第五十話
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【七月二日・火曜日・昼休み】
【生徒会室】
石原の報告書と、緒山が補った観察記録が、生徒会室の長テーブルの中央に静かに置かれていた。
紙の上に並んだ無機質な文字だけでは、旧校舎の物置で目にした、あの胸を揺さぶられるような、そして不安を掻き立てられる光景を、とても再現しきれなかった。
室内の空気は、いつもより重かった。
窓の外の蝉の声さえ、どこか空気を読んだみたいに小さく聞こえる。
「つまり、今俺たちが向き合ってるのは……」
春野が沈黙を破り、指先で報告書をとんとんと叩いた。
「朝日守は、病気の妹のために、自分を削るような能力を使ってる。――妹が望む星空を、作り出してるってことだよな?」
そう言って顔を上げ、視線をその場のみんなへ巡らせた。
「全部はっきりする前に、俺たちはどんな立場で関わるべきだと思う?」
その問いをきっかけに、意見の食い違いが静かに浮かび上がった。
「このまま見てるだけなんて、できません!」
真っ先に口を開いたのは立花だった。焦りのせいで、声が少し上ずっていた。
「報告にもしっかり書いてありましたよね? 能力を使うたびに、まるで中身を根こそぎ持っていかれたみたいになってるって!」
彼女はぎゅっと拳を握りしめ、下唇を噛んだ。
「葵ちゃんが大事なのは分かります。でも、朝日先輩自身はどうなるんですか? もし……妹の夢を叶えるために、自分を削り続けた末に、最後は消えてしまうようなことになったら……」
その声は、最後にかすかに震えた。
「せめて伝えるべきです。私たちはもう気づいてるって、一緒に方法を探せるって……!」
最後の一言には、ただの心配ではない、身に迫るような切迫さが滲んでいた。
「立花の気持ちは分かる」
春野は落ち着いた声でそう言い、彼女をなだめるように続けた。
「けど、代償の正体がまだ分からない以上――それが一時的な疲労なのか、それとももっと取り返しのつかないものなのか、まだ見えてない。
そんな状態で不用意に踏み込むのは危ない」
言葉を慎重に選びながら、彼は続けた。
「“妹のために頑張れ”って背中を押すのも、“今すぐやめろ”って止めるのも、前提が間違ってたら、かえってもっと深く傷つけるかもしれない。
今は、観察を続けるのがいちばん安全なやり方だと思う」
「その“安全なやり方”って、危険が積み重なって、手遅れになるまで見てるってことですか?」
立花が、珍しく会長に食い下がった。目の縁がうっすら赤くなっていた。
「リスク管理と情報収集の観点から見れば、会長の判断には筋が通っている」
花野が静かに口を挟んだ。その声音は、熱を帯びかけていた空気に冷水を差すようだった。
「現時点では、まず観察して、それから評価する。それが最善の手。
ただし、あなたの懸念も重要。――はっきりした危険信号が出たとき、私たちにどこまで介入する権限があるのか。そして、どうやって介入するのか」
彼女は石原へ視線を向けた。
「石原の“観測”は、今ある中ではいちばん鋭い指標」
理性的な整理によって、議論の枠組みそのものは整う。
けれど、室内を満たす重苦しい空気は、まだ誰の胸からも消えなかった。
緒山が、そっと息を吸った。
自然と、みんなの視線が彼女へ集まった。
彼女はずっと俯いたまま、組んだ自分の手を見つめていたが――そのとき、ようやくゆっくり顔を上げた。
「……会長と、真汐ちゃんの言いたいことは分かります」
いつもより低い声だった。話す速さもゆっくりで、ひとつひとつの言葉を胸の奥で確かめながら口にしているようだった。
「情報を集めて、知らないまま誰かを傷つけることを避ける。そういう考え方が間違ってるとは思いません」
そこで一度、言葉を切った。
