第五十二話
---
介入してからの日々は、まるで目に見えないやさしい手が、ゆっくり時計の針を進めていくように過ぎていった。
旧校舎三階東側の物置は、相変わらず朝日守の“工房”だった。
けれど、そこに満ちる空気は、いつの間にか少しずつ変わっていた。
一つの方向へ思いつめたように突っ走るやり方は、もっと慎重に試しながら進むやり方へと変わっていった。
彼は今も、あの特別な“彗星”を追い続けていた。
けれどもう、自分自身を薪みたいにくべて燃やすような無茶はしなかった。代わりに、火加減を覚えていくみたいに、少しずつ力の加減を覚えようとしていた。
花野が、黒い表紙のノートを一冊差し出す。
「記録。時間、持続時間、感覚」
平坦な声だった。
「曖昧なものを、追跡可能なデータに変える」
朝日守はノートを見下ろしたまま、すぐには開かなかった。
指先は少しこわばり、その目には気まずさと、わずかな抵抗がにじんでいる。
あんな不穏な感覚を記録に残すことは、傷口を何度ものぞき込むのと変わらなかったからだ。
それでも、初めて真面目に書き込んだあと――自分の手で記した「左手のひらのしびれが約二時間持続。温水に触れても触覚が鈍い」といった文字を見つめたまま、彼は長いこと黙っていた。
定量化された代償は、曖昧な「気分が悪い」なんかより、はるかに重く突き刺さる。
それは冷たい鏡のように、その“贈り物”の裏側にぶら下がっていた、はっきりと残酷な値札を映し出していた。
「一回の使用は、最長でも三分まで」
生徒会室での話し合いの場で、石原はホワイトボードに引かれた赤線を指しながらそう言った。
「これを超えると、あの乱れが一気に強くなる。回復にもかなり時間がかかる」
「それと、次に使うまでは最低でも二十四時間は空けようね」
緒山が、やわらかく補足した。
「体も……それに“感覚”のほうも、ちゃんと休ませてあげないとね。葵ちゃんだって、ほんの一瞬の星空のために朝日くんが自分を追い込みすぎて、昼と夜の温度の違いさえ分からなくなるなんて、きっと望んでないよ」
朝日守は、会議机の端に座ったまま、うつむいてノートのざらついた表紙を指でなぞる。
そして最後には、小さく「……うん」とだけ答えた。
---
朝日葵への見舞いも、もうただの“気遣い”ではなくなっていた。
それはいつしか、生徒会全体で引き受ける大事な役目になっていた。
その中でも、いちばん活発に動いていたのは立花だった。
佐藤を通じて、ほとんど名ばかりになっていた中等部の天文同好会から、いろいろな“お宝”を掘り起こしてきた。
手描きの簡易四季星図に、星座伝説をまとめた小冊子、それに手で回す古い紙製の星座盤まで。
それらを得意げに病室へ持ち込み、葵と頭を寄せ合って一緒に眺めていた。
カラーペンで好きな星に印をつけながら、明るい笑い声を響かせる。
「美里お姉ちゃん、この星ほんとに“葵”っていうの?」
葵が、星図の小さな一点を指して目を輝かせた。
「うん! ちゃんと調べたよ。すごく小さい星なんだけど、ある古い星表では、“日に向かう花”みたいな意味があるんだって!」
立花は身振り手振りを交えて話し、そうやって嬉しそうに呼ばれたのが照れくさいのか、頬を少し赤くしていた。
その頭上に浮かぶ【愉快95、満足5】のきれいなタグを見て、石原の胸の奥も少しやわらいだ。
春野と花野は、もっと実務的なところを支えていた。
春野は生徒会の名義で朝日守の担任にそれとなく話を通し、“身体的に特殊な事情”があることを踏まえて、ときどき遅刻したり、ひどく消耗している日があっても、ある程度は理解と融通がきくよう下地を整えていた。
花野は、葵が無理なく楽しめる科学・自然系の本や映像のリストをまとめ、読みやすくて面白い本やドキュメンタリーを選び出していた。さらに、持ち前の情報検索能力で、世界各地の星空映像をリアルタイムで見られるサイトまで探し当てていた。
そして――緒山は。
そのすべてを、やわらかくつないでいく存在になっていた。
訪れる回数そのものは、特別多いわけではない。
けれど、ひとたび来れば長くそばにいた。
