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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第十一章 笑顔——星明かりの涙
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第五十一話

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【七月八日・月曜日・夕暮れ】


蒸し暑さが異様だった。

鉛色の重たい雲が低く垂れこめ、街の上にのしかかっていた。今にも崩れ落ちてきそうだった。

風はない。ただ、息が詰まるような重たい空気だけが淀んでいた。


旧校舎の中は、なおさらひどい暑さで、埃でさえ、もう舞い上がる力をなくしてしまったように思えた。


石原と緒山は、いつもの場所に身を潜めていた。


朝日守が物置に入った瞬間から、石原の眉間の皺はずっと消えなかった。

――今日はおかしい。最初から、朝日守のタグがひどく不安定にざわついていた。


いつもよりかなり早く来て、扉を開けたときには、すでに息も荒かった。


【朝日守の感情:焦燥37#$%@¥‘’】


「……おかしい」


石原は低く呟き、隣の緒山へ注意を促した。

緒山もすぐに身体を強張らせ、神経を研ぎ澄ませる。


物置の中で、朝日守はいつものように静かに立って準備を整えたりはしなかった。

ほとんど間を置かず、焦りを滲ませた動きで手を持ち上げる。


次の瞬間、縮小された星空の幻景がぱっと灯った。

これまでのどのときよりも明るく、そして速かった。星の巡りも不自然なくらいせわしない。


だが、その輝きは二十秒も保たなかった。

壊れた電球みたいに、唐突にぷつりと消える。


暗がりの中で、朝日守の身体がよろめいたが、それでも止まらなかった。


彼は乱暴に頭を振り、深く息を吸い込み、歯を食いしばったまま、もう一度両手を持ち上げる。


二度目の星空が灯った。

今度はさらに眩しく、けれどそのぶん、いっそう不安定だった。輪郭の光が激しく震え、歪んでいった。


十秒――あるいは、それより短かったかもしれない。

またしても、光は消えた。


朝日守の喉の奥から、押し殺したような声が漏れた。

身体の揺れはさっきよりもひどかった。

それでもなお、頑なに、震える手で三度目の光を形にしようとしていた。


その瞬間、石原のこめかみに裂けるような痛みが走る。

視界の端で、黒い斑点が明滅した。


朝日守の感情は、一度ごとにさらに乱れ、さらに尖り、痛みと偏執を剥き出しにしていった。

それはまるで、実体を持った騒音の濁流みたいに、石原の感覚へ容赦なく叩きつけられる。


「……っ」


石原は低く呻き、危うく足を踏み外しかけた。


「先輩!」


緒山がとっさに彼を支える。

そのまま朝日守へ視線を向け、血の気の引いた顔を見た瞬間、事態がこれまでとは比べものにならないほど危険だと悟った。


その目に、迷いのない決意が走った。


「だめ! 止めないと!」


石原はめまいをこらえながら、強く頷いた。


二人はもう隠れず、物陰から飛び出した。


緒山が一歩先に駆け、薄い物置の扉を強く叩いた。

その声は、蒸し暑い空気を突き抜ける。


「朝日くん! 開けて! もうやめて、止まって!」


扉の向こうで、どうにか形を保っていた三度目の星の光が、驚いたようにびくりと震え、次の瞬間、完全に崩れ落ちた。


無数の光の欠片となって散り、埃の中へ吸い込まれるように、たちまち消えてしまう。


続いて、何かが床に倒れ込む鈍い音と、抑えきれない苦しげな咳き込みが響いた。


物置の扉が石原によって勢いよく開けられた。

内側に積まれていた古い額縁にぶつかり、鈍い音を立てた。

