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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第十一章 笑顔——星明かりの涙
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第五十四話

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病室に戻って、買ってきたパズルやお菓子を置いても、葵の元気はまだ続いていた。

石原と緒山がそろそろ帰ろうとしたとき、葵がもう一度二人を呼び止める。


「朋奈お姉ちゃん、久希お兄ちゃん、もうちょっとだけいてくれる?」


両手を合わせて、きらきらした目で見上げた。


「わたし……お兄ちゃんと一緒に、ちょっとした“プレゼント”を用意したの。今日、一緒にお出かけしてくれたお礼と……それから、今までずっといろいろしてくれたお礼」


「プレゼント?」


緒山が少し首をかしげる。


朝日守が静かにドアのそばへ行き、病室の天井灯を消した。

午後の明るい陽射しはカーテン越しにやわらぎ、部屋の中はたちまちやわらかな薄闇に包まれる。


「お兄ちゃんね、わたしが退院できるお祝いと、みんなへのお礼を込めて、“今までにないくらいすごい大魔法”を見せてくれるって言ってたの!」


声を潜めているのに、嬉しさは隠しきれていなかった。


「だから、朋奈お姉ちゃんと久希お兄ちゃんにも、絶対いっしょに見てほしくて!」


まっすぐな信頼と期待が、そのまま朝日守へ向けられていた。


朝日守は病室の中央に立ち、石原と緒山へ軽くうなずいた。

そして、静かに目を閉じる。


その表情には、旧校舎で見せていたような張りつめた痛々しさは、もうなかった。

代わりにあったのは、少しの穏やかさと、この景色を誰かと分かち合いたいという、澄んだ意志。


石原は息をひそめた。

朝日守の感情タグが、ゆっくりと流れはじめた。

欠けていた部分が、何かやわらかな力に導かれるみたいに、秩序をもって波打っていった。

それはこれまでのような、乱暴で制御のきかない噴き上がり方ではなかった。


そして次の瞬間。

薄暗い病室の中へ、奇跡は音もなく降りてきた。


もう、手のひらの上だけに閉じ込められた小さな景色ではなかった。

点々とした光が、風に散る蛍火の種みたいに朝日守のまわりから浮かび上がり、ふわりと天井へ、壁へと流れていく。


それらはやがて集まり、広がり、まるで見えない筆が病室の天井をそのままキャンバスにしているかのように、深い群青の夜をゆっくりと染めひろげていった。


その中で、星がひとつ、またひとつと灯っていった。

ただ無数に散っているのではなかった。間の取り方にまで息づかいがあるような、疎密の整った星々たち。

光は金色、銀白、淡い青――それぞれがかすかな瞬きを宿していた。


やがて、やわらかな乳白色の光を帯びた銀河が、天井を斜めに流れるように現れた。

その向こうには、夢の中でしか見られないような、ごく淡い星雲の光斑までにじんでいた。


その場にいた誰もが、息を呑んだ。


その星空が、ほとんど完成されたものとして静まりかけた――そのとき。


銀河の縁で、周囲の星よりもなお明るく、なお鋭い一点の光が、なんの前触れもなく生まれた。


それは現れた瞬間から、ゆっくりと、けれどどこか厳かな落ち着きをたたえて動きはじめた。

中心にあるのは、かすかな温もりを帯びた淡い金色の光だった。眩しすぎることはなく、まるで本当に天を巡る何かのように、見えない軌道をたどっていく。


そして何より、目を奪われたのは、その背後に曳かれていく光だった。


それはただの一本の帯ではなかった。

無数の、ダイヤモンドの粉みたいに細かな光の粒が、核から絶えずあふれ、ほどけ、引きのばされていく。

それぞれの粒はただ並ぶのではなく、本体の動きに従って揺れ、散り、重なりながら、しだいに幅広く、しだいに華やかな尾を形作っていった。


色もまた、ひとつではない。

核に近いところではあたたかな淡金だった。そこからおぼろな銀白へと変わり、いちばん長く伸びた先では、かすかな薄紫と氷のような淡青へと溶けていった。


その尾はまっすぐではなく、ひどくゆるやかな波を帯びていた。

まるで真空の中でさえ、どこかやさしい引力に引かれているみたいに、静かに、けれど確かに揺れている。


進む速さも、あまりにも絶妙だ。

一筋一筋の光の流れを見届けられるほどにはゆっくりで、それでいて、遥かな星の時を渡っていくものだけが持つような、揺るぎない落ち着きと気高さがあった。


それは、ただ天文現象を真似たものには見えなかった。

むしろ、ひとりきりで抱え込んできた守りたい気持ちも、願いも、うまく言葉にできない不器用な愛情さえも、ひとつ残らず凝縮して、心の夜空に架け渡した光の橋みたいだった。


石原は、その瞬間、呼吸を忘れていた。


彼が見ていたのは、目の前の光景だけではなかった。

彗星が生まれ、天井を横切っていくその短いあいだ、朝日守のタグは、これまで一度も見たことがないほど整った波を描いている。

欠け、乱れ、噛み合わなかったものが、そこではじめて、ひとつの形を取っていた。


あの彗星は、もう彼にとって届かない欠落ではなかった。

感情も、願いも、努力も、その全部がようやく辿り着いた先――妹に差し出す、形を持った“愛”そのものだった。


葵は、口を開けたまま見上げていた。

瞳の中には、人工の天の川がそのまま映り込んでいた。そこにあるのは、ただただ純粋な驚きと幸福だけだった。


「……すごい……」


緒山も、思わず小さく呟く。

誰かのために生まれたこの星空を見上げるその目は、やわらかくほどけていた。


朝日守は目を開けた。

顔色はいつもより少し白かったが、呼吸は安定していて、眼差しも澄んでいた。


妹の満ち足りた笑顔を見て、彼の口元にも、ほんのかすかな笑みが浮かぶ。


それから、石原と緒山のほうを見て、静かにうなずいた。


やわらかな星の光が、そこにいる全員へ降りそそいでいた。

病室は、ほんのしばらくのあいだ、痛みとも不安とも切り離された、夢の中の部屋みたいになっていた。


その静かな光の下で、葵が満ち足りた声で、小さくつぶやいた。


「次、陽明お兄ちゃんたち来たら……ちゃんとお礼、言わなきゃ……」


やがて、その声もだんだんとほどけていった。


穏やかな光に包まれながら、葵はゆっくりとまぶたを閉じる。

まだ封も切っていない『星月夜』のパズルを抱えたまま。

兄が作り出した星空の下で、安心しきったように眠りへ落ちていった。


「それと……ちゃんと……お兄ちゃんにも……ありがとうって……」


言葉は、そこで眠りに溶けた。


朝日守はそっと布団の端を整え、手を軽く振った。

星の光は静かにほどけるように薄れ、やがて消える。

病室には、ふたたびいつもの明るさが戻った。


病院を出るころには、ちょうど夕暮れだった。


石原と緒山は並んで歩いたが、しばらくはどちらも口を開かなかった。


まだ、あの星の残光が網膜の裏に焼きついているようだった。


「……どうやら」


ふいに、緒山が言った。

肩の力が抜けたように、ほっとした笑みを浮かべた。


「私たちの“観測”と“介入”、ちゃんと意味があったみたいですね、先輩」


「……ああ」


石原は短く答えた。

視線の先では、夕焼けに染まった雲が、静かに空の端まで広がっていた。

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