視線は窓の外、遠い空へ向けられていた。けれど、その先を見ているようではなかった。
「でも……」
ゆっくりと視線を戻し、春野を見た。
「もし、代償を払ってる本人が、そのことさえ気にならないくらい没頭してしまっているのだとしたら……」
少しだけ間を置いて、緒山は静かに続けた。
「そのとき、外から見てる私たちの“冷静な観察”や“データ集め”って……それ自体が、ひとつの残酷さになってしまうんじゃないですか」
その言葉に、室内は再び静まり返った。
春野は緒山を見た。
珍しく強い温度を帯びた彼女の言葉に、彼は自分の方針をもう一度見直していた。
数秒の沈黙のあと、彼はやがて小さく頷いた。
「……分かったよ、緒山」
そう言ってから、石原へ向き直った。
「石原。お前の判断がいちばん直接的だ。
“状態が危険な域まで一気に悪化するのを防ぐ”――そこを最優先のラインにするなら、お前の能力で前兆を掴めるか?」
石原はその視線を真正面から受け止め、迷いなく答えた。
「できます。あいつの変化は、タグを見ればはっきり分かる。
様子がおかしかったら……俺と緒山さんがすぐ動きます」
「なら、基本方針は維持だ。引き続き葵との関係を築きながら、支えられるところを支える。
石原と緒山は、朝日守の観察を続ける。異変が見えたら、もう議論は挟まない。すぐに接触して介入する。最優先は、まず本人の安全確保だ」
「了解です」
石原と緒山が同時に応じた。
「私も、佐藤ともう少し連絡を取ってみます。中等部のほうで、葵ちゃんのために何かできることがないか……」
立花が小さな声で付け加えた。先ほどよりは、少しだけ感情が落ち着いている。
方針は決まった。
それぞれが、自分のやるべきことをはっきり理解していた。
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【七月八日までの数日間】
その後しばらくのあいだ、どこか危うい均衡が、かろうじて保たれていた。
生徒会のメンバー、とりわけ緒山と石原は、葵のもとを訪れる回数を増やしていた。
持っていったのは、ただの見舞いの言葉だけではなかった。手描きの星空のポストカードや、簡単な天文模型。ときにはタブレットを使って、天文台で撮影された星空の映像を一緒に眺めたりもした。
葵の笑顔は相変わらず明るく、みんなと過ごすうちに、顔色もほんの少しだけ良くなったように見えた。
そんな中で、葵と緒山のあいだには、ほかとは少し違う親しさが芽生えていた。
葵は緒山の手を引いて、窓の外のなんでもない雲を指さしながら、「あれ、どこかあの星座みたい」と無邪気に言う。
緒山はそれを静かに聞きながら、ときどき学校での出来事を話して聞かせていた。
葵を見つめるとき、緒山はいつもやわらかな笑みを浮かべていた。
あるとき、葵がふいに緒山へ言った。
「朋奈お姉ちゃんって、ときどき空をじーっと見てるよね。あれって、一生懸命、雲をひとつひとつ覚えておこうとしてるんでしょ? わたしが夢で見た星を、忘れないように頑張るみたいに!」
緒山は一瞬、言葉を失った。
けれど、葵のまっすぐな瞳を見つめると、すぐにまた笑って、そっとその髪を撫でる。
「だって、葵が好きな星空も……葵と一緒にいる時間も、すごくきれいで、大事で、宝物みたいだから。だから、ちゃんと覚えておきたいの。ひとつだって見落としたくないくらいに」
その言葉は、あまりにも自然で、あまりにもまっすぐだった。
葵は嬉しそうに、にこにこと笑う。
その一方で、朝日守の観測は静かに続けられていた。
彼の現れる時間帯や行動の流れ自体は、変わらなかった。
だが不安だったのは、能力を使う頻度が、少しずつ増えていたことだった。
一回ごとの時間は短いままだったが、そのぶん消耗の痕はますますはっきりしていった。
そして、あの決定的な夕暮れが訪れた。