差し込んだ夕暮れの黄ばんだ光の中で、埃が激しく舞った。


石原はこめかみの鋭い痛みに耐えながら、扉枠に手をついて中へ踏み込んだ。

緒山もすぐあとに続いた。

二人の視線は、室内にいるその姿を一瞬で捉えた。


朝日守は、壁際の埃の中に座り込んでいた。

背中はわずかに丸まり、片手でどうにか体を支えている。


窓から差し込む鈍い光に照らされた顔は、ぞっとするほど白かった。

額にかかった髪は冷や汗で濡れ、肌に張りついている。

物音に気づき、彼はひどくゆっくりと顔を上げた。


淡い茶色の瞳には、驚きも狼狽もなかった。

ただ、底の見えない疲労だけが沈んでいる。


「……君たちか」


掠れた声だった。息も弱かった。


そのあまりにも静かな反応に、石原と緒山はわずかに息を呑む。


朝日守の視線は、二人の顔の上に数秒とどまり、それからゆっくりと、まだ自分でも抑えきれずにかすかに震えている自分の指先へ落ちていった。


「最初に……君たちが病院に葵のお見舞いに来たあと……」


一度、息を継いだ。

声は途切れ途切れだったが、それでもどうにか筋道を立てて話そうとしていた。


「そのときから……少し、変だと思ってた。生徒会が、あんなふうに何度も来るほど暇なわけない」


口元をわずかに引きつらせたが、笑いにはならなかった。


「それからは……能力を使ったあと、帰る前に、入口とか窓のあたりを確認してた」


視線が、今まさに石原と緒山が立っているあたりへ向けられた。


「埃が……少しだけ払われた跡があった。ほんのわずかだけど……自然に積もった筋とは、違ってた」


そう言い終えると、目を閉じる。

それだけの説明を続けることすら、もうきつそうだった。


「今日は……もう、それを確かめる力も残ってなかった」


緒山はすでにしゃがみ込み、彼と目線を合わせていた。

いつもの柔らかな笑顔は消えていて、強く寄せた眉の奥に、まっすぐな心配だけが滲んでいる。


「朝日くん……今日はどうして、あんな無理をしたの? さっきの自分が、どれだけ危ない状態だったか……分かってる?」


朝日守は答えなかった。


物置の中には、荒く不規則な呼吸音だけが響く。

遠くで雷が鈍く鳴り、空の色がさらに暗く沈んでいった。


彼は視線を逸らし、無理に立ち上がろうとしたが、二人に止められた。

それでようやく、ぽつりと口を開いた。


「葵が……先週末から、あまり安定してなくて」


言葉を選びながら、続けた。


「医者は……一時的な波だって言ってた。だから、前よりちゃんと休ませて、感情も……あまり大きく揺らさないようにって」


一度、目を閉じた。喉が小さく鳴った。


「それでも、笑ってはくれるけど……夜になると、痛くて眠れないことが増えてて。見てても……どうすることもできなくて……俺は……」


そこで言葉が詰まった。

肩が、抑えきれないように小さく震えはじめる。


緒山は、膝の上に置いた手で、スカートの裾を強く握りしめていた。


石原には、はっきり見えていた。

「病状が悪くなっている」と聞いた瞬間、彼女の瞳が、まるで見えない針で深く刺されたみたいにきゅっと縮まったことを。

無意識のうちに、かすかに首まで振っていた。


【緒山朋奈の感情:喪失感24#$*%?】


そのまま崩れてしまいそうなところまで追い詰められていたからか、朝日守は、途切れ途切れになりながらも、自分の能力のことを初めて他人に語りはじめた。


「俺は……偽物の天体現象を作れる。ほんの狭い範囲だけど。星空とか、オーロラとか、流星群とか……葵はそれが好きで、面白い手品みたいに思ってる」


開いたままの掌を見つめる。

その目は空ろで、それでもなお、どこか頑なだった。


「でも……“彗星”だけは……何度やっても、いや、何度試してもできない。軌道も、光も……あの、長い尾を引いて夜空を横切る感じが……どうしても、掴めない。作れないんだ」


