第四十八話
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音楽室の扉は半開きになっていた。
中には埃をかぶった古い机や椅子、それに使われなくなった楽器のカバーが積み上がっている。
高い位置の、汚れた窓から差し込む夕陽が、埃をかぶった床にくすんだ光の筋をいくつも落としていた。
緒山は窓辺まで歩いていき、外を確認するように視線を向けた。
そのままそこに立つ姿は、髪の先にいたるまで静かに佇んでいる。
廊下の奥で、足音が一度だけ止まる。
何かを察したような、ほんのわずかな間があった。
それからまた、こちらへ近づいてきた。
【緒山朋奈の感情:緊張46%&*】
――来た。
緒山は声にせず、口の動きだけでそう告げた。目がきらっとしていた。
石原はすぐに意識を研ぎ澄ませる。
廊下に響く足音は、埃に溶け込んでしまいそうなほどかすかだ。
それでも確かに、一歩ずつこちらへ向かってきていた。どこか急いでいるような足取りだった。
そのとき、緒山が小さく息を吸い、そっと手を伸ばしてきた。
石原の脇に下ろしていた手を、静かに包み込む。
石原の手はびくりと跳ねた。反射的に引こうとしたが、彼女はしっかりと握ったまま離さなかった。
見上げてくるその表情が語っていた。――私と計画を信じて、と。
石原は動きを止めた。
すると緒山の指先がそっと力をこめるようにして、彼の手のひらへなじんでいく。
妙な感覚が腕を伝って広がっていった。
半身がわずかに痺れるようで、イヤホンの奥で流れていたはずのピアノの音まで遠のいてしまう。
緒山はそのまま石原の手を引き、音楽室の扉をそっと押し開けた。
まるで今しがた中をひととおり見終えて、これから出ていくところだったかのように自然な足取りだった。
ちょうどその瞬間、数歩先に――朝日守がいた。
細身の男子生徒は、目に見えて動きを止めた。
この時間、この場所で教室から誰かが出てくるとは思っていなかったのだろう。
いっそう深く顔を伏せ、身体を少し横へ逃がすようにした。
「あ、ごめんなさい!」
緒山が絶妙なタイミングで、やわらかく声を上げた。
石原の手は離さないまま、もう片方の手をそっと胸元に添え、唇をかすかに結ぶ。
「外に人がいるって気づかなくて……もしかして、邪魔しちゃったかな?」
そう言いながら、握っている石原の手に、指先だけでもう一度小さく力を込めた。
石原はその合図を受け取った。
手に残る感触をどうにか意識の外へ押しやり、顔を上げて朝日守を見る。できるだけ自然に見えるように。
「……いや、別に」
声は低かった。
朝日守はほんの一瞬だけ目を上げ、繋がれた手と、片耳ずつ分け合ったイヤホン、それから石原のぎこちない表情をまとめて視界に入れたあと、すぐにまた目を伏せた。
【朝日守の感情:警戒40#@《%》^】
その感情ラベルは、石原が以前ちらりと見たときと同じだった。
そのまま去ろうとした彼の足を、緒山が引き止める。
「あの……君も、ここに“あれ”を見に来たの?」
その言葉に、朝日守の身体がはっきりと強張った。
「……何を?」
さっきよりも低い声でそう返し、彼は二人を見た。
緒山はふっと笑うと、今度は石原の手を放し、その代わりに腕にそっとしがみつくようにした。
さっきよりも、さらに距離が近かい。
彼女が口を開くたび、吐息が首筋をかすめるのがわかった。
「最近、このへんの窓辺で、黄昏どきになるとすごくきれいな光のにじみが見えるって聞いたの。夢みたいだって」
そう言って、いったん石原を見上げ、それからまた朝日守へ視線を戻す。
その目はただ純粋に、学校の怪談めいた噂話に興味を持っているようにしか見えなかった。
「私たちもそれを聞いて、ちょっと気になってこっそり見に来たんだけど……今日はまだ見えなくて。君なら何か知ってるのかなって思って」
声はふわりと軽く、本当にその手の噂にわくわくしているみたいだった。
石原も背筋を伸ばし、合わせるように小さく「……ん」と相槌を打った。
視線だけは、真っ直ぐ朝日守へ向けたまま。
朝日守はその場に立ったまま、さらに顔を伏せた。
声は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。
「……知らない。たぶん……光の加減だと思う」
少し間を置いてから、ぎこちなく付け足した。
「俺は……ただ……通りかかっただけだから」
そう言い終えると、それ以上問いかける隙を与えることもなく動き出した。
壁際をなぞるように二人の横をすり抜けていく。
すれ違いざま、肩がドア枠にぶつかって小さくない音を立てたが、それでも振り返りはしなかった。
そのまま彼は足早に廊下の向こうへ去り、背中はすぐに階段の曲がり角へ消えた。
足音が完全に遠ざかるまで、石原と緒山はその場に立ち尽くしていた。
やがて廊下は、また元の静けさを取り戻す。
緒山が小さく息をつき、石原の腕から手を離した。
声色も、すぐにいつもの真面目な調子へ戻っていった。
「……警戒心、かなり強いですね。回避傾向もはっきりしてる」
小さくそうまとめて、眉をわずかに寄せた。
「私の問いかけには明らかに反応してた。特に“光のにじみ”の話を出したとき、全身がぴんと張ってた。否定はしてたけど……反応だけでも十分ですよ」
石原は頷いた。
心拍はまだ完全には戻っていなかった。腕には、さっきしがみつかれていたあたりの温度が、まだ残っている気がする。
「感情ラベルも……かなり不安定だった。半分くらいは、ずっと文字化けしたままだった」
「それに、あのまま向かった方向も、主校舎や校門じゃなかった。旧校舎のもっと奥……別の行き先があるのか、ただ私たちを避けたかっただけか」
「……ああ」
緒山は顔を上げる。
もういつもの笑みに戻っていたが、頬の赤みだけはまだ少し残っていた。
「初回接触としては十分じゃないですか。“現象”との関連はかなり濃そうだし、状態も不安定。それが確認できただけでも、今日の目的は達成しましたね。お疲れさま、先輩」
そう言って、彼女は笑いながら軽くまばたきをひとつした。
「じゃあ、戻りましょうか。イヤホン、返して?」
差し出された手を見て、石原はようやく自分がまだ片耳にイヤホンをつけたままだったことに気づいた。
中の音楽は、もうとっくに止まっている。
あわてて外して渡した。
指先がかすかに触れ合う。
「ありがと」
緒山は受け取ったイヤホンのコードを丁寧に巻き取り、バッグへしまった。
二人は肩を並べて旧校舎を出た。
外の空は藍と橙が溶け合うような色をしていて、吹いてくる風には夏の夕暮れらしい、かすかな涼しさが混じっていた。