ただ励ますだけではなく、葵がちゃんと“参加できる楽しさ”を、自然なかたちで運んできていた。
「ほら、葵ちゃん。今日はこれやろう?」
そう言って取り出したのは、小さなUSBの星空ライトと、黒いカード紙、それから銀色のペイントペンだった。
「好きな星座を描いて、針で星のところに穴を開けるの。
夜にこのライトで照らすと……天井に、自分だけの星空ができるよ」
点滴で少し冷えた葵の手を包み込みながら、ゆっくりと線を引かせていった。
歪んだ線でも、そこにはちゃんと命があった。
病室は静かで、ペン先が紙をこするかすかな音と、二人の小さな話し声だけが続いていた。
「朋奈お姉ちゃんの手、あったかい」
葵がふいに言った。
「そうかな?」
緒山はやさしく笑い、指先に少しだけ力を込めた。
その温もりを、もっと確かに伝えるみたいに。
「うん……それにね、朋奈お姉ちゃんが星を見るときの目、すごくやさしくて、でもすごく真剣で……わたしも、朋奈お姉ちゃんみたいになりたい」
横から見上げる琥珀色の瞳は、澄んでいて、まっすぐだった。
緒山の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
けれど次の瞬間には、笑みがもっと深くなる。
カーテン越しの午後の光の中で、その笑顔は少し眩しすぎるくらいだった。
「なれるよ~」
弾むような声で、そこには笑みも混じっていた。
病室の隅で点滴スタンドの位置を調整していた石原は、胸の奥を何かにそっとつままれたような感覚を覚えた。
彼は振り返って仲のいい二人の姿を視界に収め、ほっと息をついた。
---
朝日守の変化は、ゆっくりだったが、、たしかにそこにあった。
彼は、決めた“セーフライン”を意識して守るようになっていた。
旧校舎での練習でも、実際には力を使わず、ただ座ったまま頭の中で“彗星”の軌道や尾の光を何度もなぞるだけの日さえあった。
疲れは残っていたが、あの極端な虚脱感に襲われる頻度は、少しずつ減っているようだ
あるとき、少し戸惑いながらも、どこか期待をにじませるような顔で、石原にぽつりと漏らした。
「昨日……ちょっと違ったかもしれない。扉にぶつけたとき……少し、痛かった」
「いいことだ」
石原はいつも通り短く答えた。
けれど心の中では、少しほっとしていた。
代償は、完全に取り返しのつかないものじゃない――そう思える兆しだった。
そして、さらに大きな波紋が広がったのは、二週間ほど後の朝日葵の定期検査のあとだった。
その日、生徒会室に入ってきた朝日守の表情は、誰も見たことのないものだった。
目には涙が滲み、手には医師のメモを指が白くなるほどきつく握りしめている。
「先生が……」
何度か口を開きかけて、ようやく声が出た。
「葵の状態……最近はすごく安定してるって。生理的な数値もかなり落ち着いてて……気持ちや心の面でのいい影響が、思ってた以上に出てるって……体への負担も、軽くなってきてる兆候があるって……!」
大きく息を吸い込み、全身の力を使うみたいにして、次の言葉を押し出した。
「このまま維持できたら……来月の初めに、短いあいだだけど……家に帰れるようになるかもしれないって。ほんの数日だけど……で、でも……」
その先は続かなかった。
立花が、小さく歓声を上げてしまったからだ。
春野が力強く肩を叩き、花野の口元も珍しくほんの少しだけ上がっていた。
石原も、心からほっとしていた。
その視線が、みんなの声に引かれるように、自然と緒山へ向く。
緒山は、これ以上ないくらい明るい笑顔を咲かせていた。
真っ先に拍手を始め、その澄んだ音が室内に広がっていった。まるで、この場の喜びにぴたりと溶け込むみたいに。
「よかったね、朝日くん!」
弾む声で彼のそばへ歩み寄り、その喜びをそのまままっすぐ伝えた。
「葵ちゃん、きっとすっごく喜ぶよ! その数日をどう過ごしたら一番楽しいか、ちゃんと考えよう!」
その目には、心からの喜びがまっすぐあふれていた。
「みんなで旅行とか行けたら楽しそう!」
立花が勢いよく口を挟む。
それをきっかけに、ほかのメンバーも次々に言葉を重ねはじめ、部屋の空気は一気に明るくなっていった。