悔しさをぶつけるみたいに、自分の太ももを軽く叩く。


石原は扉の枠にもたれながら、春野たちと連絡を取っていた。

こめかみの痛みは少し引いていたが、胸の重さはむしろ増していた。


朝日守の話を聞きながら、その顔色が一言ごとに暗くなっていくのを見ていた。

そして、これまで見過ごしていたいくつかの手がかりが、ここでようやく繋がっていった。


「朝日くん」


石原は静かに声をかけた。


「その能力……代償があるんじゃないのか」


朝日守の体が、びくりと固まった。


「……違う」


返事は早かった。

だが、顔は上げないままだった。


石原は追及しなかった。


「……俺の見間違いかもな」


一拍おいて、続けた。


「最初に見たとき、帰り際に腕を扉の枠にぶつけてた。かなり強く、な。

でも、眉ひとつ動かなかった。まるで、痛みを感じてないみたいに」


朝日守の呼吸が、わずかに乱れた。


慌てて顔を上げ、何か言おうとした。

だが――ちょうどそのとき、窓から差し込む光が彼の顔を照らしていた。


「今もそうだ。光が目に入ってるのに、まばたきしてない」


石原の声は変わらず落ち着いていた。


「それに……病院のときも――」


「……やめろ」


低い声で遮られる。


石原は言葉を止めた。


朝日守は、小さく息を吐いた。

固く握っていた拳を、ゆっくりとほどく。


「……その通りだ。感覚が……鈍くなってきてる」


「朝日くん」


緒山が、ふいに問いかけた。


「あなたが作っているあの星空……もしかして、自分を絵の具にして作り出しているんじゃない?」


言葉が落ちたあと、室内は静まり返った。

外では、ぽつぽつと雨の音がしはじめていた。


「……それが、なんだ」


朝日守はふいに顔を上げた。

ふらつきながらも、無理に立ち上がる。


その目には、強い意地だけが宿っていた。


「葵が喜ぶなら――それでいい」


絞り出すように、さらに続けた。


「彗星は……絶対に見せる。葵がちゃんと見られて、まだそれで笑えるうちに!」


緒山は口を開いた。

けれど、言葉は喉のところで塞がってしまう。重く、胸を押しつぶすようだった。

石原は、何も言わなかった。


「朝日くん……」


緒山が、ふいに口を開いた。

声は少し震えていた。


「葵ちゃん……この前、病院でね。私の手をぎゅっと握って、こんなこと言ってたの」


その言葉に、朝日守の身体がぴくりと揺れた。

視線が、ゆっくりと緒山へ向く。


「――『お兄ちゃん、時々すごく疲れた顔してるの。なんだか、すごく重たいものを背負って歩いてるみたいで……』」


緒山は、言葉をひとつずつ大事に置くみたいに、静かに続けた。


「『だからね、あの“星の手品”も、いつも無理して見せてくれなくていいの。お兄ちゃんがもう少し笑って、ちゃんと休んでくれて……たとえ隣でぼーっとしてるだけでも、わたしは、いちばんきれいな星空を見るよりずっと嬉しい』って」


そこでいったん、言葉を切り、埃っぽい物置の空気の中へ、そして朝日守のきゅっと縮まった瞳の奥へ、静かに沈んでいくのを待つ


「それから……こうも言ってた」


緒山の声は、もう震えていなかった。


「『わたしが一番ほしい“奇跡”は、空の星なんかじゃなくて……お兄ちゃんが、ずっとちゃんとそばにいてくれること』って」


朝日守は、よろめくように半歩下がった。

背中が冷たい壁にぶつかり、鈍い音を立てる。

口を開いたが、声にはならなかった。

ただ、目だけがみるみる赤くなっていく。


「“彗星”でも、完成された星空でも――それはお前が葵に贈りたいものなんだろ。でも、贈る側が壊れちゃだめだ」


朝日守の揺れる目を見ながら、石原がそこで静かに言葉を継いだ。


「どこまでが限界かは、まだ分からない。でも――お前が倒れたら、葵さんはどうなる」


「俺は……」


喉に引っかかるような声だけが漏れた。


「お前が見せたあの星空が、葵さんにとって……これから先ずっと、二度と見たくないくらい苦しい思い出になるかもしれない」


朝日守は、その場にしゃがみ込み、膝を抱え込むようにして顔を埋めた。


緒山は少しだけ身を乗り出す。

目には、まっすぐな切実さが宿っていた。


「他にも、できることはあるよ」


やわらかい声だった。けれど、そこにある芯は揺らがなかった。


「たとえば……能力を使う回数とか、時間をちゃんと決めること。

それに、私たちも一緒に考える。葵ちゃんが楽しみにできること――本物の星を見られる機会とか、面白い天文の映像とか」


少しだけ息をつき、それから続けた。


「そうやって、あなたが背負ってるものを、少しでもみんなで分けたいの。こんなふうに、自分を傷つけながら、一人で抱え込まなくていい」


もう一歩、まっすぐ踏み込むように言った。


「朝日くん。本当の“完全”って、星空に彗星があるかどうかじゃない。

その星空を作る人と、それを見上げる人が……これからも、ちゃんと元気で一緒にいられることだと思う」


朝日守は、しばらく二人を見て、それから、ゆっくりと視線を落とした。


まだ感覚の鈍い指先を、ぼんやりと見つめる


顔に張りついていた、あの偏った意地のようなものが、少しずつ引いていった。

代わりに浮かんできたのは、深い疲れだ。

そして、その疲れの底に、かすかな希望がほんの少しだけ覗いていた。


一度、目を閉じて。

もう一度、開いた。


さっきまで燃えていた激しい光は、もうそこにはなかった。


朝日守は、すぐには何も言わなかった。

長い、長い沈黙だった。


外では、降り出しそうで降り出さなかった雨が、ついに降り出していた。

激しく窓を打ち、埃を洗い流すように、絶え間なく。

その音が、少しずつ部屋を満たしていった。


「……俺、どうすればいい」


石原と緒山は、短く視線を交わし、少しだけほっとした。


「まずは休もう」


緒山が、はっきりと言った。


「ちゃんと休むこと。今日はもう、それが一番大事」


少しやわらかく、けれど迷いなく続けた。


「今日はここまで。私たちが家まで送るか、ちゃんと安心して休める場所まで一緒に行く。

能力のことも、これからどうやって葵ちゃんを支えていくかも、ゆっくり話し合っていこう」


そして、ほんの少しだけ微笑んだ。


「生徒会のみんなもいるから。みんなで一緒に考えよう。朝日くん一人じゃないよ」


雨音の中で、朝日守はようやく、ほんのわずかに頷いた。

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