表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第十一章 笑顔——星明かりの涙
PR
58/104

第五十五話

---


【八月二日・日曜日】


八月最初の陽射しは、澄みきっていて明るかった。

市立総合病院のロビーを囲む大きなガラス張りの壁を通して降りそそぎ、あらゆるものを明るい金色で縁取っている。


今日は、葵が短期退院で家に戻る日だった。


病室の外の廊下には、生徒会の面々がほとんど揃っていた。

みな静かに、そのときを待っている。


春野は珍しくきちんとアイロンのかかったシャツ姿で、立花と杏はそろって短めのスカートを穿いていた。

花野は、素朴な包みにくるまれた小さなかすみ草のドライフラワーを抱えていた。


石原は窓際に立ち、階下の中庭に広がる濃い緑を見下ろしていた。

少しだけ速くなっている鼓動を、なんとか落ち着かせようとする。

それは自分のためじゃなかった。病室の中にいるあの兄妹が、これから手にする短くてもかけがえのない“日常”のことを思って、落ち着かなくなっているだけだった。


緒山は、そのすぐ隣というより、半歩ぶんだけ離れたところに立っていた。

今日は長い髪をゆるく編んで、片側へ流している。


いつものあたたかな笑顔を浮かべながら、立花と小声で、このあと荷物をどう運ぶか話していた。


【緒山朋奈の感情:興奮37#*$%¥&】


相変わらず、あの見慣れた乱れまじりの欠けたタグのままだ。

けれど、この明るい光の中では、不思議とあまり目立たなかった。


やがて、病室の扉が開いた。


朝日守が、葵の手を引いて、慎重に外へ出てきた。


葵は病衣ではなく、淡いベージュのワンピースに着替えていた。

その上に羽織った薄い黄色のカーディガンが、白い頬にさえ、少しだけ生気の色を添えている。


目は星でも詰め込んだみたいに輝いていて、口元の笑みがどうにも収まりきっていなかった。


「みんな! おはよう!」


両手をぱっと上げて、元気よく挨拶した。


「わあ、葵ちゃん今日めちゃくちゃ可愛い!」


立花が真っ先に駆け寄った。


「顔色も悪くない」


花野が花束を差し出した。

声は平坦だったが、そのぶんやさしさがにじんでいる。


「準備はいいか? 迎えの車、もう手配してある」


春野が廊下の先を指さした。


朝日守は妹の後ろに立っている。


長いあいだ眉間のあたりに沈んでいた、重い疲れと陰りは、今日の陽射しの中ですっかり薄れていた。

静かなところは変わらなかった。けれど、その目は明るく澄んでいて、口元には心から安堵したような笑みがある。


そして石原は、そのときになって初めて気づいた。

朝日守の感情タグが、いつの間にか完全な形に戻っていることに。


【朝日守の感情:喜び34、興奮47、安堵19】


(……もう、朝日守の執着は消えてる)


