣く姿だけは、初めてだった。
彼女は何も言わない。
ただ穏やかに笑ったまま、涙だけを際限なくあふれさせていた。
そのとき、不意に緒山の身体がふらりと揺れる。
そして石原が反応するより先に、彼女の手が伸びてきて、彼の手首を強く掴んだ。
どこか取り乱したような、けれど必死な力だった。
石原は全身をこわばらせる。
それでも、その手を振り払うことはしなかった。
手首に伝わってきたのは、冷たくて、細かく震える感触。
目の前にあったのは、涙に濡れたまま、それでもまだ笑顔の形を残している横顔だった。
「……緒山さん」
石原は、空いているほうの手をそっと伸ばし、彼女の手の甲に重ねた。
ひどく冷たく、震えの止まらないその手に。
緒山の肩がびくりと跳ねた。
まるで、深い悪夢の底から急に引き戻されたみたいに。
一度、まばたきをした。
その拍子に、また大きな涙がこぼれる。
けれど、貼りついたみたいだった笑顔は、そこでようやく崩れはじめた。
彼女は慌ててうつむき、石原の手首を掴んでいた手を離した。
もう片方の手で顔を拭おうとしたが、肩は小さく、どうしても震え続ける。
「……ご、ごめんなさい……」
声にははっきりと鼻にかかった響きが混じっていた。
ほとんど聞こえないほど小さく、息みたいにかすれて、まともな調子になっていない。
「わ、私……ただ……あの人たちのことが、すごく嬉しくて……」
口にしながら、自分でもその言い訳を信じきれていないのが分かるようだった。
拭っても拭っても、涙は止まらない。
その異変に、周囲の視線が少しずつ集まりはじめた。
石原は半歩だけ前に出て、さりげなくその大半を遮った。
それと同時に、さっきまで手を重ねていたほうの手を、今度はそっと彼女の肩へ置いた。
「……ああ」
石原の声は、意識して平坦になった。
まるで、たった今の出来事がひどく大きなものではなかったみたいに。
「そうだな……ほんとに、よかった」
春野の問いかけるような目を受けて、石原はごく小さく首を横に振った。
緒山は何度か深く息を吸い、ようやくどうにか涙を止めた。
目元も鼻先もまだ赤かったが、顔を上げる。
そこには、涙の跡を残したままの笑顔が、無理やりに戻されていた。
「……私、大丈夫……。ただ、これから葵ちゃんとあんまり遊べなくなるのかなって思ったら……」
まだ声は少し掠れていた。
「だ、大丈夫ですよ! 葵ちゃん、退院したあとだって中等部で会えますし!」
「そ、そうですよ、朋奈さん!」
立花と杏が心配そうに声をかけた。
春野は石原と緒山のあいだを一度見て、少し考えるような顔をしたあと、最後には静かに頷いた。
「……じゃあ、戻ろうか。今日はお疲れさま」
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帰りの電車の中は、どこか静かだった。
緒山は窓にもたれ、流れていく街並みを見ている。
横顔は落ち着いていたが、まつげの先はまだ少し濡れていた。
石原は、その斜め向かいに座ったまま、視線を外せずにいる。
胸の奥を走った、あの妙な動悸も、まだ完全には収まっていなかった。
何度か声をかけようとして。
だが、今は何を言っても、かえって彼女の邪魔をしてしまう気がして、結局ひとつも口にできなかった。
いつも見てきた、曇りのない笑顔。
そして、あのひどく欠けた感情タグ。
緒山の胸の奥には、きっと何かがあるのだと思った。
何か、ずっと隠してきたものが。
――けれど、今の石原には、それが何なのかなんて、どうでもよかった。
赤くなった目のまま窓の外を見つめている緒山を見て、胸の中に残っていたのは、たったひとつの願いだけだ。
(……もう、泣かないでくれ。緒山さん)
その思いが、あまりにも強かった。
それだけで、普段なら人に触れる前に立ち止まってしまうはずのためらいを、押し流してしまうくらいに。
視線が、膝の上で重ねられた彼女の手に落ちた。
まだ、少しだけ縮こまるように指が丸まっている。
その瞬間にはもう、身体のほうが先に動いていた。
石原は立ち上がり、そのまま彼女の隣の空席へ腰を下ろした。
電車が小さく揺れた。
石原は彼女を見ないまま、ただ何気なく座る位置を変えただけのような顔をしていた。
そして、次のかすかな揺れに合わせるようにして、手をゆっくりと伸ばした。
ほんの一瞬だけ、分かるか分からないかほどのためらいがあった。
それでも最後には、その手をそっと彼女の手の甲へ重ねた。
緒山の肩が、小さく震える。
彼女は振り向かなかった。
手も引っ込めなかった。
ただ、窓の外を見たまま、その視線だけがほんの一瞬、固まったように止まる。
電車の規則的な走行音の中で、時間がゆっくりと流れていった。
石原は、そのままだった。
それ以上何かをするでもなく、何かを言うでもなく、ただ触れた手を重ねていた。
やがて、彼女の細かな震えが、少しずつ収まっていく。
窓の外では、街の灯りがひとつずつ灯りはじめていた。
深まりつつある夕暮れの中で、それらが連なり、どこかあたたかな星の川みたいに見える。
車内に流れる案内放送は、遠くぼやけて聞こえた。
どれくらいそうしていただろう。
もう彼女からは何も返ってこないのかもしれない、と石原は思いかけた。
そのときだった。
重ねた手が、ほんのわずかに動いた。
離れようとする動きではなかった。
指先が、ごくゆっくりと裏返る。
おそるおそる確かめるみたいに、石原の指へと触れてきた。
そして――そっと、一本だけ、指を握った。
力はとても弱かった。
羽がそっと触れたみたいに、あまりにもかすかなそれ。
それでも、確かに“応えてくれた”と分かるだけの感触があった。
石原の指先が、ぴくりと震えた。
心臓がまた、少し速く打ち始めた。
それでも彼は動かなかった。
その小さな力に、ただ静かに身を任せる。
二人はそのまま、暗くなりかけた車内の隅で、誰にも気づかれないまま繋がっていた。
あまりにも不器用で、けれどそれ以上なく本物の触れ方だった。
電車はそのまま走り続ける。
見慣れた駅へ向かいながら、まだ名前もつかない先の夜へ向かっていった。
それでも、その先はもう前ほど怖くない気がした。
この無言の繋がりが、たしかにそこにあったから。
今の石原は、ただ手の中にあるこの微かな光を、少しでも強く握っていたかった。
たとえまだ頼りなくても。
たとえ今にも消えてしまいそうでも。
少なくとも、今この瞬間だけは、本物だった。
ぬくもりがあって、たしかに彼の指を握り返していた。
この光が、どうかこれから先も消えませんように。
石原は、ただそう願っていた。




