第五十三話
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短期退院の見込みが立ったと聞いてから、葵の目の輝きは、これまでのどんなときよりも明るくなっていた。
それは、ただ嬉しいというだけじゃなかった。
“普通の暮らし”に触れられるかもしれない――そんな願いを、壊さないようにそっと抱きしめているみたいな、小さくて大事な光だった。
よく晴れた週末の午後。
医師が外に出てもいいと頷いてくれたのをきっかけに、見舞いに来ていた石原と緒山へ、葵は少し勇気を出して、小さなお願いをした。
「えっと……朋奈お姉ちゃん、久希お兄ちゃん……」
ベッドに背を預けたまま、シーツの端をぎゅっと握った。
けれど目はきらきらして、まっすぐ二人を見ていた。
「もし……もし大丈夫なら、本当に退院しておうちに帰る前に……お兄ちゃんと一緒に、みんなとちょっとだけ外を歩いてみてもいいかな? 病院の近くを少しだけでいいの。お医者さんも、少しくらいなら動いていいって言ってくれて……!」
その目には光が宿っていた。
一生懸命に抑えようとしているのに、それでも憧れが隠しきれていなかった。
そばに立っていた朝日守は、何か言いかけて口を閉じる。
いつものように、身体に気をつけろと言いそうになって――結局は何も言わず、石原と緒山のほうを見た。
緒山は、ほとんど迷わなかった。
「もちろんいいよ! こんなにいい天気だもん、お散歩するのにぴったりだよ。ね、先輩?」
そう言って振り向いた。
石原も、短く頷く。
「ああ。問題ない」
そうして、ささやかな“外出”が決まった。
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四人は、病院の近くの静かな通りをゆっくり進んだ。
日差しはやわらかく、風が道端の若い葉をそっと揺らしていた。
空気は澄んでいて、どこか青い匂いがする。
葵は車椅子に乗り、朝日守がその後ろを押していた。
外の空気を惜しむみたいに深く吸い込みながら、目を忙しなくあちこちへ向ける。
見慣れているはずの街並みも、行き交う人も、店先のショーウィンドウも――その全部が、新しくて面白く見えているようだった。
「あっ、あのコンビニ! お兄ちゃん、前によくあそこでヨーグルト買ってくれたよね!」
「見て、朋奈お姉ちゃん! あっちのお花、すっごくきれい!」
その声は、跳ねる音符みたいに軽やかだ。
朝日守は車椅子を押しながら、大半の時間は黙っていたけれど、視線だけはずっと妹を追っていた。
葵が何かを指さすたび、その口元もわずかに緩んだ。
四人は、あたたかみのある文具雑貨店に入る。
葵の目は、すぐに棚の上のパズルへ引き寄せられた。
箱には、ゴッホの『星月夜』が描かれていた。渦を巻く星空と、静かな村の景色が、紙箱の上でかすかに光っているみたいだった。
「これ……」
小さな声だった。
好き、という気持ちは隠しきれていなかった。けれど、ためらいもちゃんと混じっていた。
必要なものじゃないと、彼女自身が分かっているからだ。
「気に入ったか?」
石原はすでにしゃがみ込み、その箱を手に取って見ていた。
「千ピースか。難しすぎず、ちょうどいいな。絵柄もきれいだし、休んでるときに少しずつやるのに向いてる」
そう言って、微笑むように緒山を見た。
緒山はすぐに意図を察して、そのまま迷わずレジへ向かう。
朝日守が止めるより早かった。
「これ、お願いします!」
「お兄ちゃん、お姉ちゃん……」
葵が小さな声で言った。
顔いっぱいに、隠しきれない嬉しさが広がっている。
「退院祝いの一部だ」
石原は短く言って、パズルを手渡した。
葵はそれを大事そうに抱え込み、頬をすり寄せた。
「ありがとう」
朝日守が、妹にちゃんと礼を言うよう促した。
「……ありがとうございます、二人とも!」
そのあと、葵はお菓子売り場で、医師に少しならいいと言われている飴やゼリーをいくつか選んだ。
どれも両手でそっと抱え、大事な宝物みたいに持っていた。
帰り道。
気持ちがほどけたからか、それともこの久しぶりの外出の空気にすっかり包まれてしまったからか、葵はさっきまでよりずっとおしゃべりになっていた。
車椅子の横を歩く石原を見上げて、ふいにぱちぱちとまばたきをした。
「久希お兄ちゃんって、静かで頼れるし……いつもちゃんと、まじめにお話聞いてくれるし……いいなあ」
石原は、そのあまりにまっすぐな褒め言葉に一瞬固まり、耳のあたりが熱くなるのを感じた。
「……そうか」
曖昧に返した。
葵はにこにこと笑いながら、その手をぎゅっと掴んだ。
「わたしね、久希お兄ちゃんみたいにやさしい人と、けっこんしたいな!」
「ぶっ――ごほっ!」
横で水を飲んでいた緒山が、危うくむせかける。
朝日守の手にも思わず力が入り、車椅子がわずかにぶれそうになった。
驚きと、苦笑と、本能的な警戒みたいなものが、顔に一瞬だけよぎる。
「葵! そういうこと言うな。石原くんは――」
言いかけて、止まった。
石原と緒山を交互に見た。
旧校舎でのあの一件と、その後のあれこれが頭の中でさっと繋がって、妙に筋の通った解釈ができあがってしまったらしい。
少し気まずそうに、声を落とした。
「……石原くんと緒山さんは、その……付き合ってるんだろ。だから、そういう冗談は――」
空気が、一瞬だけ止まった。
「えっ?!」
葵が目を丸くした。
二人を交互に見て、そっと石原の手を離した。
「ごめんなさい……知らなかった。でも、すごくお似合いだと思う!」
「ち、違う!」
石原の顔が一気に赤くなった。
「そうじゃない! 朝日くん、それは誤解だ。あのときは……その……」
言葉に詰まった。
さすがに、ここで事情をそのまま口にするわけにはいかなかった。
緒山も頬をほんのり赤くしていたが、すぐに落ち着きを取り戻し、少し困ったように、でもおかしそうにも見える顔で葵の肩をぽんと叩いた。
「葵ちゃん、違うよ。お兄ちゃん、ちょっと勘違いしてるの。
私は先輩とは、仲のいい友達っていうか……生徒会の仲間で。あのときは、うん、ちょっと複雑な事情があっただけ。恋人じゃないよ」
そう言って、朝日守にちらりと視線を送った。
――その件は長くなるから、あとで説明する。
そんな意味が透けて見える目だった。
朝日守は一瞬きょとんとしたあと、ようやく自分がとんでもない勘違いをしていたらしいと気づいた。
耳まで少し赤くなり、視線を落とす。
「……悪い。勝手に思い込んでた」
「いいよいいよ~」
葵はあっさり笑顔に戻った。
「でも、朋奈お姉ちゃんと久希お兄ちゃん、ほんとに仲いいよね。なんか、兄妹みたい!」
そのひと言で、場の空気はまたふっと軽くなった。
けれど同時に、どこか少しだけくすぐったいような、微妙な感じも残した。
石原と緒山は顔を見合わせ、小さく苦笑した。
それでも、二人とも少し肩の力が抜けていた。
ほんの小さな勘違いと、その訂正だった。
ただそれだけのやり取りだったのに、いつの間にか、四人のあいだにあったどこか意識的な距離は、少しだけ薄れていた。