石原は胸の内でそう呟く。

あとでみんなにも、このことを伝えようと思った。


軽く言葉を交わし、必要な手続きを済ませると、一行は葵を囲むようにして病院の外へ向かった。

外へ出た瞬間、陽射しがためらいなく全員を包み込む。


葵はあたたかな外気を大きく吸い込み、目を細めた。

その笑顔は、さっきよりさらに明るい。


朝日守の足取りは安定していて、ときどき顔をのぞき込みながら、小さな声で妹に声をかけていた。


「無理するなよ」


「もう、そんなに心配しなくていいってば!」


葵が笑って返した。


場の空気は、ごく自然に浮き立っていた。

立花は葵のそばで、帰ったらできることを次々に口にし、春野は朝日守と小声で移動の段取りを確かめ合っている。

花野は少し後ろを歩きながら、静かに全体を見ていた。

石原と緒山は、その輪の少し外側を並んで歩いている。


緒山はずっと笑っていた。

立花の話に相槌を打ち、ときどき腰をかがめて、風に乱れた葵の髪をそっと整えていた。

その動作は自然で、気負いがなく、見ているだけで安心するほどだ。

本当に、心からこの再会を喜んでいるように見えた。

むしろ、いつもより少しだけ明るいくらいに見えた。


――なのに。


石原は、ほんのわずかな異物のような違和感を感じはじめていた。


最初は、あまりにも小さな違和感だった。


朝日守の両親が、仕事先から慌てて駆けつけてくる。

病院の前で合流し、痩せた母親が目を赤くしながら葵をぎゅっと抱きしめ、そのあと息子の肩を強く叩いた。

その光景に、周囲からも思わずほっとしたような、あたたかなため息が漏れた。


そのときだった。


緒山の笑顔が、ほんの一瞬だけ固まったように見えた。


けれど、それは瞬きのあいだに消えた。

次の瞬間には、何事もなかったみたいに元へ戻っている。


それでも、石原の胸のどこかに、小さな棘のようなものが残った。


それだけじゃなかった。


朝日守たち家族四人が、ようやく寄り添うように並び、春野がスマホで記念写真を撮ることになったとき。

緒山は少し離れた場所から、それを見守っていた。


口元には、ちゃんと笑みがあった。

けれど石原は気づいた。

彼女の指先が、ひそかに丸まり、手のひらへ食い込むみたいに力が入っていたことに。


明るい陽射しが横顔を照らしているはずなのに、その頬は妙に白く見えた。


その瞬間、石原の胸の奥を、説明のつかない動悸がひやりと走る。

ごく弱い、けれど覚えのある予感だった。


石原ははっとして緒山を見た。

けれど彼女は、その場に立っているだけだ。

少なくとも、能力を使っている様子はなかった。


なのに、不安だけが胸の中でじわじわと広がっていった。


やがて車がやってきた。


朝日守が慎重に葵を抱き上げて乗せ、両親がそのそばで支えた。

その光景は、どこにでもありそうなくらい平凡で、だからこそあたたかかった。


生徒会の面々は歩道に並び、手を振る。


「ちゃんと休んでねー!」

「また来週、会いに行くからね!」


葵は窓から半身を乗り出すみたいにして、大きく手を振る。

最後に石原と緒山のほうを見て、口の動きだけでそっと言った。


「ありがとう! またね!」


車はゆっくりと発進し、そのまま通りの流れに混ざっていった。


車の後ろ姿が角の向こうに消えてから、ようやく春野が息を吐いた。


「……ひとまず、一段落だな。いい始まりだ」


立花も頷き、目を潤ませている。

花野も、ほんのわずかに頷いた。


みんな、誰かの願いが叶ったことへの満足感に、静かに包まれていた。


その空気がふっとゆるんだ瞬間。


石原は、ほとんど反射みたいに、もう一度すぐそばの緒山を見た。


緒山はまだ、車の消えた方向を見つめていた。

見送りのときのままの、明るくて、心からそう見える笑顔を浮かべたまま。

どこにも、不自然なところなんてなかった。


なのに――


涙が……


大粒の涙が、なんの前触れもなく、笑顔のままの彼女の目からぽろぽろとこぼれ落ちた。


少し上がったままの口元をかすめ、頬の輪郭を伝い、シャツの前を濡らして、すぐに濃い染みを広げていく。


自分が泣いていることに、緒山自身、気づいていないようだった。


笑顔はそのまま、きれいなかたちで顔に残っていた。

むしろ陽の光を受けて、乾ききらない涙の粒がきらめくぶんだけ、いっそう眩しく見えてしまうほどだった。


【緒山朋奈の感情:羨望24#*$%\】


石原の心臓が、唐突に一拍だけ止まった気がした。


明るい顔も、いたずらっぽい顔も、真剣な顔も、脆さを見せた顔も、これまでにいくつも見てきた。

けれど――こんなふうに、あまりにも静かに泣く姿だけは、初めてだった。


彼女は何も言わない。

ただ穏やかに笑ったまま、涙だけを際限なくあふれさせていた。


そのとき、不意に緒山の身体がふらりと揺れる。


そして石原が反応するより先に、彼女の手が伸びてきて、彼の手首を強く掴んだ。

どこか取り乱したような、けれど必死な力だった。


石原は全身をこわばらせる。

それでも、その手を振り払うことはしなかった。


手首に伝わってきたのは、冷たくて、細かく震える感触。

目の前にあったのは、涙に濡れたまま、それでもまだ笑顔の形を残している横顔だった。


「……緒山さん」


石原は、空いているほうの手をそっと伸ばし、彼女の手の甲に重ねた。

ひどく冷たく、震えの止まらないその手に。


緒山の肩がびくりと跳ねた。

まるで、深い悪夢の底から急に引き戻されたみたいに。


一度、まばたきをした。

その拍子に、また大きな涙がこぼれる。

けれど、貼りついたみたいだった笑顔は、そこでようやく崩れはじめた。


彼女は慌ててうつむき、石原の手首を掴んでいた手を離した。

もう片方の手で顔を拭おうとしたが、肩は小さく、どうしても震え続ける。


「……ご、ごめんなさい……」


声にははっきりと鼻にかかった響きが混じっていた。

ほとんど聞こえないほど小さく、息みたいにかすれて、まともな調子になっていない。


「わ、私……ただ……あの人たちのことが、すごく嬉しくて……」


口にしながら、自分でもその言い訳を信じきれていないのが分かるようだった。

拭っても拭っても、涙は止まらない。


その異変に、周囲の視線が少しずつ集まりはじめた。


石原は半歩だけ前に出て、さりげなくその大半を遮った。

それと同時に、さっきまで手を重ねていたほうの手を、今度はそっと彼女の肩へ置いた。


「……ああ」


石原の声は、意識して平坦になった。

まるで、たった今の出来事がひどく大きなものではなかったみたいに。


「そうだな……ほんとに、よかった」


春野の問いかけるような目を受けて、石原はごく小さく首を横に振った。


緒山は何度か深く息を吸い、ようやくどうにか涙を止めた。

目元も鼻先もまだ赤かったが、顔を上げる。

そこには、涙の跡を残したままの笑顔が、無理やりに戻されていた。


「……私、大丈夫……。ただ、これから葵ちゃんとあんまり遊べなくなるのかなって思ったら……」


まだ声は少し掠れていた。


「だ、大丈夫ですよ! 葵ちゃん、退院したあとだって中等部で会えますし!」


「そ、そうですよ、朋奈さん!」


立花と杏が心配そうに声をかけた。


春野は石原と緒山のあいだを一度見て、少し考えるような顔をしたあと、最後には静かに頷いた。


「……じゃあ、戻ろうか。今日はお疲れさま」


---


帰りの電車の中は、どこか静かだった。


緒山は窓にもたれ、流れていく街並みを見ている。

横顔は落ち着いていたが、まつげの先はまだ少し濡れていた。


石原は、その斜め向かいに座ったまま、視線を外せずにいる。

胸の奥を走った、あの妙な動悸も、まだ完全には収まっていなかった。


何度か声をかけようとして。

だが、今は何を言っても、かえって彼女の邪魔をしてしまう気がして、結局ひとつも口にできなかった。


いつも見てきた、曇りのない笑顔。

そして、あのひどく欠けた感情タグ。


緒山の胸の奥には、きっと何かがあるのだと思った。

何か、ずっと隠してきたものが。


――けれど、今の石原には、それが何なのかなんて、どうでもよかった。


赤くなった目のまま窓の外を見つめている緒山を見て、胸の中に残っていたのは、たったひとつの願いだけだ。


(……もう、泣かないでくれ。緒山さん)


その思いが、あまりにも強かった。

それだけで、普段なら人に触れる前に立ち止まってしまうはずのためらいを、押し流してしまうくらいに。


視線が、膝の上で重ねられた彼女の手に落ちた。

まだ、少しだけ縮こまるように指が丸まっている。


その瞬間にはもう、身体のほうが先に動いていた。


石原は立ち上がり、そのまま彼女の隣の空席へ腰を下ろした。

電車が小さく揺れた。

石原は彼女を見ないまま、ただ何気なく座る位置を変えただけのような顔をしていた。


そして、次のかすかな揺れに合わせるようにして、手をゆっくりと伸ばした。

ほんの一瞬だけ、分かるか分からないかほどのためらいがあった。

それでも最後には、その手をそっと彼女の手の甲へ重ねた。


緒山の肩が、小さく震える。


彼女は振り向かなかった。

手も引っ込めなかった。

ただ、窓の外を見たまま、その視線だけがほんの一瞬、固まったように止まる。


電車の規則的な走行音の中で、時間がゆっくりと流れていった。


石原は、そのままだった。

それ以上何かをするでもなく、何かを言うでもなく、ただ触れた手を重ねていた。


やがて、彼女の細かな震えが、少しずつ収まっていく。


窓の外では、街の灯りがひとつずつ灯りはじめていた。

深まりつつある夕暮れの中で、それらが連なり、どこかあたたかな星の川みたいに見える。

車内に流れる案内放送は、遠くぼやけて聞こえた。


どれくらいそうしていただろう。


もう彼女からは何も返ってこないのかもしれない、と石原は思いかけた。

そのときだった。


重ねた手が、ほんのわずかに動いた。


離れようとする動きではなかった。


指先が、ごくゆっくりと裏返る。

おそるおそる確かめるみたいに、石原の指へと触れてきた。

そして――そっと、一本だけ、指を握った。


力はとても弱かった。

羽がそっと触れたみたいに、あまりにもかすかなそれ。

それでも、確かに“応えてくれた”と分かるだけの感触があった。


石原の指先が、ぴくりと震えた。

心臓がまた、少し速く打ち始めた。


それでも彼は動かなかった。

その小さな力に、ただ静かに身を任せる。


二人はそのまま、暗くなりかけた車内の隅で、誰にも気づかれないまま繋がっていた。

あまりにも不器用で、けれどそれ以上なく本物の触れ方だった。


電車はそのまま走り続ける。

見慣れた駅へ向かいながら、まだ名前もつかない先の夜へ向かっていった。

それでも、その先はもう前ほど怖くない気がした。

この無言の繋がりが、たしかにそこにあったから。


今の石原は、ただ手の中にあるこの微かな光を、少しでも強く握っていたかった。


たとえまだ頼りなくても。

たとえ今にも消えてしまいそうでも。


少なくとも、今この瞬間だけは、本物だった。

ぬくもりがあって、たしかに彼の指を握り返していた。


この光が、どうかこれから先も消えませんように。

石原は、ただそう願っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